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『現実・弁証法・言語』V

東西「粗忽長屋」物語
哲学者の言語解釈――七転八倒するルフェーブル
チョムスキー文法論の逆立ち的性格
学術用語は〈科学言語〉ではない
夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析

 

 東西「粗忽長屋」物語

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 一 〈表現〉の理論はすなわち〈像〉の理論である

 チェスタートンはその傑作『奇妙な足音』で、芸術も犯罪もその中心は simple なところが特徴だとブラウン神父にいわせているが、私は理論的妄想もまたしかりといいたい。素朴端的に持ち出されれば決して信じられないような妄想が、学術用語をちりばめ複雑多彩に学問らしく装って展開されると、学者と名のる人びとがこれこそ最新最高の理論と感激の涙を流すという光景が、あちらにもこちらにも見受けられる。落語の登場人物の言動として語られれば、そのバカらしさを軽蔑するであろう学者たちが、実は学問上それと同じバカらしさを実践しているという事実について、読者が心えておくことも無駄ではないであろう。

 落語の世界にはそそっかしい人間がいろいろ出てくる。そそっかしい大名やそそっかしい家老やそそっかしい使者などがからみ合って珍事件を展開する。『粗忽長屋』はそそっかしい人間ばかり住んでいる長屋での、とびきりそそっかしい熊さんと八さんの物語である。八さんは行き倒れになった男の死骸を見て、それが熊さんに似ていたので、あわてて長屋へとんで帰って、熊さんに「おまえは行き倒れになっていたぞ」と注進する。「そりゃたいへんだ、引きとりに行こう」とおどろいて出かけた熊さんは、人垣をかきわけて死骸を眺め、自分であることを確認してその死体を抱きあげたが、ふと気がついて、「この死骸はおれにちがいないが、抱いてるおれは一体誰だろう?」といったというのが、サゲである。人間は自分自身を客体化して客観的に認識できるから、近く結婚する青年は式場で自分が彼女とならんでケーキにナイフを入れているありさまを想像したり、死期の近づいた病人は自分の死骸に子どもがとりすがって泣いているありさまを想像したりしている。熊さんは想像において客観的に位置づけた自分の死骸のありかたを、現実に死骸が存在しているかのように錯覚しただけのことであって、そそっかしいにはちがいないが起こりうることである。さらにポオの『ウィリアム・ウィルソン』に至っては、現実に自分の向こう側に別の自分が存在し、それに苦しめられた結果それを殺してしまうという物語が書かれているが、これはポオがアリストテレスの二重霊魂説に関心を寄せていたことと無関係ではあるまい。アリストテレスは人間のうちに二つの理性を区別し、一つは有限であり一時的であって個人に属し個人と生死をともにするが、いま一つは永遠で個人の肉体から分離するものである。熊さんの言動をアリストテレス的に解釈すれば、永遠の理性としての熊さんが自分の死骸を抱いているということになる。私は熊さんの言動に、言語における一人称の認識構造を解明するための手がかりがあると見て、『粗忽長屋』の話を『日本語はどういう言語か』(一九五六年)の中でとりあげておいた。

 日本語の〈おれ〉は、フランス語の〈je〉である。だから一九五〇年代にヌーヴォ・ロマンをめぐる評論の中で、「この文学作品の中にいるのは〈je〉にちがいないが、作品を書いたのは一体誰だろう?」と熊さんぶりを発揮する作家や評論家が出現したばかりでなく、言語学者や哲学者などがそれに同調して『テル・ケル』のグループが生れたと聞けば、おやおやフランスに「粗忽長屋」が実在することになったのかと思い、フランス人の中にこのグループに対する嘲笑が珍しくないと聞けば、落語を実演しているのだから当然だろうと、こっちも笑いたくなるのである。日本人には、フランスの最新流行だといわれるとすぐにとびつく文化的コンプレックスがあるから、これらフランスの熊さん八さんのいいぐさを、最新の文学理論ないし言語理論としておしいただき商品化する連中が出現した。これまた「粗忽長屋」の住人としての資格充分であって、『思想』一九七二年二月号の特集〈言語と人間〉にズラッとならんだ論文を見たときも、おやおやここにも「粗忽長屋」が実在しているぞというのが、正直な感想であった。

 文学はいうまでもなく言語表現の一つのありかたであるから、文学理論を建設するには〈表現〉についての本質的な理解をふまえなければならない。マルクス主義文学理論と称するものは、この本質的な理解をふまえなかった点でマルクス主義に違背していたし、その点では後に述べるルフェーブルも同じである。〈表現〉の構造をたぐっていくときにもっとも大切なことの一つは、大正における現実的な側面と観念的な側面とを混同しないようこまかく心をくばりながら、両者の結びつきをたぐっていく態度である。夢に出てくるオバケは、夢の外の立場からすれば観念的な創造物であっても、夢を見ている者の夢の中の立場からすれば現実的に客観的に存在しているのであって、立場を区別しなければいっしょくたにしたりとりちがえたりすることになろう。夢と意識してい見る夢すなわち想像で、自分の死骸を眺める場合も同じことがいえる。フランスや日本の「粗忽長屋」の住人たちのいいぐさを読むときにも、この混同によってあるいはタダモノ論になりあるいは観念論になっていることを見ぬけなければ、いっしょにふみはずしてしまうことを心えておく必要がある。

 そんなわけだから、まず〈表現〉について簡単に述べておくことにする。われわれが〈表現〉とよんでいる対象は、音声言語の空気の振動とか、文字言語の紙の上の描線とか、映画のスクリーンの上の映像とか、TVのブラウン管の蛍光面上の映像とか、文字通りそれぞれ現実的な世界である「表」に「現われ」ているところの存在である。この「表」に対して意識されているが、とりもなおさず表現した人間の頭の中に存在した観念的な世界である。但しこの〈表現〉における「現われ」は、家の中の人間がドアから外へ現われてくるとか、海の中の沈没船を引揚げるとき海面に現われてくるとかいう場合とちがって、実体がとび出してくるのではない。作者の観念的なありかたが、現実の世界の物質的な材料を使って模写されたことをさしていて、この物質的な模写を通じて直接つかむことが不可能な頭の中の世界のありかたをうかがうことのできる、過程的構造が成立しているわけである。映画やTVは、いわば作者の目を通じて対象をいかに見たかという、のぞき窓を観客に提供しているわけである。ここで模写とは、原物に対する〈像〉を意味している。したがって〈表現〉の理論は、〈像〉の理論の一つの特殊の分野だということになるし、人間の認識としての〈像〉が持つ独自の構造とそれに対応する物質的な模写としての〈像〉との関係を正しくつかまないかぎり、〈表現〉の理論の建設が正しいコースにのったとはいえない。たとえマルクス主義の文献が引用してあっても、〈像〉を扱っていないような〈表現〉の理論には、まず眉にツバをつけてから立ちむかう必要があろう。

 〈像〉には、現実的な存在と観念的な存在とがあって、イメージの名のもとに両者を混同して隠蔽された観念論を提出する学者もすくなくない。太陽の光が、建築物や樹木や人間などにさえぎられて、地上にそれらの形をつくり出すのも、あるいはカメラのレンズをとおして、ピントグラスの上にそれらの映像をつくり出すのも、ともに一つの現実的な〈像〉である。これらの〈像〉は、建築物や樹木や人間とは別個に、地上やピントグラス上に成立しているけれども、建築物や樹木や人間が存在してはじめてそれらのありかたににた〈像〉が成立したのであるから、過程的構造を無視して論じるわけにはいかない。人間はその肉眼を使って、網膜の上にカメラと同じように外界の〈像〉をとらえ、さらにこれを脳によって認識すなわち観念的な〈像〉としてとりあげている。しかも〈像〉の特徴は、太陽のつくり出す影が端的に示しているように、たとえ現実的な存在であってもそれ自体を手で握ることができないところにある。スクリーンの上の〈像〉もブラウン管上の〈像〉も、その点では太陽のつくり出す影と変りがない。映画館の経営者は、シャミッソーの主人公と同じように、影を売って金を手に入れているわけである。

 〈像〉の過程的構造には、建築物や樹木や人間など諸実体がふくまれているけれども、これらの実体から形成されたところの〈像〉それ自体は何ら実体的なものではないから、それ自体として空中に浮かんでいることはできない。それをささえる実体的な担い手がなければならない。それが影の場合には大地でありカメラの場合にはピントグラスである。人間の認識の場合には脳細胞であり、〈表現〉の場合には空気であり、インクでありスクリーンであり蛍光面である。〈像〉の変化から過程的構造における実体を読みとるのが、日蝕や月蝕、あるいは暗黒星雲の問題である。したがってすべての〈像〉は、その形成の過程と担い手という相異なった二つの面の統一において検討されるべきであって、一面的な検討だけで解明したもののように錯覚してはならない。芸術理論が作者の観念的な世界を論じただけで片づけるなら、それは過程的構造を中途半端にとりあげているにすぎないし、言語理論が音声言語を音響学的に説明しているならば、それは担い手のありかたを自然科学的にとりあげているだけで〈像〉としての検討を抛棄しているのである。音声を音響学的に正確に再現する装置が、言語としての再現になるからといって、音響がすなわち言語だということにはならない。現実的な〈像〉のありかたは多種多様であって、多面的で複雑な過程的構造をかくし持っている〈表現〉の場合はその検討も容易ではないが、〈表現〉の理論を打ち立てるにはその検討を避けることはできない。それを検討するための論理を持ち合わせていないならば、何としても論理を獲得しなければならない。フランス流の論理にはそれが欠けているのである。。同じことが、観念的な〈像〉である人間の認識にもいえるのであって、対象からの反映という形成の過程と、担い手である脳細胞のありかたと、相異なった二つの側面を統一しながら検討されなければならない。パヴロフ的な生理学的解釈も、コンピュータと同視する情報科学的解釈も、正当な扱いかたとはいえないのである。

 現実的な〈像〉は、それぞれ特殊な時間空間において存在している。実体ではないから三次元の存在ではないが、彫刻や建築や俳優の演技などのように見かけが三次元的なものもあり、瞬間的に消滅するものもあれば数千年の長期にわたって存在するものもある。いま彫刻や文字言語のような、固定された〈表現〉をとってみよう。これらは太陽のつくり出す影とちがって、手で握ることができるかに見える。けれども手で握ったとすれば、それは〈像〉をささえている担い手と一緒に握ったのであって担い手なしの〈像〉を手で握ることはやはり不可能である。別のいいかたをするならば、石を刻んで創造した女性の姿にしても、それを創作した頭の中の女性像を立体的に模写したものとして、この観念的な〈像〉(イメージ)との関係においてそれを原物とした〈像〉とよばれるのだが、ここに〈表現〉における立体的な形式が成立しているだけでなく、これが同時に石それ自体の持っている自然物としての形式の一部でもあるという、直接的同一性(unmitelbareIdentität(マルクス『経済学批判序説』参照)における二重構造(客観的矛盾)が成立しているわけである。この彫刻の現実的な〈像〉の背後に、われわれは作者の世界像や思想を読みとるのであり、いわば現実的な〈像〉を止揚するところの追体験において、作者の観念的な〈像〉を鑑賞者の頭の中に同じく観念的な〈像〉として近似的に再現するのである。したがって、その現実的な〈像〉すなわち〈表現〉は、この鑑賞者の止揚を可能ならしめるところの、条件ないし手がかりを与えなければならないことになる。絵画の形式が抽象的でなければならぬとかいや具象的でなければならぬとか〈像〉のありかただけを争うこと自体、たとえ抽象を否定して具象を力説しようとも形式主義的発想でしかないわけであり、原物のいかんを無視して優劣を論じるのは不当である。

 名画の展覧会を開いて入場料をとるのと、名画それ自体を売買してかせぐのと、どちらも儲け仕事としては共通しているが〈表現〉としての扱いかたは異なっているし、それは〈像〉の特徴と無関係ではない。展覧会は観客の鑑賞すなわち追体験の対象たらしめることにおいて儲けるのであり、画商は〈表現〉を商品として儲けるのである。〈表現〉は〈像〉であるから、それだけを切りはなして売買することはできない。担い手といっしょに売買しなければならない。そこで担い手の特殊性が商品としての条件に入り込んでくる。そこから文学として追体験の対象としては同じでも、作者自筆の原稿と初版本と文庫本とでは値段が大きくちがうというような現象を呈することになる。これは〈表現の理論に商品の論理をそのまま持ちこむことができないぞという、暗黙の教訓にほかならないのであるが、〈像〉の理論を持たぬ「粗忽長屋」の住人がこの教訓を無視して『資本論』の商品の論理をそのまま言語表現に持ちこんだ事実については、またあとで問題にしよう。

 言語表現の背後には、作者の観念的な世界像が存在する。それがたとえフィクションの世界であっても、現実と同じく時間空間的な存在として読みとられる。赤ん坊がタイプライタのキイをもてあそんで偶然紙の上に印字されたとしても、それは〈表現〉でなく言語ではない。このように、言語表現の過程的構造としてすでに〈表現〉によって位置づけられ、言語表現を媒介して誰にでも読みとることが可能になっている場合の客観的で観念的な空間は、すなわち言語の内容としての空間であるから、これを言語空間とよぶことも許されよう。同じように映画空間とかTV空間とかいうこともできる。しかしながらフランスの熊さん八さんが説き、いま日本人もまねて口にしている〈言語空間〉なるものは、この意味での言語空間ではない。それは言語表現にとっていわば現実的な世界の中にのぞき窓の向うの存在として客観化された、作者の創造になる観念的な空間ではなくて、言語表現以前にすなわち作者の創造以前にすでに社会的に成立し与えられている言語規範が、この種の音声や文字を使うべしと規定しているその抽象的な認識での空間性をさしているのである。ソシュールのいう langue を「言語」と受けとるフランス人にとっては、langue が実は言語規範をさしているために、この「言語」がそれ自体として持っている空間をとりあげることによって、右のような〈言語空間〉論が否応なく出現する。具体的にいうならば、われわれが「宇宙」と紙の上に〈表現〉した場合に、読者はそこから作者の認識した無限の空間を読みとって、これを言語空間とよぶであろう。けれどもその〈表現〉以前に、「宇宙」という語彙はどんな概念に使われるのか、概念と文字の種類との対応を規定した規範を頭の中に持っているし、概念を駆使して思惟するときもこの文字表象をつけた概念を用いて概念相互を区別しなければならない。天文学者もSF作家も同じ規範を使うが、天文学の論文の言語空間とSFの言語空間とは異なったものだということになる。言語規範は作者個人から独立して社会的に成立している。したがって規範が「宇宙」という語彙に対応した一般的な概念を客観的に規定しているのを、規範すなわち「言語」として受けとると、「宇宙」は作者と無関係にすでに無限の空間を持って存在しているところの「言語」だという、〈言語空間〉論になる。

 もちろんフランス人にしても、まだ素朴に対象のありかたを受けとるときには言語を〈表現〉においてとらえ、「宇宙」というときには作者の認識における空間を追体験することになるのだと思っていた。ところが〈言語空間〉論にまで行くと、それがこれまでの素朴な・しかし正当な・言語観や文学観を根底からひっくりかえすものであることに気がつく。人間以前に言語や言語的認識があったのだというこの考えかたと、文学作品の中に〈je〉がいる以上作者としての〈je〉は存在しないという、文学すなわち言語はあるが作者すなわち人間はいないという熊さん的発想とが、理論的に結びついて確信を深めていく。そこで「粗忽長屋」の人びとは、常識的にまず観念的な世界が成立してそれからそれを言語によって〈表現〉すると考えたり、また人間が言語をつくってそれを使うのだと考えたりするけれども、それはまちがっているのだと口々にさけびはじめることになった。結局フーコーにいたって、言語が「宇宙」の創造者であるという言語学的世界観が公然と登場し、「学問的研究においても思想の領域においても、人間という観念そのものを無用にする」方向に向かっているだから、われわれは一九世紀以来のヒューマニズムとよばれる思想を破りすてるべきだとさけんで、マルクス主義とも公然と対立したのである。

 言語表現のための規範は、精神的な交通を成立させるために社会的に成立する約束で、個人から個人へと受けつがれる。ある作家が文学を創造するときに使う言語規範にしても、親兄弟をはじめとする他の人間から与えられ受けついだものであって、彼の創造する言語空間に対して先行している。この言語規範が一つの体系(システム)となって個人から先行している事実を、〈言語の世界〉とか〈言語の構造〉とか名づけてさも現実的な存在であるかのように思いこみ、人間が社会的に形成したのを人間以前から存在した〈言語の全体の構造性〉の中にすべての人間が介入するかのように解釈し、これこそが本来的な〈言語と人間との関係〉でこの介入によって〈言語空間〉が人間のものになるのだなどと、「粗忽長屋」の人びとは論じている。かつては、自然と芸術とをいっしょくたにして、自然を紙の芸術であると解釈する、神学的発想が支配していた。これはとりもなおさず、自然のさまざまな形式を紙の精神の〈表現〉として・〈像〉として、受けとったものである。現在でも、フーコーをうのみにする熊さんがいて(森本和夫『イメージとしての言語』――『国語の教育』一九七一年一一月号)、「世界がイメージによって織りなされているということは、世界は言語によって織りなされているということになる。」とか「もちろん、山も語り、海も語るであろう。なぜなら、それはイメージなのだからである。」とか、自然と言語とをいっしょくたにした、自然の背後にその作者の観念を想定する偽装した神学をふりまわすのだから、開いた口がふさがらない。フランス狐にだまされるなどは、少しも賞められる話ではない。

−p.219−

 二 フーコーいわく、表現主体は空虚な非存在である

 形式論理的に事物を扱うならば、熊さんが死骸を抱きながら発した疑問に対して、「抱かれている死骸が〈おれ〉である以上、抱いているおまえは〈おれ〉ではない。」と答えなければならない。熊さんにしても、いったんそういう答えを出してみて、抱いているのが〈おれ〉ではないという結論に経験的に疑いをかけたのである。この場合、別に長屋のフランス人たちが、「抱いているおまえは〈おれ〉ではないのだから、もうそこに抱いている〈主体〉はいないのだ。主体は解体し飛散してしまったのだ。」と教えても、熊さんはおそらく納得しないで、自分を指し、「ここに抱いている〈主体〉がいるじゃないか。」とあくまでも主張しつづけるにちがいない。時枝誠記ならこの主張を支持するであろうが、中村雄二郎はフランス人のほうに賛成するであろう。

 一人称の性格についての時枝の見解は、『国語学原論』(一九四一年)に見ることができる。「『私』といふのは、主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたものであつて、主体自らの表現ではない。客体化され、素材化されたものは、もはや主体の外に置かれたものである。」といい、「これを譬へていふならば、画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描く処の主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家彼自身であるということになるのである。」と、絵画の場合と論理的に比較している。同じ問題に当面しながら、時枝は「粗忽長屋」の住人のようなオッチョコチョイではなかった。アンチロマンの本質を明らかにしたものと長屋の住人たちから評価されている、ミシェル・ビュトールが、いわゆる「非人間化された純粋視線」について論じて、「私が〈je〉と言ったり書いたりするとき、それは〈on〉なのです。それは普通よりももっと無人称的な〈on〉なのです。」と、表現主体を非人間化してしまったのと比較しても明確である。私はスターリンの言語学論文を批判した『なぜ表現論が確立しないか』(『文学』一九五一年二月号)で、右の時枝の見解に対してつぎのように書いておいた。

「時枝氏は、言語における『主体の客体化』を、自画像を描く場合と本質的に一致するものと見た。自画像を描く場合、われわれはどういう方法をとるだろうか? 鏡にむかってそこに映った自分のすがたを描きとるのである! 鏡のなかの自分を『もはや主体の外に置かれたもの』として扱うのである。前に説明したように、これを描いているのは『自画像を描く画家彼自身である』が、それと同時に、観念的には彼自身でなく、傍観者としての他人の立場に移行しているのである。時枝氏は表現の主体が客体化された主体と区別されなければならないことを『極めて重要』であると力説し、またこの主体が同時に現実の話し手自身であることをも認めているが、客体化された主体に対する表現の主体が、観念的な自分自身の二重化であることを論理的に明白に打ちだしてはいない。この二重化が確固として把握されれば、表現の主体は現実の主体の場合もあり、また観念的な主体にもなり、観念的な主体としてさらに無限に変化し(小説や戯曲の文章や会話のように、作者は登場する各人物それぞれの主体につぎからつぎへと移行していく)、ひとつの文のなかにおいてさえ主体が観念的に移行しあうことも、理論的にハッキリと示すことができたはずである。『主体の客体化』という言葉だけをながめると、観念論のようにみえるからわからずやの非難をうけやすいし、またここで誤ると観念論に顛落(てんらく)することにもなるのだが、何をのべてあるかを理解してそれを正しく仕上げることが必要なので、表現の主体を客体化された主体として区別したこと、言語理論にこのような主体の概念を導入し、『展開の重要な基礎』としたことは、時枝言語学の功績の一つである。」(強調は引用者)

 ロブ=グリエの『消しゴム』が出たのは五三年である。私は別にずっと後にフランスで「粗忽長屋」が生れようなどとは予想していなかった。ただ哲学者がかつてふみはずしたように、言語学者にも踏み外す危険のあることをいいたかっただけであって、時枝のいいぐさを借りるなら、事実が「あとからくっついて」来ただけのことである。時枝は経験を重視しただけに、一人称や自画像の場合に現実の話し手や画家が〈表現〉しているという事実をとりあげたのであった。ソシュールの langue説を信じたフランス人はそこから転落して行ったけれども、時枝はソシュール理論を拒否していたからそこからの転落も防げたのであった。ところが時枝がこの世を去った現在、日本の「粗忽長屋」の住人の中には、フランスの長屋の住人にならって、「時枝の『言語過程説』における『主体』『表現』などの概念をラカンやデリだの手法を導入しながら解体」(坂部恵『欧米語と日本語の論理と思考』――『思想』一九七二年二月号)しにかかる者も出現しているしまつである!

 要するにここでは形而上学的解釈を与えるのではなく、表現主体の向う側にいるのは「私」だが、表現主体もまたそれとは別の「私」であることを認めるとともに、両者がどのようにちがいどのように成立するかを説明することが、求められているのである。鏡に向うたびに、われわれが「非人間化された純粋視線」になるのかどうか、フランス崇拝者に聞いてみたいし、それで漱石の「猫」の一人称が説明できるかどうか聞いてみたい。私にいわせれば簡単なことである。「猫」が「吾輩は……」というとき、それはフィクションの世界の中での猫の生活記録であるから、一人称で表現される「吾輩」は中での現実的な生きた猫であって、それを見ている表現主体はその現実的な猫から観念的に分裂し二重化した別の猫であるといわなければならない。この表現主体が同時にフィクションの世界の外では、意識的に猫になって夢を見ながらペンを走らせている人間、すなわち漱石である。一人称のとき〈je〉が向う側にいるという理由で、それに対立する表現主体を視線だけ残して否定してしまい、〈je〉と表現する作者が作中の人物を〈vous〉と二人称でよぶ場合にも、やはり表現主体はいないものと考えなければならない。「私」も「あなた」も、どちらも客体であるからには、両者は同列であるばかりか、表現主体が存在しないのに、言語それ自体が「私」になったり「あなた」になったりするものと解釈しなければならない。正しくは、観念的な主体がつぎつぎと各人物に移行して登場人物としての表現を行い会話を交すのも、すべて言語それ自体の自己運動と解釈しなければならない。そこで、「言語はもはや言語表現ではなく、何らかの意味の伝達者でもなく、生な存在としての言語の陳列、露呈された純粋の外面性なのであり、語る主体はもはや言語表現の責任者であるよりは、非存在、その空虚のうちにおいて言語の無限の溢出(いっしゅつ)がたえず遂行される非存在なのである。」とフーコーは主張するのである。文学は〈表現〉ではなく、主体は空虚な非存在なのだ、と説明しなければならぬ論理的な強制が不可避なのである。

 『エスプリ』誌の主筆ドムナックは、論文『構造主義の登場』の中でつぎのように指摘している。

「ミシェル・フーコーの極端なテーゼ――これは大衆によく覚えられており、彼自身その一般化に力を貸したものだが――つまり個人思考に対する集団言語の優越性、『人間は死んだ』という主張は、もう一〇年あまりも前に、『ヌーボー・ロマン』と特に『ヌーボー・テアトル』のなかで表明されているものなのである。

 すでにアラン・ロブ・グリエは、作者と登場人物双方の主張を粉砕し、かわりに非認証的『まなざし』をもってきたがこれはフーコーが文化の諸時代をみるときのまなざしと同じなのだ。サミュエル・ベケットになると、もっと強烈にその主人公にこういわせる。『私は言葉から、他人の言葉からできている。』『私は存在していない。これは周知の事実だ。』さらにイオネスコにおいては、これは『反世界』となり、ミシェル・フーコーの『外側からの思考』を予告することになる。」(伊東守男訳)

 フーコー自身もシャプサルとの対話で、ヌーボー・ロマンの連中と同じ長屋の住人であることを認めている。

「フーコー ……ラカンの仕事が重要な意味をもつのは、彼が精神病患者のことばや、その神経症の徴候を通じて語っているのが――被検者という主体ではなくて――、言語の構造、まさに言語という体系それ自体だという、そのメカニズムを示したからです。あらゆる人間存在、あらゆる人間的思考に先立って、すでに一つの知識、一つの体系が存在し、人間はそれを再発見するものだということになりましょう。

シャプサル しかし、それでは誰がその体系を分泌するのですか? 

フーコー 主体をもたず名をもたぬこの体系は、いったい何でしょうか。何が思考するのでしょうか。《私》が解体し、飛散し(現代の文学をごらんなさい)――《そこにある》が発見されたのです。そこに無人格的のものon)があるのです。ある意味でわれわれは一七世紀の観点に戻るのですが、神のいた場所に人間を置くのでなくて、ある無名の思考、主体なき知識、身許不明の理論を置くところがちがいます。」(佐々木明訳)

 人間は科学的思考によって未来の夢を意識的につくりあげ、衛星中継や宇宙飛行などをも実現している。想像能力を人間的に駆使し、また言語規範をつくり出して、文学の傑作や偉大な思想の叙述が可能となった。精神病者は想像能力や言語規範を自己の支配下におくことができなくなり、逆にこれらによって支配されるという病的状態にあるために、妄想を描きうわごとを語るのである。ラカンはこの病的状態を正常の状態にスリ変えて特殊性を不当に普遍化し、これと文学理論における表現主体不在論とを結びつけて、話し手が言語を駆使するのではなく話し手なしに〈言語の主体〉すなわち言語規範が勝手に自己を顕在化することがここで証明されている、と結論づけた。人間は言語表象のついた概念を意識的に駆使して考えるのではなく、逆に言語規範それ自体が人間に考えることを強制するのだというわけである。こうして文学の作者ばかりでなく人類全体が精神病者といっしょくたにされ、あらゆる人間の思考否あらゆる人間の存在以前に、すでに〈体系〉が従って〈認識〉が存在しているという、露骨な観念論に到達せざるをえなかった。私が『構造主義者の妄想』(『試行』27号、一九六九年三月)で書いたように、「これが客観的観念論であることくらいは、マルクス主義者ならすぐにわかるから、フランス共産党のガロディにしてもルフェーブルにしても、よってたかってフーコーをやっつけにかかったのである。」

 客観的観念論では、物質が究極的な存在ではなくて精神のかたちを変えたものでしかない。精神と物質との本質的な差異は抹消されてしまっている。だからその意味での物質が客観的に存在することを認めていくら論じても、ヘーゲルと同様にそれは正しい意味の唯物論ではない。但し中村雄二郎はそうは思わないのである。論文『哲学のことばとことばの哲学』(『思想』一九七二年二月号)で、彼はフーコーのいう〈マテリアリズム〉をかついでいう。

「またかれは、言説=出来事としての『出来事』を、『物体の秩序には属していない』が、『けっして非物質的なものではなく』、『物質レヴェルで結果を生む』ものであるという興味深いとらえ方をし、したがって、『出来事の哲学』は『非物体的なマテリアリズム』にほかならない、とも述べている。

 ここにわれわれは、言説(言語表現)の次元をふまえた実践的な新しいマテリアリズムの立場をみることができよう。客体化と疎外とを同時にふくむ言語の問題を正当にくぐりぬけるとき、そこに論理と意識の哲学をこえた新しい哲学の地平が開けることが、これまでの考察からほぼ明らかであってみれば、この実践的な新しいマテリアリズムの企ての示唆するところは、決して小さくはないはずである。」

 なるほど、そのうちに、神が天地万物を、言語規範を創造したまい、それによって人間が言語表現を行ったとき、「物質レヴェルで結果を生む」のだという「実践的な新しいマテリアリズム」を説く新興宗教もででくることであろう。そして古代の言霊論もこうした〈マテリアリズム〉だということになろう。中村に漱石の「猫」の認識構造を説明させて、〈マテリアリズム〉文学論を聞いてみたい気がする。ついでにいっておくが、本物の唯物論の立場から、一八五一年のフォイエルバッハはすでにつぎのように述べていた。

「もし人が、世界を、感性的、物体的な世界を、ある精神の思想と意志とを通じて発生させることを恥としないならば、また事物はそれが存在するゆえに思惟されるのではなく、思惟されるから存在するのだと主張して恥じないならば、人はまた世界を言語を通じて発生させることを恥としてはならないし、また事物が存在するから言語があるのではなく、事物は言語のあるゆえにのみ存在するのだと主張することも、恥としてはならない。」

 言語があるゆえに「物質レヴェルで結果を生む」というフーコー的〈マテリアリズム〉の正体は百年以上も前に暴露されているのである。中村や森本がこの種の発想の受け売りを「恥として」いないことはたしかである。フーコー的な偽装された神学の本質を看破したこの唯物論者にくらべて、今日の哲学者は何と不勉強で鈍感であることよ。

 ここで日常生活ではたいへんそそっかしい一人の女性を、紹介したい。彼女の名は、ルーシー・カーマイケルである。思わず腹をかかえるエピソードがたくさんあるのだが、『ルーシー・ショウ』の一篇『ルーシーはペリーメイスン』を見よう。このTV映画で彼女は、ムーニー氏の愛犬が夜吠えて安眠妨害だと告訴する。すなわち原告である。だが弁護士を依頼する金がないから、自分で弁護士も引受ける。こうして、弁護士ルーシーが原告ルーシーを承認ルーシーとして訊問することとなった。ルーシーは証人席について証人としての宣誓を行うが、このとき原告も弁護しも実体としては存在しない。宣誓が終るとルーシーはたちまち立ち上(あが)ってくるりと向き直って証人席に対し、弁護士としてそこにいるはずの証人に向って訊問するが、このとき証人は実体としては存在しない。訊問が終るとルーシーはたちまちくるりと向き直って証人席に腰を下(おろ)し、前にいるはずの弁護士に向って証言し、それが終るとたちまち立ち上ってまたもや弁護士として訊問する。つまり、法的な人格としてはたしかに二人いるのだが、それは実体としては現実的な生きた人間として一人でしかないという、客観的な矛盾が形成されているために、裁判の進行においてこのような珍場面が展開したのである。さて問題は、このときの一連の言語表現を言語理論としてどう説明するかである。個々の言語を文法的に説明するのではなく、訊問と証言という内容的に結びついた全体の言語表現を、表現主体をとりあげながらどう説明するかである。

 法的には証人と弁護士と二人の人格が存在することを認め、証人の証言と弁護士の訊問とを別個のものとして区別する点で、実体として二人いる場合と変りない。別のいいかたをするならば、現実的な生きた話し手は一人しかいないけれども、法的な表現主体としては二人存在すると見ることが合理的と認められているのである。これを説明する方法は一つしかない。同じ生きた話し手が、表現主体としてまったく対立した立場に観念的に移行して、その立場で表現するのだという説明である。フランスの「粗忽長屋」的解釈からすれば、このノン・フィクションの言語表現で証人がまず宣誓を求められ、「私は……」と一人称で語りはじめたとき、すでに彼女は「純粋視線」となってしまって空虚な非存在でしかないし、その場合弁護士すらも現実的に非存在である。それゆえ言語表現の主体としては証人も弁護士も存在しないで、そこにはただ言語の無限の溢出(いっしゅつ)が遂行されているし、たとえ偽証をしても罪になるのは「純粋視線」であり非人間だという結論になろう。また俗流唯物論的解釈からすれば、たしかに言語の語り手はいるけれども、それはいつも同一の人間でしかないから、そんな言語を証人の〈表現〉と弁護士の〈表現〉という対立した二人の表現主体の発言に分類するのは不合理だ、という結論になろう。つまりどちらにしても、証人と弁護士と二人の表現主体を認めることは拒否されるのである。このようにフーコー的〈マテリアリズム〉はほかならぬ俗流〈マテリアリズム〉の裏返しを意味しているとわかれば、「この実践的マテリアリズムの企ての示唆するところは、決して小さくない」ことも、それなりに理解できようというものである。但し、もし法廷で、宣誓した表現主体は「純粋視線」で人間でなく空虚だとか、証人も弁護士も表現主体として非存在だとかいう者がいれば、裁判官はもちろんルーシーにも嘲笑されて、法定侮辱罪に問われるかつまみ出されるかするであろうことも、確実である。

 落語家もルーシーと本質的に同じことを高座でやっている。つまり、物語の人物としてはたしかに三人いて、熊さんと八さんと横町の隠居がつぎつぎとあらわれるのだが、実体として現実的な生きた人間としては小さん(こさん)や柳橋(りゅうきょう)一人でしかないのである。フランスの「粗忽長屋」の住人たちがこれをどう説明するか、その説明を聞いた落語家がどんな顔をするか、これまた見ものにちがいない。

−p.229−

 三 『資本論』の論理の安易な押しつけ

 自然・社会・思惟という異なった諸分野における異なった存在、たとえば大麦・社会主義・微積分が、共通した『否定の否定」とよばれる論理によってつらぬかれていることを、弁証法は指摘する。異なった存在を共通した論理が貫いているならば、ある存在から抽象した論理は他の存在の論理をとらえるための指針として、研究の方法として役立つわけである。しかしながらそのためには、それぞれの特殊性を慎重におさえねばならない。特殊性の検討を怠けて安易に論理をもてあそぶなら、すぐ詭弁や妄想に転落してしまう。マルクスが『資本論』で見事な論理を展開しているのに心を奪われて、ひとつこの論理を〈表現〉の研究に役立てようと思い立った者は、フランス人が最初ではない。北条元一の『芸術認識論』(一九四七年)もその一つである。私は当時これを批判した(論文集『認識と芸術の理論』所収)が、この『資本論』の論理の適用が失敗した所以も、やはりそれぞれの特殊性の慎重な検討を怠ったところにあった。

 『資本論』でとりあげた商品も、言語論でとりあげる言語表現も、ともに労働の所産であることはいうまでもない。音声言語の空気の振動や文学言語の紙の上の描線は、咽喉(いんこう・のど)や手を労働手段とする肉体労働なしには存在しないし、石の記念碑に文章を刻むに至っては職人の長時間の重労働を必要とすることも明らかである。しかし商品と言語とは、〈像〉の問題を無視して比較するわけにはいかない。どんな重労働で文字を刻もうとも、そこに生産されるのが物質的な〈像〉であるという点では、紙の上にペンを走らせる場合と同じなのである。

 文字言語たとえば文学は、紙に印刷されて手から手へ渡され、貨幣のうちでも紙幣は、やはり紙に印刷されて手から手へと渡されるのだから、これらを同じように扱っていいだろうか? いま詩を作者に無断で写真製版し印刷して、海賊版をつくって売っても、その印刷物が原作と同じく文学であり〈表現〉であることは否定できない。それが〈像〉として忠実な模写であるからには、担い手であるインクや紙が原作のそれと異なっていても、〈表現〉であることを何ら傷つけていないと認めなければならない。これに反して、紙幣たとえば一万円札を、われわれが写真製版し印刷するならば、〈像〉として忠実な模写であり原物と同じ種類の紙やインクを使ったとしても、それは偽造品である。なぜなら一万円札は、印刷された紙幣全体が一つの実体として紙幣とよばれるのであって、たとえ印刷の部分を〈像〉として別の紙片の上に複製したところで、もはや紙幣としての資格を失っているからである。だから〈像〉の理論なしに言語と貨幣を比較すると複製芸術は〈表現〉として偽造品だとか、偽造紙幣も本物と同じように価値を持つとかいう解釈を、暗黙のうちに提出しかねない。労働で生産されるという共通点を不当に誇張して、〈表現〉と商品とを安易に対応させて論じないように自戒する必要があろう。フランスの「粗忽長屋」には、熊さん八さんならぬ愚(グー)さん(Jean-Joseph Goux)というそそっかしい人間がいて、言語と商品とを安易に対応させた珍妙な適用を大まじめにやってのけ、文字言語と貨幣とを同じ論理構造として扱い、さらには言語表現における〈剰余価値〉の〈搾取〉まで論じている。

 『資本論』の論理は、いうまでもなく商品およびその展開する論理であって、生産的消費から消費的生産にいたる現実的な生活の生産における生産と交通とが構造的にとりあげられている。すなわち物質的な論理で終始一貫している。さらに、「種類を異にする諸商品の等価表現のみが、種類を異にする諸商品のうちに含まれている・種類を異にする・諸労働を事実上それらの共通者に――人間的労働一般に――還元することによって、価値を形成する労働の独自な性格を現出させるのである。」(第一章)から、あらゆる商品はこの還元によって量的にのみ異なった価値として扱われることになり、それを生産した労働も抽象的・人間的労働としての性格を受けとるのであって、還元しようがしなかろうがすべて物質的であることに変りはない。それでは言語表現の論理はどうか。もっとも単純なノン・フィクションの場合、たとえば野球の実況放送や日記などにしても、対象の現実的な世界を観念的な〈像〉で実体的に把握しさらに現実的な〈像〉をつくって〈表現〉するという、中間に認識(非物質)をサンドウィッチした三層構造から成る〈像〉の形成の論理であって、物質的な論理で終始一貫しているわけではない。この差異はきわめて重要である。さらに、商品の価値も言語の意味も、ともに超越的だという点で一致しながら、多くのちがいがある。価値は自家用の生活手段には存在せず、商品として他の商品と関係づけられてはじめて成立するのだが、言語の意味は自家用の秘密の記録や日記にも存在する。価値は種類を異にする諸商品に共通した等質のものであるが、言語の意味はたとえ同じ語彙に属したものでもすべて異質である。価値は還元の条件が変化することによって変動し消滅することもあるが、言語の意味は固定していて変化することがない。価値を持たぬ自家用の生活手段もその有用性に変りはないが、赤ん坊がタイプライタのキイを押した印字のような意味を持たぬ存在は言語としての有用性をもたない。こう見てくるならば、『資本論』における商品の使用価値と価値との関係を直ちに言語の音声ないし文字と意味との関係に押しつけた、愚さんのやりかたがどんなに無茶な解釈学であったかは、具体的に検討しなくても大体想像がつくというものである。

 なるほど、たしかにマルクスは商品を象形文字にたとえている。商品の価値を象形文字の意味に対応させている。けれどもそれはどちらも社会的生産物であり、他の人間のために生産されて交通に(物質的交通および精神的交通)入っていくということを念頭に置いているのであり、その交通の必要が言語の場合にどんな特殊な性格を与えたかまで詳しく論じてはいない。商品の場合には価値を形成する実体を、言語の場合には意味を形成する実体を、明らかにしなければならぬという論理的な共通点を自覚すること、それ自体はまったく正しい。しかし、マルクスは価値を形成する実体を特殊な労働に求めたから、われわれも意味を形成する実体をやはり別の特殊な労働に求めねばならぬのだ、ということにはならないのである。愚さんはここで simple なふみはずしをやったのだが、これがとてつもない妄想を不可避的につくり出すこととなった。

 商品の場合の価値は商品自体がふくんでいるし、それを形成する実体も物質的である。しかし言語の場合の意味は〈表現〉自体がふくんでいるとはいえ、その〈表現〉は〈像〉なのであるから、この〈像〉に対するところの原物こそ、意味を形成する実体でなければならぬことになろう。いうまでもなくこれは三層構造の中間にサンドウィッチされている作者の認識であって、物質的ではなく精神的な実体である。けれども愚さんは物質的な実体として特殊な労働をさがしもとめ、デリダいうところの「原エクリチュール」にすがりついて「エクリチュール労働」なるものを考え出した。この妄想はさらに発展して、「エクリチュール労働」の生み出す〈価値〉が論じられ、その〈剰余価値〉の〈搾取〉が問題になるというありさまである。肝心の、精神的な実体である作者の認識の質の問題や、精神労働の問題はそっちのけになった。北条元一の「徳利と花瓶との価値形態ごっこ」と愚さんの「エクリチュール労働搾取論」とは、まさに東西番付の三役にランクされるべきもので、下手な落語よりよほどおもしろいことを保証する。ここまで発展すれば、同じ「粗忽長屋」の住人たちでも、おかしいくらいのことはわかる。正しく批判し是正することはできなくても、愚さんのアナロジーは粗雑で問題の解決にはなっていないくらいのことは言えるのである。

 ところで『資本論』には、いま一つそそっかしい人間が安易にとびつきがちな論理がある。それは物神崇拝である。昔の言霊信仰に見られるように、言語表現に物神崇拝が存在することは周知の事実であるから、これを商品の物神崇拝と対応させて、『資本論』の論理を押しつけにかかるわけである。だが〈表現〉における物神崇拝は、何も言語に限ったことではない。ことわざに「仏つくって魂入れず」とあるように、名人の〈表現〉は魂が入っていると解釈され、落語にも名匠左甚五郎が彫った木の大黒がニタニタッと笑ったという話があるし(いまは名匠ならぬ〈左〉の雑文屋も言語論ブームに便乗してニタニタッとしているらしいが)、画家の屏風に描いた雀がぬけ出して室内をとびまわったという『ぬけ雀』の話もある。このような〈表現〉での物神崇拝は、〈と原物とを正しく区別できずにいっしょくたにしたものにほかならない。原物は前述のように作者の認識であるが、これが実体のままで「表」に「現われ」頭からぬけ出して、〈像〉ではなくなるものと解釈したのである。言語表現での言霊信仰も同じである。ただここで見のがしてはならないことは、この〈像〉と原物とのいっしょくただけが単純に生れる場合ももちろんあるが、それと結びつきそれを促進する別の観念的な疎外ないし対象化が存在しているという問題である。宗教的疎外が存在し、仏像に対する物神崇拝が行われているとすれば、木彫りの大黒が魂をもつという考えかたをしても別におかしいと思われないのである。言語表現には規範が存在し、観念的に対象化された意志からの強制を受けている。つまり目に見えない客観的な力が存在してそれに従わなければならない。それで言語表現も、霊をもっているだけではなく、目に見えない客観的な力を持つ霊を宿しているかのように解釈されるのである。

 言語規範は、「このような対象の認識にはこの種の音声を用うべし」と表現主体に要求する観念的に対象化された意志であり、〈表現〉以前の対象化であるから、〈表現〉によって聞き手に対する話し手の認識の対象化が行われることと関係はあっても、区別して扱わなければならない。もし言語規範を言語表現を支える対象化された意志として正しく位置づけることができなければ、愚さんのアナロジーを批判した日本の「粗忽長屋」の住人にしても、貨幣の物神化と langue の物神化を安易に対応させる「体制的価値意識」論を持ち出すことになるのである。竹内成明の『言語における〈疎外〉と〈物象化〉の問題』(『思想』一九七二年二月号)にいわく――

「前近代的な言語の〈物神化〉は、対象にたいする共同体的な価値意識が、ことばに物象化されてくるところに、その原因がある。……

 ラングは、もともと仮象的なものでしかない。それは、近代言語学――共同体的価値意識を否定する近代科学的イデオロギーによって「関与性」をあたえられた高次言語――が設定した仮説概念である。……

 けれども、近代言語学における高次言語の概念は、日常的・実践的経験としてあらわれる《意味》を、すでに捨象している。……

 したがって、近代的な高次言語においては、ラングが簡単に〈物神化〉される。ラングはすでに物象化された〈意味〉をもち、それによって高次言語は容易に》意味《を生みだすことになり、貨幣が物神化されるのと同じように、ラングもまた物神化される。近代的な言語の物神崇拝とは、ラングの物神崇拝にほかならないということができよう。

 以上の、日常言語とラングと高次言語の三つの次元における言語の〈物象化〉は、それぞれ言語による人間〈疎外〉でもある。」(強調は原文)

 憲法で人権を規定するときの「日本国民」が、老若男女や階級や人種を越えた抽象的な認識であることの合理性を理解するならば、同じく規範である言語規範で「人間」という音声や文字の種類に結びつけて規定する認識が、あらゆる特殊性を捨象してしまった抽象的なものであることも、何らふしぎだとは思うまい。学校の授業時間表の「英語」が具体的な授業のありかたを捨象してしまっているだけでなく、学生が時間表に追われて勉強し予習しているという時間表からの強制の存在についても、簡単に学校意志の対象化と理解できるはずである。〈表現のための媒介者としての言語規範は、表現主体の具体的な認識に対して、つねにこうした普遍的な観点から音声や文字を教示するのであって、前近代的であろうとなかろうと共産主義であろうとなかろうとこのことに変りはない。竹内はこれを近代言語学の罪状にした。「近代言語学は、言語を対象的世界からばかりでなく、世界に立ちむかう人間的態度、主体的な価値意識から切りはなすことによって、ラングの概念をたてたのである。」(強調は引用者)たとえ歪んではいても何とか言語規範のありかたをつかんだ近代言語学を、「仮象」だ「仮説概念だ」「主体的な価値意識が捨象されて、対象化されてきたもの」だと攻撃するのは、言語学を事実上後退させるものである。浴槽から湯といっしょに赤ん坊を流すのも、そそっかしい長屋の住人にふさわしい。言語規範論を拒否しても、現実はそれに代るものを「仮説概念」として設定するように、竹内に要求してくる。この論理的強制で、一方では言語規範をア・プリオリに設定するチョムスキーの変形文法論に抱きつき、他方では「現実の対象は、われわれにとって必ず一定の〈意味〉をもって存在している。」と〈シンボル能力〉形成の根拠を対象に求める精神分裂症的解釈が提出されることとなった。

−p.236−

 四 ルフェーブルいわく、langue は物質になってレコードの溝にふくまれる

 ルフェーブルが哲学者的オッチョコチョイぶりを発揮してソシュールに讃辞を呈していることは、私の「マルクス主義の復元」(一九六九年)でも指摘しておいた。構造主義者の原点と同じところに自分も立っているからには、構造主義者の言語論をたたいてみたところで、それを克服できるはずがない。おまけに、『資本論』を理解できず、マルクスの理論に歪めた解釈を加えさらにインチキな言語論を混入したという点で、愚さんのやりかたと逆になってはいるものの、『資本論』の商品と言語とを対応させた点ではルフェーブルが先輩で、彼も「粗忽長屋」の住人としての資格を充分にそなえているといわなければならない。自称マルクス主義者は、言語論ブームだからひとつ言語について何かいおうというときにも、同じく自称マルクス主義者にすがりつくのだが、ルフェーブルのマルクス主義哲学者という肩書きや、構造主義者をたたいていることに目がくらんで、ここにマルクス主義者の言語学が創造されているなどと思いこむのは大馬鹿のコンコンチキである。しかしながら、いろいろな発想を各方面からあれこれと集めて来て、ああでもないこうでもないとただオロオロしながら問題をひねくりまわしている大著というものは、謎解きを楽しむ者にとっておもしろい読みものであるから、謎解きの鍵を手にしている読者諸氏にその意味で推薦したいと思う。以下、『言語と社会』(一九六六年)(広田昌義訳)から、すこし問題をとりあげてみよう。

「記述表象(エクリチュール)は、この単語が持つ科学的な意味の分野で、注目すべき特性を持っている。時間的な(タンポレル)なもの(すなわち、言葉(パロール)、話す行為)が、同置性(シミュルクネイテ)に、すなわち、書かれた句、頁、書物の中に、投影されるのだ。時間的なものは、空間を占拠し、自らを投影することによって空間を方向づけるのである。空間の或る方向、或る配置(シメトリー)を選ぶことが必要になる。右から左に書いたり、あるいは、左から右に、上から下に、下から上にと、それぞれの文明に従って人は書くがその理由はまだよくわかってはいない。こうして、発音された文(フレーズ)のリズムやメロディーに、書かれた記号の結合物が対応することになる。アルファベットの文字や、シラブルが使用されて、発音が定着されるのである。

 ………………………………

 完成された録音技術(電蓄・録音機)は記述表現が教示するものを確立した。というより記述表現が教えるところを、実際に社会生活に出して見ることによって、はっきりさせたのである。同じようにつぎの事実がある。これはあまりに身近かなのでそのパラドックスが気づかれない。それは、音楽――これは哲学者たちの間では純粋な時間性(タンポラリテ)として通っていたのだが――もまた、レコードや録音テープに忠実に定着されているという事実である。

 哲学が持つ普遍へ向う努力は保持しつつ、古くからの問題を新しい用語で措定する人間は、右の事実に、非常に注目すべき図式(シェーマ)があるのではないかと、当然考えてよいのだ。……右に述べた事実においては、時間と空間はからみ合っていて、ひとつの明確な関係をつくっているのだ。この関係があるから、操作上の技術が可能になるのである。……録音技師が、レコードの上に一つのシンフォニーを定着する方式(そしてまたレコードが交響曲をその時間的展開の中に再生する時にこの方式が持つ可逆性)、あるいはまた、記述表現と文学に関する研究は、創造そのものの秘密を明らかにするところまでいかないにしても、創造行為のある面を捉えることを可能にするものではあるまいか? そうすれば哲学的可知性をより効果的に乗り越えることができるだろう。……

 ……時間的なものと空間的なものの交点(さまざまな交点というべきか)で、詳しくは何が起こっているか? どこで、どのようにして創造という行為が遂行されているのか? レコードの録音に立ち会ったり、レコードをプレヤーにかけてみても、そこから、どのようにして、時間的なものから同置的なものへの移行が行なわれるのか、また、何故それが可逆的なのか、われわれには分からない。われわれはそれについて考えてみなければならない。(強調は原文、以下同じ)

 これを見ても、フランスの言語学者は、音声言語と文字言語との相互移行がなぜ可能なのか、その理由を把握できずにいることが明らかである。そして、敏感な読者は、言語の相互移行録音から再生へと、二つの事実を「時間と空間はからみ合って」いることから共通だとして扱った点に、すぐひっかかるものを感じたにちがいない。「時間的な」音声言語を「空間的な」文字言語に投影するのは、一つの〈表現〉を形式のちがった他の〈表現〉に複製することであって、どちらも言語である点に変りはない。それに反して、「時間的な」音声言語や音楽を「空間的な」レコードや録音テープに定着するのは、一つの〈表現〉に伴う空気の振動を別の機械的な溝のかたちやテープの磁化に変えて固定化することであって、ディスクの溝やテープの膜面は言語でもなければ音楽でもない。これらは非表現である。同じく「空間的な」存在であり、同じく「可逆的」に見えても、前者は言語の本質に関する問題で言語理論がこれを解明し、後者は技術的な問題でエレクトロニクスの理論がこれを説明する。たとえ後者を説明できても、そこから前者を解明することはできない。二つはまったく別の問題だからである。

 ルフェーブルは現象にひきずられて、この二つのまったく異なった事実をいっしょくたにしたのだが、これらを同じ理論で解釈しようとしてそこからどんな抱腹絶倒的な図式の創造にすすんだかは、ここでは割愛することにした。前の事実については、私は論文『表現における「枠」の問題』(論文集認識と芸術の理論』所収)でも明らかにしているし、後の録音と再生の論理については『弁証法はどういう科学か』(一九六八年)で説明してあるが、ルフェーブルがなぜこれらの事実を正しく説明できなかったのか、その理由を考えてみたい。個別科学者は対象と徹底的にとりくむのだが、哲学者は対象ととりくむのではなく解釈しにかかる。エレクトロニクスの理論すらまともに理解しようとはしない。文字言語の書きかたにしても、少し注意してみれば、何も「文明に従って」いるとは限らないことがすぐわかるのであって、アメリカ映画を見た読者は気づいていると思うが、看板やネオンサインなどは大文字で上から下へ縦書きしてあるものがいくらもある。日本語で、横書きしてある現行を縦組みに変えることもしばしばであり、また「二〇字詰二〇行の原稿用紙に、それなりの『枠』を使って書かれた小説を、九ポ二七字詰で印刷しようと、あるいは一段組の単行本で発表された評論を、全集におさめるときに二段組みに変えようと、それらの現象的な変化は何ら表現の『枠』をかえたことにはならない。」のである。フランス語でもこれと同じようなことがいえよう。ではなぜこんなことが許されるのであろうか? 言語学者も文学評論家も、事実として知ってはいても理解してはいないらしく、理論的に説明した論文にお目にかかったことがない。ポオは『モルグ街の殺人事件』の中で、「心理は必ずしも井戸の中にはない。事実、重要な方の知識に関しては、それはいつも表面にあるものだと僕は信ずる。」とデュパンにいわせているけれども、この一見奇妙な「枠」のありかたに実は言語表現の本質をつかむための鍵が存在しているのである。レーニンのすきなことばに、「できないというな、したくないといえ、やる気があればできる」という金言があるが、やる気のない哲学者は目の前に真理がつきつけられていてもつかめない。

 この文字言語の「枠」の「空間的な」特徴は、すでに言語が特定の空間に束縛されないことを教えている。縦組みでも横組みでも、縦長でも横長でも、どういうかたちの空間を採用しても自由なのは、空間それ自体が何ら言語表現ではないからだとルフェーブルへは見ぬくべきであったのである。たしかに文字言語は視覚的なかたちを持ってそれなりの空間を占めているが、その視覚的なかたちそれ自体は言語表現ではなくて、それぞれの単語の種類としての一般的・超感性的な側面が言語としての〈表現〉なのである。だからこそ空間的に大きかろうと小さかろうと、山に火で描かれた「大」であろうとマイクロフィルムに撮影された「大」であろうと、文字言語として同じ語彙に属することになり、縦組みから横組みに空間的に配置変えをしたところで、何ら〈表現〉を歪めたことにはならないのである。同じように音声言語もそれなりの時間を持っているが、その聴覚的な音声それ自体は言語表現ではなく、音声の種類としての一般的・超感性的な側面が言語としての〈表現〉なのである。だからこそキイキイ声で口ばやにしゃべろうと低い声でゆっくり語ろうと、時間の長さは〈表現〉と直接関係を持たない。音声言語と文字言語とは、「時間的なもの」と「空間的なもの」との相互移行ではなく、まさに超時間的・超空間的なものの相互移行であるからこそ、誰でも簡単にやってのけることができるわけである。

 文字言語とディスクや録音テープとはまったく異質の存在であるにもかかわらず、「空間的な」点にひきずられてルフェーブルがいっしょくたにしたのはなぜだろうか? ここでわれわれは、彼が〈表現〉と非表現とを区別できない理論水準にいることに、目を向ける必要がある。現に彼は、〈表現〉という概念が哲学者や言語学者の間で一定しておらず、各人各説の状態にあることから、曖昧だ混乱だとオロオロしているだけで、とどのつまり「整頓しがたい混乱があることを強調しておくことにとどめよう。」といって検討を打切っているのである。自分の〈表現〉概念も持たないで言語表現の理論をもてあそぶところに、哲学者の哲学者たる面目が発揮されている。ディスクや録音テープは〈表現〉ではなく、それらに耳を押しつけても音楽は聞こえてこない。音楽が聴きたいなら、それぞれの録音の方法に即した再生装置を使い、録音の過程を逆の方向にくりかえして、ふたたび音波をつくり出さなければならない。そこに最初の現実的な〈像〉が再生・模写されている。この全体の過程は、〈表現〉→非表現→〈表現〉であって、弁証法でいうところの〈否定の否定〉である。ディスクや録音テープは〈第一の否定〉に相当している。弁証法ということばは使っても、ルフェーブルは官許マルクス主義と同じように対立物の統一は闘争において発展するものだとばかり思いこんでいて、音声や文字が時間空間的な非言語表現と超時間的な言語表現との対立物の統一であることや、録音・再生が矛盾の発展であることをつかめなかったのである。

 ソシュールが言語活動について langueparole を区別したように、ヤコブソンが codemessage を区別したことは、『構造主義の妄想』でもちょっと触れておいた。言語規範と、それの媒介で成立した言語表現とは、一方は頭の中の観念として、他方は現実的な音声や文字として、それぞれ別個に存在する。運転時刻表と、それの媒介で成立した列車の運行とが、それぞれ別個に存在するのと同じである。言語学者が両者を曲りなりにも区別して扱うようになるのは当然である。しかし区別してとりあげただけでは解決にならない。両者の媒介関係を明らかにしなければならない。ソシュールがそれを説明していなくても、ソシュールを支持する者は何とか説明しなければならない。時枝も、「今仮に、ソシュールがいふ如き、聴覚映像と概念との結合した精神的実体が存在するとして、かくの如き『言語(ラング)」と『言(パロル)とは如何なる関係に立つのであるか。」と問題を立てて、ソシュールの支持者小林英夫の説明の矛盾をついている。列車の運行から列車それ自体とは別の次元の運転時刻の規則性を読みとれるように、言語表現も語法なり文法なり規範の規定に従ってなされるのであるから、その媒介によってそこには表現主体の具体的な認識の過程からの現実的な〈像〉といっしょに、規範の現実的な〈像〉もまた別の次元で二重写しになって存在することになり、具体的な認識ばかりでなく語法も文法も読みとることができるlangueparole, codemessage の媒介関係を正しくつかむには、〈像〉の理論が不可欠である。それなのにルフェーブルは〈像〉として扱うことを拒否してしまっていた。「言語は自ら固有の法則に従っているが、それは自然の法則ではない。」というのは、語法や文法が人工の規範だという意味で正しいが、彼は表現主体の具体的な認識までも反映であることを否認しにかかった。

「言語の批判的分析の第一歩は、あるという動詞や、〈精神〉、意識自我自然などの用語から《存在論的》射程を取り去ってしまうことにある。……《である est》という単語とは何か? それはある《存在 étre》に、ひとつの性質、特質を帰属させる権利はもっていない。」、

 主体的表現である判断辞それ自体には、たしかに客体は反映されていないが、ルフェーブルは見るようにこのありかたをすべての言語に拡大した。そしてそこから「言語を《現実(レアリテ)》の反映あるいは写像とみなす哲学的理論」を拒否したのである。時枝が、主体的表現と客体的表現と二種の語が存在することを確認したのとくらべるなら、ルフェーブルがどんなにみじめな解釈哲学者でしかないかも、明白であろう。

 列車の運行が、運転時刻表から運転手が読みとった頭の中の観念的な時刻にみちびかれて行われるにもかかわらず、列車の運行の現実的な時刻がその頭の中の観念的な時刻がぬけ出して来たわけではないのは、家の建築が設計者の設計図から読みとった観念的なかたちや寸法にみちびかれて行われるにもかかわらず、現実の家がその頭の中の観念的なありかたがぬけ出して来たわけではないのと同じである。これらは言語理論にとっても教訓的である。ヤコブソンの理論が codemessage の媒介関係をどう説明したか、ルフェーブルは検討して、その結果を批判する。「認識行為は意外な形で、認識すべき《対象(オブジェ)》の中に現出するのである。その中に、認識行為が内在しているのだ。これが《内在性の原理》である。」列車の運行に運転手の観念的な時刻が〈内在〉しているというのと同じである。たしかに、認識である code が音声や文字の message に〈内在〉するというなら、精神的な存在が頭からぬけ出して物質の中に腰を下して(おろ)いることになり、観念論であることはたしかである。それではルフェーブル自身はどうか? 彼はソシュールが langueparole から切りはなしたままになっていることに不満を表明して、つぎのように自分の見解を述べている。

「言語行為(パロール)という行為を除外している言語=物が、記述表現(エクリチュール)の中に既に含みこまれているのではないか? より確実には、レコードによる録音の中に含みこまれているのではないか?」

langue が頭の外へ出て対象となるという論理は、ヤコブソンと変るところがないのである。

「言語(ラング)は言語=物の域を超えてしまう。それは社会的な対象(オブジェ)になる。意識に向って、反省の面で、言語は内容(言うこと、話しかける相手)と区別された形態となって現われる。文法家はその機能を論証し、その語形論を示し、その形態と慣用を教えはじめる。」

 列車が運行されて現実に駅に到着した時刻は、運転手の頭の中の時刻が頭からぬけ出して時刻=物となったのだ、というのと同じである。ヤコブソンとルフェーブルのちがうところは、頭の中からぬけ出して来た langue が精神ではなく物に化けている点であり、頭の中とはちがって〈形態〉化した対象となる点である。精神のままで文字に内在しようと、物質に化けて文字の形態にまで変化しようと、頭の中から精神がぬけ出すと認めているならば観念論に変りはない。プラスティックのディスクの溝に、精神の化けた物質が〈形態〉化されないままふくまれているなどと、これまた妄想番付の三役クラスに位置づけられるべき珍説ではないか。それが再生装置を通じてスピーカーから〈形態〉化して出てくるなどは、まさに電子工学者を卒倒させるに充分である。だから私は、こんな著作をマルクス主義と錯覚してかつぐ人間を、大馬鹿のコンコンチキといいたくなるのである。

−p.245−

 五 商品即言語、商品即 langue

 〈表現〉概念を持たない哲学者が言語表現について論じようとするには、やはりそれなりの概念を持たないわけにはいかない。正しい意味での言語表現だけでなく、それと不可分な「空間的な」非言語表現や、同じく不可分なそれらの担い手や、さらにはそこに存在していると信じている言語(ラング)=物までもひっくるめた概念をルフェーブルは持ち出すこととなった。これが discours(ディスクール) である。

 訳者広田昌義は「非常に内容豊富な言葉で、翻訳はほとんど不可能である。」といい、原則的に〈言語表現〉という訳語を採用しているが、内容が豊富なのではなく、異質のものがいっしょくたに入っているので、科学の用語としての資格をそなえていないのである。さきに〈表現〉と商品とのちがいをとりあげて、〈表現〉は〈像〉だから担い手を含まないのに、〈表現〉が商品になるときは担い手をふくまざるをえないことを指摘しておいた。ルフェーブルはポスターや新聞や書籍をとりあげて、「discours はそれ自体商品となる。」といい、この用語が〈表現〉のみならず担い手をもふくむことを示している。こんな用語を至るところでふりまわして理論らしきものを綴っているところにも、この著作の学問的水準を見なければならない。彼はこの著作の終り近くに、バルトのことばを使って「要するに、discours とは言語(パロール)の零度である。」と強調し、「神秘主義を導入したという非難が、われわれに与えられるかもしれない。そうではない!」というのだが、異質のもののいっしょくたを正しく分離してとらえる能力がないために、何か思いついた解釈でごまかすのだから、非難するほうが正当である。

 社会における物質的交通と精神的交通は、商品と「表現」に部分的ではあるが共通した論理構造を与えることになった。『資本論』の論理から言語理論が学びとるのはその点である。ルフェーブルはそうではない。彼は商品それ自体を言語と見なすのである言語と見なすからには、商品にもやはり langue がなければならないことになる。言語における langue が頭からぬけ出して物質に化けると考えている彼のことであるから、商品における物質的な langue を想定するのに躊躇するはずはない。

「われわれの眼の前にあるのは、同時に可感的でありかつ抽象的な、一つの領域、商品の世界である。それは独自のやり方で、すなわち特定的に、ひとつの記号体系、ひとつの言語、ひとつの記号学の場を構築している。それはわれわれに語りかける。それは何と説得的かつ強制的な、非常な雄弁であろうか……。

 ……商品としての財物は、それをわれわれが自分の家に、自分のために持っている時の言語体系(ラング)とは別の言語体系(ラング)とは別ので語るのである。前者はわれわれの言語体系(ラング)であり、われわれの言語行為(パロール)であり、われわれが押しつけているものである。商品の言語体系(ラング)は、われわれに押しつけられるのである。飾窓、店の並んだ商店街は、すぐにわれわれに商品の言語体系(ラング)を教え込むのである。ものは物神化され、人を蠱惑し、内容とは無関係に示される形態としての物を偶像崇拝することを強制する。その偶像崇拝によって、各記号はより強固に意味サレルモノと全体の意味(サンス)とに結合するのである。言葉の行為――店主が飾窓の後側で行っていること、彼の飾窓の飾り方とその目的――の方へ注意を向けることも可能だが、それはわれわれの関心を惹かない。メッセージは通行人に向けられている。ものの言語はかならずしも地味なものとは限らない。簡潔と貧弱がそれにはつきものであるしばしばある。しかし常にではない。華麗で高価なものは、そのまま陳列されて、それだけで十分に効果的である。

 ……商品の世界の魅力が過度に強くなり、刺激的なものが蠱惑的なものに変ると、それは疎外の特別に奇妙な一変種となる。この視線を惹きつける蠱惑的状態においては、(強い欲望に対して)陳列されている商品は、もはやまさしく記号以外のなにものでもない。約束されてはいるが手の届かない享楽の記号である。その内容(人間の労働)と意味サレルモノ(欲求、欲求の充足)とは見えなくなる。視線は、純粋状態の、憑依的な、病的幻影に近い、意味スルモノの中へと没入するのである。」

 われわれの日常の生活手段の大部分は、人間が頭の中で設計し表象化した存在を現実の世界の中に創り出したものである。大はマンションから小はホチキスの針に至るまで、いずれもその意味で設計者の〈表現〉としての性質を持っているが、われわれはこの現実的な〈像〉を二義的なものと見てその担い手の側に重点を置いている点で、絵画や彫刻のように〈像〉を一義的なものと見ているのとは区別しなければならない。この、商品がいずれも〈表現〉としての面を持っていることと、商品を販売する店の主人がそれらをたくみに陳列するところに主人の商品陳列の設計の〈表現〉があることをいっしょくたに扱って、商品は parole だと主張するわけである。〈表現〉とは何かを明確にできないルフェーブルにとって、異なった表現主体による異なった〈表現〉をいっしょくたにするのはこれまた当然である。マルクスは比喩的に亜麻布に〈商品語〉(Warensprache)を語らせたが、それはその価値関係についてであった。そしてルフェーブルに目につくことは、陳列された商品が貨幣を恋して貨幣に語りかけているところの〈価格〉とよばれる〈商品語〉の発展形態について、彼は何も語っていないのである。

 商品やその陳列などは非言語表現なのに、それらをすべて記号といい言語とよぶのであるから、このような扱いかたではすべての芸術は結局は言語だということになろう。フランスで〈映画言語〉ないし〈映像言語〉論がのさばるのは、あたりまえである。マルチネは、langue に〈記号素〉(意味を持つ単位)と〈音素〉(意味を持たぬ音の単位)と〈二重の分節〉が存在するといい、これこそすべての言語に共通でこれが欠けていたのでは言語でないと規定した。ルフェーブルはこの考えかたを受け入れただけでなく、精神的存在も物質的存在もおかまいなしに、あらゆるところに〈分節〉を見つけ出しにかかったのである。

分節という概念は、知覚されるもの、読まれるもの、すなわち、可感的経験や社会的事象(テキスト)をよりよく把握するための助けとなり得るものではないだろうか? わたしが街中を歩く。飾窓と飾窓の中の品物がわたしに合図(シーニュ)をする。それらのものは、沢山の記号(シーニュ)であって、それが集まり、わたしに、甘く心を惹くような discours をしかけてくるのだ。扉、窓、各側面、〔建物の〕飾り、それらもまた記号(《意味素》)ではないか? わたしはそれらの集まりや、その集合の意味を知覚したりしなかったりする。これらの要素的な記号に対して、家や街並は、超記号であり、超対象(オブジェ)である。都会はそれ全体として眼に見えないが、それが提供する、記号と意味作用(シニフィカシオン)の諸分野においては、可感的になり、読解不可能になる。われわれの眼の前には、二つ、あるいは三つものレベルが分節しあっているのだ。」

 discours は商品となり権力の道具となって堕落するが、parole はそうではないとルフェーブルはいう。「discours は、こうして、貨幣による疎外と商品世界とを完成する。」音声言語と文字との相互移行、discours が売られてラジオやTVから parole として商売のために使われることは、ここでは無視されている。俗流唯物論者は言語規範はもちろんのこと、同じく意志の観念的な対象化である道徳や掟や法律などの体制における役割をも、認識論的に扱えない。これらが discours としてあらわれる現象しかつかめない。そこで「商品と商品の(したがって貨幣の)世界の際限ない奢(おご)りを止める行動」として彼は「創造的言葉行為(パロール)」をよびかける。対象化された意志をめぐる政治闘争とは把握されていない。これではマルクスも、彼の商品論にインチキな言語論を混入した理論的公害行為は怪(け)しからぬと憤慨するだけでなく、それでは『ドイツ・イデオロギー』で批判した哲学者どもと同じではないかというであろう。

 サルトルは実存主義ではあっても、言語以前に言語と無関係な意識を認め、これが〈表現〉されると考えた。赤ん坊を子細に観察するなら、誰でも同じ結論を出すであろうが、ルフェーブルはそれを背理だといってメルロー=ポンティに共感する。「魂と身体との関係、『精神』と『物質』との関係についての……これらの問題は哲学的思弁によっておそらく誤って設定されたものであり、解決不可能なものなのだ。」「マルクスはプラトンからヘーゲルにいたる(ヘーゲルも含む)までの、《観念論的》傾向も、《唯物論的》傾向も、同時に否認した。」たしかにマルクス主義を不可知論的に解釈しないかぎり、頭の中の langue が頭からぬけ出して物質化しプラスティックのディスクの溝にしみこんでいるのだという珍説を、マルクス主義だと主張するわけにはいかないであろう。一方ソシュールはといえば、「実に偉大な学者」と賞讃されたのはうれしいであろうが、頭の中に貯蔵された財宝である langue が現実の商品のありかたとしていたるところにバラまかれていると聞かされては、卒倒するにちがいない。

(『試行』36号、一九七二年六月に発表)

 

 哲学者の言語解釈――七転八倒するルフェーブル

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 マルクス主義哲学者ルフェーブルは、『美学入門』(一九五三年)『日常生活批判』(一九六一年)など、理論的創造を目ざした著作をいくつか公にして来たが、それらは多くの破綻を示していて、マルクス主義的方法を駆使する能力のどの程度かを疑わしめるものがあった。『言語と社会』(一九六六年)についても同じことがいえるのである。この中では、言語学者の諸理論を彼なりに吟味して、ソシュールやヤコブソンの〈二元性〉に対して〈三元性〉で「残りもの」と思われるものを加えようとするのだから、言語学の欠陥を是正するどころか反対にますます珍妙な解釈学をでっちあげる結果となってしまった。

 もちろんルフェーブルは自分がマルクス主義者だと信じているし、『資本論』の論理をつかんでいると思いこんでいて、それを言語研究に役立たせようと意図している。彼は「還元の三つの試み」として、〈弁証法的還元〉(マルクス)〈現象学的還元〉(フッサール)〈言語学的還元〉(ソシュール)をあげるのだが、マルクスとソシュールを「方法のモデルを与えてくれる」ものといい、マルチネやヤコブソンの言語理論はソシュールの方向づけの還元ではあっても「濫用したもの」「拡張的適用」だと文句をつけるのである。それではマルクスの〈弁証法的還元〉とはどんなものか? ルフェーブルは『資本論』における還元をつぎのように説明する。

「還元によって、云い還れば科学的抽象によって、二つの、同じように幅広い相互に結びついた概念が定式化される。使用価値と交換価値である。この二概念は、それらが構築される過程を通じて、解き難く結ばれている。それらは、一つの形態(可能な限り一般的で、内容から離脱している形態)を決定する。その形態とは、交換価値、すなわち、直接消費から引き出され、商品に変身した、《財物》、もの(オブジェ)の存在様式のことである。それを抽き出す還元は、特定的なものである。農民のコミュニティーや中世の貴族領の研究は、このようにはなされないであろう。それに、マルクスは次のこと(それが、彼の議論の中心なのだが)を示すであろう。このように抽出された抽象は、単に学者の頭の中に、その頭によって存在しているだけではない。内容から現出するが内容からは離れる――内容を除外する――形態は、マルクスによれば、社会的実践の中で構築され産出されるのである。その形態〔交換価値〕は、いずれ資本主義社会になる商業社会を特徴付けている。還元は、それゆえ、なんら恣意的なところをもたない。還元がその跡を辿る道筋は、それによってプラクシスが――すでに前代の社会から、現在思考が分析している社会への移行の際に決定されてしまっている社会において――内容に、すなわち活動(労働)の産物に一定の形態を与えていく道筋なのである、(自然と人間との、恣意的かつ自発的な)内容の多様性は、除外されているとはいえ、依然としてそこにとどまってあるのだ。それは、形態として内容との関係において、作られ発展している社会形態の、物質的支柱なのである。この形態の分析的研究は、社会労働の分業の研究へと関連する。

 それゆえ、還元が把握するのは、内容と形態との間の弁証法的運動――現実的な、構築的な、運動――である。」

 自分で『資本論』を学んだ経験のある読者は、この〈弁証法的還元〉の説明を読んでおそらく首をひねるだろうと思う。なぜならば、マルクスは〈生産〉の論理すなわち〈労働の対象化〉の論理を前提としてそこから価値を論じているのに、ルフェーブルは労働の産物以前について何ら触れていないし、形態=交換価値、内容=労働の産物と解釈して形態と内容という単純な論理を持ちこみ、内容が内容から離れた形態を実践的に産出する運動だという〈弁証法〉を説くにすぎないからである。マルクスのいう還元は、労働の産物以前について論じられているにもかかわらず、それを論じないでこれが還元論だというのは、浅薄でまとはずれの理解ではないかと批判する読者もあろう。たしかにそのとおりである。マルクスは労働の産物以前の、対象化される労働それ自体において還元がなされることをチャンと説明しているのに、ルフェーブルはそれを論理的に読みとることができなかったのである。マルクスの説明を聞こう。

「諸労働生産物は、それらの交換(Austausches)の内部において、初めて、それらの感性的で相異なる使用対象性(Gebrauchsgegenständlichkeit)から分離された、社会的で同等な価値対象性(Weltgegenständlichkeit)を受けとるのである。有用物と価値物とへの、労働生産物のこの分裂は、交換が既に充分な拡がりと重要さとを獲得し、かくして、有用的諸物が交換のために生産され、従って、諸物象の価値性格がすでにそれらの生産そのものに際して問題になるとき、初めて実践的に(praktisch)実証される。この瞬間からして、生産者たちの私的諸労働は、事実的に、一(ひとつ)の二重的な社会的な性格を受けとる。それらは、一方では、一定の有用的諸労働として一定の社会的欲望を充たし、且つかくして、総労働の・社会的分業の自然発生的な体制の・諸環たる実を示さねばならぬ。それらは、他方では、特殊的な有用的私的労働の各々が、他の種類の有用的私的労働の各々と交換可能であり、かくしてこれと同等な意義をもつ限りでのみ、それら自身の生産者たちの多様な諸欲望を充たすのである。まったく相異なる諸労働の同等性なるものは、それらの現実的な非同等性の捨象――それらが人間的労働力の支出、すなわち抽象的・人間的労働として帯びる共通な性格への還元(Reduktion)たりうるにすぎない。私的生産者たちの脳髄は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格をば、実践的な交通(praktischen Verkehr)において・諸生産物の交換(Produktenaustausch)において・現象する諸形態でのみ反映する。――すなわち、彼等の私的諸労働の社会的に有用的な性格をば、労働生産物は有用・しかも他人にとって有用・でなければならぬという形態で反映し、諸々の種類の諸労働の同等性という社会的性格をば、諸労働生産物というこれらの物質的に相異なる諸物の共通な価値性格という形態で反映する。」(第一章)

 商品でない労働生産物は〈使用対象性〉しか持っていない。それが商品として交換されるときは、〈使用対象性〉とは別の〈価値対象性〉をも受けとるのである。これは何を意味するかといえば、そこに対象化されている労働が二重の社会的性格を受けとるということであって、〈価値対象性〉を持つのはそれが抽象的・人間的労働の対象化という性格に還元されていることによるのである。だからマルクスは右の文章につづけてつぎのように念をおしている。

「だから人びとは、彼らの諸労働生産物が彼らにとって同等な種類の・人間的な・労働の単なる物象的外被として意義をもつがゆえに、これらの物象を諸価値として相互に関係させるのではない。その逆である。彼らは、彼らの種々の種類の諸生産物を交換において諸価値として相互に等置することにより、彼らの種々の諸労働を人間的労働として相互に等置する。彼らはそれを意識してはいないが、しかし彼らはかく行うのである。」

 単なる〈プラクシス〉ではなくて〈実践的な交通〉における価値としての等置が、意識することなく人間的労働としての等置になるという事実、これが相異なった労働を抽象的・人間的労働に還元するということの意味である。労働における還元を、労働の産物に内容から離れた形態を与えることであるとか、それを抽象的に認識することであるとか、ルフェーブルが解釈したのは、マルクスのいうことを正しくとらえていないとんだやぶにらみであった。

    *

 社会学者安永寿延は、『日常語と非日常語の断層』(一九七二年)で、マルクス主義の Verkehr を「性的関係をもふくめた人間と人間のあらゆる関係がその言葉のなかにふくまれている」と解釈している。浅田光輝の『幻想共同体としての国家』(一九七二年)も、これまた一部の人びとの解釈を受け売りして、安永と同じように人間関係をさすものだと述べている。

「交通 Verkehr という用語は四〇年代のマルクス、エンゲルスに独特の用語である。人間の物質的生活に基礎づけられた人間関係、社会関係――すなわち、のちの生産関係というのに近い表現である。」

 この説明は三重にまちがっている。第一に交通と交通関係とをいっしょくたにして、前者を後者の意味に解釈しているのである。ProduktionProduktionsverhältnisse と同様で、生産の場合の人間関係がこの言葉の中にふくまれているという者はあるまい。それなら Verkehr とても同じことであって、 Verkehrsform, Verkehrsweise, Verkehrsverhältnisse などという場合と区別しなければならないのに、安永も浅田も区別しようとはしない。第二に、この語は四〇年代のマルクス、エンゲルスどころかさきの引用文にも見るように六七年の『資本論』にもいくらも使われている。第一版序文にも Produktions=und Verkehrsverhältnisse という表現がある。第三に、この語はわたしが一九六三年に論じたように対象化された労働の場所の変更を意味するのである。だからこそ、〈実践的な交通〉すなわち目的的に人間が行うところの対象化された労働の場所の変更の、特殊なありかたとして商品の〈交換〉をとりあげた、さきの引用文の表現ともなったのである。

 話を戻して、ルフェーブルの『資本論』解釈を考えてみると、ここにも三つの問題がふくまれている。まず第一に、〈内容と形態〉という論理をとりあげるのならば、何も『資本論』を持ち出す必要はないのであって、客観的にコケオドカシにしかなっていないわけである。第二に、〈内容と形態〉とはいっても、事物の構造いかんで規定されることであって、たとえば雪の結晶のような場合にはさまざまな形態の変化はあるが内容であるところの実体は H2O で変化がなく、要するに実体それ自体のありかただと受けとるのが正当な理解である。しかし言語のような場合には、〈像〉としての形態が存在するのであって、けっして実体それ自体のありかたが問題なのではない。文字言語はインクの描線として紙の上に描かれるが、その表現内容は雪の結晶とちがってインクそれ自体のありかたではない。ルフェーブルはこの表現における内容と形態の関係の特殊性を明確に意識していないのである。第三に、『資本論』の論理はそれを正しくとらえることができるなら、言語の論理の解明に大きく役立つのだが、ルフェーブルにはそれを正しくとらえる能力がなかったのである。WertWertform とは別であるが、彼は浅田と同じように区別することができず、価値すなわち形態と決めてしまった。価値は労働の産物から生れるのではなく、価値を形成する特殊な実体が存在するのであるから、この形成の過程的構造をつかまねばならないのであって、これをつかむことによって言語の意味を形成する過程的構造についての論理的なヒントも得られるのだが、彼はこれを内容から形成されるというかたちでしか扱えなかった。また、音声言語たとえば講演や座談会を文字言語で記録するとか、文字言語たとえば詩や童話を音声言語で朗読するとかいう、転換をわれわれは日ごろ行っている。その転換に際してわれわれは、それらの〈現実的な非同等性〉の捨象を行っており、それらを〈共通な性格〉において、内容は依然変らないものとして扱うのである。どうしてそれが許されるのか、〈共通な性格〉がどこにありどのようにして形成されたのか、この形成の過程的構造を明らかにしなければ言語の理論的解明にはならないはずである。マルクスが商品の価値を象形文字の意味にたとえたのも、価値と意味とが論理的な共通性を持っていることを理解してのことであった。しかしルフェーブルはそのように問題を立てようとはしないで、音声言語の「時間的なもの」が文字言語の「空間」の「同置性」になったり、また逆になったりするのはなぜかと、現象を哲学者的にとらえて七転八倒しているのである。

 こう見てくると、哲学者ルフェーブルには個別科学の論文が語っている論理を正しく受けとめる能力が欠けており、個別科学の当面している問題を正しく解決して理論を押しすすめる能力を持っているかどうかきわめて疑わしいということになろう。その哲学者が、科学的思考について論じているとすれば、そのような無能力が科学的思考の誤った解釈と関係しているのではないかとも考えられる。

「科学的思考においては、三つの概念が、分野によって度合いは異なるが、ある大きな役割を演じている。それは、形態機能構造である。それらは、至るところ、とくに言語学において見出される。それらの概念は還元によってえられる。正しくなされる手続きは、それらの概念とその有効区域の外に起ることを除外し、各自から、他の二つの概念に属するものを排除することによって、それらの概念を区別する。形態、機能、構造を明白に識別することは実際に好都合である。類似の機能が発揮される際に、多様な形態と個々の構造をもつことがありうる。同一の形態が種々の機能を帯びることもありうる。……

 ところが、第二次の手続きが、しばしば、これらの概念を一方から他方にと還元し、そうして形式主義、機能主義、構造主義のような、あるイデオロギーの出発点を形成する。」

 マルクス主義を正しく理解している者がこれを読んだなら、ルフェーブルに向って、「何か一つ大切な概念を忘れていやアしませんか?」と注意するにちがいない。マルクスが『フォイエルバッハ・テーゼ』で人間の本質を何と説明したか、ルフェーブルも読んだはずである。テーゼには「その現実性においては、それは社会的諸関係(gesellshaftliche Verhältnisse)のアンサンブルである。」と述べられているが、この「社会的諸関係」ということばをいったいどう受けとったのか、聞いてみたい。科学にとってもっとも重要な概念の一つはほかならぬこの関係Verhältnis)概念であって、これなしには唯物史観における人間の把握すらも正しく理解することはできない。すでにヘーゲルもいった。「法則は本質的な関係である。」(ist das Gesetz wesentliches Verhältnis)と。この巨人はオッチョコチョイのマルクス主義者とちがって、ニュートン力学の法則も本質的な関係の把握であることを理解していたし、自分も弁証法の法則を矛盾とよばれるものの展開する本質的な関係として提出したのである。だから関係概念を持たないルフェーブルがアルチュセールたちにひきずられて、弁証法の諸法則を抽象的な関係でとりあげていることに疑いを持ったとしても、別に不思議なことではないし、また形態や構造を機能に還元した機能主義だけでなく本質的な関係を機能に還元した機能主義の存在することを自覚できないルフェーブルが、スターリンのこの種の機能主義を批判し是正するに至らなかったとしても、別に不思議なことではないのである。

 科学者として現実と絶えずとりくむなり、マルクスのいう〈社会的諸関係〉や〈生産および交通諸関係〉を現実の中からとらえなおすなりすれば、関係概念の重要性を実感として受けとることができたであろうが、ルフェーブルは解釈哲学者でしかなかった。そこにフランスの言語論ブームが発生して、自分も発言しなければならなくなり、無力な自分にむちうって言語のありかたや言語学の主張ととりくむことになったのであるから、とたんにふみはずしてしまってマルクス主義の世界観まで信じられなくなり、ハイデッガー的な解釈を口ばしるようになったとしても、別に不思議なことではないのである。いわく、

「言語は、それが作動する音という可感的基礎からすれば、ひとつの物質的な事実である。形式としてみれば言語は《非物質的》である。にも関らず、それは論理と類似の形で、《現実のもの》であり効果的なものである。意味(サンス)は、論理整合性と同程度に、物ではない。構成諸要素の差異によって成立している、総体の諸要素の秩序はひとつの物ではないが作用をもたないものではない。そのことから結論できるのは、〔言語がもつ〕可感的なものと意味とが、《物》(と《非―物》、精神)、実体、客体(オブジェ)(と《主体》、意識)という、古典哲学によってつくられた諸範疇には入らないという事である。また、精密といわれる自然科学のつくった、実定的(ポジティア)なものという概念にも入らない。

 さてここに非常な難問が現われる。言語は対象物(オブジェ)〔客体〕となる。われわれは眼の下で、書かれたものの中に、言語を各瞬間に対象物として所有する。われわれは言語が絶え間なく《客体的(オブジェクティフ)なもの》に移行していくのを見るのである。対象物である限りにおいて、言語は実定的に研究される。しかしながら、この〔言語の〕定着化においては、何か(それはまさしく物ではないもの)が失われる。この何かは重要で本質的なものでさえありうるのだ。この仮定は真剣に考えられるべきである。実際、そう仮定すれば言語とは、検討や科学的分析ができないものだということになるであろう。人は簡単に懐疑論的立場(スケプティシムス)に行くことになるであろう。……

 言語の研究は、奇妙な諸困難を惹き起す。その諸困難は、往々にして、論理学、《認識論》の中で反省が遭遇した、そして今なお遭遇している困難に似ているものである。それはしばしば、《アポリア》として、パラドックスとして定式化される。」

 ルフェーブルはこのような七転八倒の中で、言語を弁証法的にとらえる必要だけは感じているが、自分ではとらえることができないのである。なぜなら、彼は矛盾を「AとBは、相互作用、結果を生む衝突という関係においてしか存在せず、この関係が両者を結ぶ」という〈葛藤〉としてとらえ、さらに「葛藤の激化」を〈敵対〉といい、「AとBが衝突しているうちに、危機に近づく。破裂、解体、分裂、超越などが、それぞれの場合にしたがって起るだろう」と説明している。つまり矛盾とは敵対的矛盾だという官許マルクス主義の矛盾論をうのみにしているのであるから、そのような矛盾を言語にさがしても見当たらないのは当然であろう。この先入見があるかぎり、概念すなわち超感性的な認識を音声や文字で感性的に耳や目から伝えようとすること自体一つの矛盾なのだという理解など、出てくるはずはない。

「言語ならびに言語に関する認識の中核自体に、弁証法的運動、すなわち葛藤、矛盾があるのを示すことはできないだろうか? 意味(サンス)(それは、個別の《単語》の意味作用(シニフィカシオン)より以上の何かを含んでいる)は、差異からのみ生れるのか? われわれとしては、この疑問に対する答えにより接近することができることもまた期待している。意味は、何処で、どのようにして、何から出てくるのか?

 情報に関する(非常に科学的な)理論は、われわれが持つ種々の当惑を全面的に解決はしないまでも、われわれの企図を確認するものである。」

 しかも彼の興味を持った〈情報科学〉さえ、「可知体と意味作用に関する探求は、要素あるいは原子の結合の側に追いやられてしまう」こと、つまりタダモノ論でしかないことを、その点で言語学とくいちがっていることを認めないわけにはいかなかった。

    *

 ルフェーブルが提起した問題のすべては、私の著書『認識と言語の理論』(一九六七年)および『マルクス主義と情報化社会』(一九七一年)で解決ずみである。それでここでは、ルフェーブルの言語研究の態度ないし方法についてすこし吟味してみたいと思う。『資本論』も読まずマルクス主義も知らない日本の国語学者の方が、なぜルフェーブルのようなおかしな妄想に転落することなしに業績をあげることができたのか、すこし考えてみたいと思う。

 言語論ブームで自分も発言しなければならないとあって、それでは言語学の本や論文を読んでみようと、あれこれと読みあさりそれらを解釈しにかかるのは、評論家的雑文屋的態度であって科学者としての態度ではない。科学者は仮説をつくって実証に向うのである。時枝誠記はまだ大学生のころに、「言語の本質は何ぞや?」と問題を立てて、「大胆な仮説的断案」を下したと、『国語学への道』(一九五七年)で述べている。

この問題を考へて、私は言語は絵画、音楽、舞踏等と斉(ひと)しく、人間の表現活動の一つであるとした。然らば言語と云はれるものは、表現活動として如何なる特質を持つものであるかを考へて、始めて、言語の本質が、何であるかを明らかにすることが出来るであらうといふ予想を立てたのである。」

 それゆえ彼は、言語における一人称をとりあげるときにも、絵画における自画像のありかたと比較して考えて、フランスの文学評論家のようなみじめなふみはずしかたはしなかった。ルフェーブルは大学生どころか六十を越すいい年をしながら、言語をまず他の諸表現との共通点でとりあげるとともにその特殊性を吟味するという、科学者としての態度で対象ととりくもうとはせずに、言語学の本をめくってみてそこからもっともらしいところをもらってこようとする、物もらい的な・悪くいえば乞食的な・態度に出たのである。音楽と言語とを比較すること自体は、決して無駄ではないが、彼は両者の表現としての共通点をまずとりあげるのではなく、自分の目をつけたマルチネの〈二重の分節〉論をとりあげて、「二重の分節は、人間の言語の特徴であると同時に認識行為の重要な成果だと思われた」という理由から、この言語の論理を音楽へ押しつけて、音楽を一種の言語と解釈しようとするのである。いま絵画のありかたと言語のありかたを現実の中に見ていくなら、ペンキの看板に絵と文字とが同じようにペンキで描かれ、雑誌の小説に挿絵と文章が同じように鉛板で製版され同じインキで印刷されているという、いわば共存の形態を発見するであろう。それゆえ、もし絵画が物と精神という「古典哲学によってつくられた諸範疇」で説明できるなら、共存している言語もやはり同じ範疇で説明できると予想してさしつかえないことになろう。そこで絵画から表現としての一般論を抽象し、これを言語表現の理解に役立てることにするのが、ほかならぬ科学者の態度なのである。

 油絵具を使って完成した絵画を、カラーのスライドで複写しスクリーンに投影しても、原物の忠実な複写と認められ、石に刻まれた文章を拓本にこしらえても、文字の忠実な複写と認められることは、経験の示すとおりである。ここからは、表現にとって物体である絵具や石が直接の関係を持たないこと、その物体が担い手になっている色彩やかたちが表現であることが、明らかになる。哲学で物質というのは物体をさすのだと思いこんでいる者は、表現を〈非物質的〉だというであろうが、哲学で物質というのは現実的な存在をさすのであるから、絵具もスクリーンの影も石もそれらの色彩やかたちもみな現実的に存在する以上すべて物質なのである。つぎに言語表現で「何かが失われる」という問題であるが、これは絵画であろうと何であろうと共通している。鉛筆のスケッチやモノクロの写真では、作者の色彩感覚が存在していたにもかかわらず表現からは失われているし、対象である美人が何を思って微笑しているのか写真家は知ってはいても、表現できるのは見かけの表情だけでしかない。そもそも、「何かが失われる」というのは、〈像〉の本質であって、認識においてすでに対象のすべてをとらえつくすことは不可能であり、認識できない部分が残っている。紙の表と裏、人間の前と後とを同時に見ることすら不可能であって、建設業のコマーシャルではないが後を見て日本の女性と思っても前へ回って顔を見たら外国人であったりする。認識の本質を近似的な反映とよぶゆえんである。そしてこれとおなじことが、認識を原物とする〈像〉であるところの表現についてもいえるわけである。言語は概念を表現するにとどまるから、視覚や聴覚など感性的な認識が伴っていてもそれは背後に隠れてしまう。表現もやはり近似的でしかない。ルフェーブルは「何かが失われる」という事実を、対象の認識についても確認し、かつては認識が近似的な反映であることから不可知論がとなえられた歴史的事実をも想起すべきであった。ところが彼は、「何かが失われる」と認めるなら、「言語とは、検討や科学的分析ができないものだということになる」と、自分で不可知論をとなえるところに転落して行ったのである。

 われわれはかつて見たものを記憶している。対象が消滅してもそれから受けとった精神的な〈像〉は残っていて、父親がこの世から姿を消してもそのすがたは頭の中に想い浮べることができる。これが〈像〉の特徴であって、原物から独立して存在することができるけれども、それが原物から受けとったという関係は依然として維持されている。関係概念を持たなければ、反映ないし〈像〉を理解することはできない。ここに、ルフェーブルが〈像〉の論理をつかめず、〈像〉の理論を身につけて言語と取り組めない理由がある。商事に映った縁側の物の影を見て、「ネコがいるな」と思うのは、その影が物に関係づけられていることを知っているために、影のかたちから原物のかたちを想像してみて、ネコという判断を下したのである。影からその関係を逆にたどってみるという精神活動がここには存在している。これは絵画のネコでも変るところがない。現実の世界のネコであれ、あるいは空想の世界のネコであれ、画家が対象をイメージとしてとらえてそれをさらに絵具やインクで物質的に模写したものが、藤田の作品やビアズレーの作品としてわれわれの目の前に与えられているのである。この表現すなわち〈像〉としてのネコは、そこから画家のイメージを追体験するためのものであり、〈像〉としてのネコからその関係を逆にたどって画家のイメージの全体を意欲的にとらえようとしないなら、それは鑑賞とはいえないのである。もしその関係に結びついている過程的構造を正しくたどれないなら、誤解や曲解が生れることになろう。

 ルフェーブルは、音声や文字が言語として意味を持っていることを経験的に認めなければならないと同時に、それを〈像〉として関係の存在を確認することができなかった。音声や文字の中に作者の精神そのものが存在するという解釈は、西欧でもすでに〈国語の精霊〉論として提出されているけれども、彼はこれを「神秘的な実在物」を説くものとして拒否する。それでは意味とは手でつかむことのできる物体かといえば、そうでないことも経験的に明らかである。意味は精神でもなければ物体でもないことを認めなければならない以上、関係概念を持たない彼としては精神と物質とをとりあげてそれ以外の存在を認めない古典哲学の発想を疑うところに、転落しないわけにはいかなかった。意味は価値と同じように超感性的に関係づけられていて、抽象的・人間的労働が対象化されたとい関係において商品が価値を持つように、作者の認識を〈像〉で物質的に表示したという関係において言語が意味を持つことを、その意味で物に結びつき物として扱われるべきことを理解できなかった。

 意味を関係においてとらえることができなければ、構造や機能において考えるよりしかたがない。もはや精神と物質との区別を否定したルフェーブルは、チョムスキーの変形文法を認識論的に批判する足場を抛棄してしまったのであるから、その方向をとりあげて自己流に解釈するしかなかった。

「ソシュール以後の言語学が意味作用の構造を追求していたのに対して、われわれは、もっと高いレベルにおける意味スルモノと意味サレルモノとの接点を探ることによって、意味の構造の方へと向っているのではないだろうか?」

 では彼のいうところの意味とはいったい何なのか?

「意味は内容に富んでいて錯雑しているが、汲みつくすことはできない。汲みつくすことができる意味とは意味ではない。あるいは意味ではなくなっているのである。意味作用は字義的である。意味はあらゆる側面から他のものへわれわれを送りかえす。一方においては、過去へ、既得の知識へ、現在性へ、記憶へと、――他方においては、潜在性へ、可能性へ、意味を担った知覚場の多様性へと送りかえすのである。」

 関係それ自体をとりあげられない以上、それに結びついている過程的構造が「汲みつくすことはできない」という構造論を一方で語ったり、関係を逆にたどって行われる追体験が「既得の知識」や「記憶」を動員するとか、イメージの創造に「潜在性」「可能性」を発揮するよう要求するという機能論を他方で語ったり、する以外にはとりあげようがないのである。

「意味はある点まで連続の濃度と比較することができる。意味は最初から現前していながら、常に把(とら)え難いものである。語る人は意味だけを把握しているのだが、絶えずそれを見失うのである。……

 意味の豊かさと曖昧さは、もっとも重要な疑問を除外するものであってはならない。意味のレベルにおいて、そしてそこにおいてのみ、真理に関する問いが提出されるのである。われわれは単に、どのようにして社会の歴史の中で意味が生れ、成長していくかを探求するのにとどまるべきではない。《意味と真理の間の関係はどうなるのか》と自問しなければならない。真理は意味作用の水準においては《意味》を持たない。正確で形式的な意味作用はどのようにでも操られる。それを技術的に利用すること(機械など)が考えられうるのである。意味については事情は異なり、いつでもその真理性を問題にすることができる。なぜならこのレベルでは、嘘と幻影が姿を現すからである。そして意味が規範的になるのはこのレベルにおいてである。意味は単に正しく話すことを命ずるばかりでなく、正しく考え、正しく行動することをも命ずるのである。」

 もしルフェーブルが、『資本論』に形態と内容の論理を押しつけるようなことをしないで、価値形成の論理を正しく受けとめるだけの能力があったなら、「もっとも重要な疑問」などとっくの昔にチャンと解決してしまっていたにちがいない。彼がソシュールの「意味スルモノと意味サレルモノ」といっているのは、言語規範の規定である。言語規範の〈人間〉は、地獄や天国を語るときにも経営や投資を語るときにも戦争や共産主義を語るときにも使われるのであって、えりごのみをしないから、それ自体として真理か否かと直接の関係はない。これに対して音声なり文字なりに「人間」と表現されているときは、具体的な認識が示されているのであるから、真理か嘘か幻影かそのちがいが問題にならないわけにはいかない。ルフェーブルは言語規範と言語表現との関係を理解していないために、言語表現のほうを「もっと高いレベル」として区別するしか、解釈の方法がなかった。マルクスは、労働と価値をいっしょくたにした労働価値説を訂正する。労働そのものが価値ではない。労働は価値を形成する実体であり、抽象的・人間的労働の対象化において価値が形成されるものと理解する。同じように、作者の具体的な認識と言語の意味をいっしょくたにしてはならない。認識そのものが意味ではない。認識は意味を形成する実体であり、抽象的認識である概念が表現されることにおいて意味が形成されるものと理解すべきなのである。それゆえ、表現された作者の認識が真理であるか否かが意味にとって重要であり、「いつでもその真理性を問題にすることができる」のである。意味そのものが真理なのではなく、意味が真理に結びついているゆえにそこから真理を追体験して「正しく考え」ることができるわけである。

 言語表現は、人びとが自分の具体的な認識を精神的な交通に位置づけるために、社会的に成立した規範にしたがってその物質的な〈像〉をつくり出したものであるから、ここから追体験によって具体的な認識を再現してはじめて精神的な交通が成立することになる。それゆえ言語学者が、素朴ではあっても言語独自の機能をコミュニケーションに求めたことは、正しかったのである。ルフェーブルは、王冠や紋章や国旗やチェスの駒などが表現としてそれなりに意味(正しくは内容であるが)を持つことから、これらが作者の具体的な認識を追体験させることを目的として創造されたものであるか否かさえも反省しようとはせず、シンボルは意味を持つゆえに言語として扱うべきだというところへふみ出したばかりか、さらに家の窓や扉、街並や都会までもシンボルと解釈する。「シンボルはミニチュアとなって繁殖する。小灌木、噴水、陶器の動物などがそれである。」「窓、扉のような《意味素》は分節して家になり、街並になる。街並は伝統的な意味の都会を構成する。すなわち、フィレンツェ、ベニス、回教徒地区というように、意味を担った可感的なものの場を構成する。」こうして彼の構造主義者に浴せる〈拡張的適用(エキストラポレーション)〉という非難さるべきやりかたが、彼自身によってつぎからつぎへとすすめられていくのである。

 

 チョムスキー文法論の逆立ち的性格

−p.270−

 〈情報科学〉は、タダモノ論的発想で、機械と人間とをいっしょくたにして論じている。どちらも〈入力情報〉を受けとって、それを変換し、〈出力情報〉として送り出すと説明する。変換機構がまだ明らかでないときには、これを〈暗箱〉(black box)として扱う。

 この発想は、人間のすべての〈情報〉活動に対して適用されるのであるから、子どもの言語能力の習得という事実に対しても、同じ発想が適用されることになり、親その他から子どもが受けとる音声言語が〈入力情報〉で、子どもが創造する音声言語が〈出力情報〉だということになる。機械自体が変換能力を持っているのと同じように、子どもという装置自体も生れつき)言語習得能力を持っているはずであり、コンピュータに諸データを入れるとアウトプット側からどんな結果が現われるか、両者の関係を検討することで、コンピュータの能力・機構を論じるように、子どもが受けとる言語データと子どもが送り出す言語表現との関係を検討することによって、子どもという装置の能力・機構を調べることができるということになる。

 こういう話を聞かされると、〈情報科学〉をうのみにして信じている学者たちは別として、常識のある人びとは納得できないものを感じるにちがいない。機械と人間とは同じではないのに、その差異を無視しているのではないかというにちがいない。たしかにそうである。コンピュータは受動的で、人間がデータを入れてやったときだけそれを処理するが、人間の子どもは自分から能動的に現実を認識しにかかるのである。親から音声言語を与えられたとしても、それをただポカンとして受動的に耳で受けとっているわけではなく、それがいったいどういうことなのか、音声言語が与えられた条件ないし過程を能動的に理解しようとする。この、絶えず行われている能動的な現実認識と、そのいわば一つの特殊なありかたとしての与えられた言語に対する能動的な対応との存在を無視して、単なる言語データを〈入力情報〉と解釈するところに、〈情報科学〉的発想のふみはずしを見なければならないのである。〈情報科学〉はここでも、デュパンが引用したルソーのことばのように、「あるものを否定し、ないものを説明する」ことになった。人間の子どもの能動的な現実認識の存在を否定する結果として、それに代るべき何ものかを人間の子どもがが生れつき持っているものとして、ないものを説明しなければならなくなった。人間の認識の能動性は、想像というかたちをもとっている。友人を訪問するときに、電話をかけて在宅していることをたしかめれば、この言語データを媒介にして、自分が訪問したときに友人が家にいていっしょに話したり夕食をとったりするという未来のありかたを頭の中に描き、さらには電車やバスで行くときの時間や交通費までも予想して、それにもとづいて準備をととのえ行動にうつるのである。コンピュータに存在しないこの認識の能動的なありかたも、〈情報科学〉は人間という装置自体の生れつきの能力だと、アプリオリズムで解釈しなければならなくなった。

 チョムスキーの子どもの文法体系習得論も、〈構造科学〉の発想と本質的に同じである。子どもの受けとる言語データはきわめて少く、しかも断片的でしかないのに、それを数年間受けとっているうちに、きわめて高度に体系化された文法の表現を行うようになるという事実は、〈構造科学〉的発想からすれば、子どもという装置自体の生れつき持っている内部の機構がきわめて複雑多岐であって、はじめはわずかしか作動しなかったのがやがてフルに作動するようになるのだと、すべて内部構造のしからしむるところに理由づけなければならない。チョムスキーは、言語データから得られたあまり数多くない規則を脳中に貯えており、そしてそこから無限に多くの文を生成するという言語能力を人間の頭の中に想定した。この生成・変形の過程的構造を説明するために、頭の中に〈表題構造〉と〈深層構造〉とを区別し、この結合関係を規定する〈成分構造規則〉と〈変形規則〉を論じる。すべて文法のありかたを人間という装置の内部構造で説明しようというわけである。

 いま一度デュパンのいいかたを借りると、「物ごとをあまり近くに持ってくるために視覚を損じた」ということがある。ことわざにも「おか目八目」といわれている。言語の文法にしても、あまり小さな部分の変形を目の前に持ってこないで、遠くから大きなありかたを眺めたり、他の表現の文法的なものと比較したりするほうが、その本質をつかむのに有利だと考えなければならない。人間は言語表現だけを行っているわけではなく、演劇や長編漫画や映画なども創作している。これらの諸表現にも文法的なものが存在するが、それらも人間という装置の内部構造から説明するのかどうか、演劇の脚本や映画シナリオは言語表現であるから当然文法を持っているが、これらの創作の場合の〈深層構造〉と〈表層構造〉の関係はいったいどうなっているのか、チョムスキーをかついでいる人びとは答えなければならないはずである。

 まずノン・フィクションである日記や報告から考えてみよう。これらの文章全体は現実の時間的経過に対応している。個々の文をどうならべるかも文法の一部であり、現実の時間的経過に対応してならべるということは文法が現実のありかたから規定されていることを意味している。但しカント主義者は時間空間をアプリオリと解釈するから、このならべかたも主観的なものだといいはるであろう。それでは固有名詞である「佐藤栄作」が日記や報告に出て来た場合はどうか。語法もまた文法の一部であり、固有名詞が現実の個人をとりあげる場合に使われるということは、文法が現実のありかたから規定されていることを意味している。「佐藤栄作の顔」という場合はどうか。これは個人全体をとりあげてつぎにその一部分に目を移したときの表現である。現実の個人とその一部分である顔とは、不可分関係にあるから、その関係をとらえてことばを結びつけたわけであり、まず現実の結びつきが与えられているのを結びつきとして受けとってことばを結びつけたことになる。中間に認識が介在するとはいえ、現実の結びつきがことばの結びつきを規定しているのであるから、文法が現実のありかたから規定されていることは否定できない。演劇や長編漫画や映画などは、フィクションのものが多いが、フィクションの世界とても時間空間は現実の世界のありかたを移し変えたものであるから、その限りにおいてノン・フィクションの場合と共通している。これらの物語全体がフィクションの世界の時間経過に対応しているということは、やはり対象の世界から規定されているということにほかならないし、映画やTVで三味線をひくヒロインの遠写のつぎにバチを持つ手の大写が示された場合も、対象の不可分関係に規定されて二つの場面を結びつけたものにほかならない。

 ところで、関係それ自体は見ることもつかむこともできないが、「一切の関係は言葉としてはただ概念としてのみ表現されることができる」(Alle Verhältnisse können in der Sprache nur als Begriffe ausgedrückt werden.)と『ドイツ・イデオロギー』がすでに指摘しているように、言語したがって文法はこの超感性的な関係それ自体をとりあげることができることから、タダモノ論者がそこからふみはずしていく。同じ一個の人間でありながら、「夫」「父」「国王」などと、夫婦関係や親子関係や権力関係などその人間のさまざまな関係のどれをとりあげるかによって、異なった語彙が成立するのであって、関係の客観的な存在とそれからの規定ということを認めなければ、これらの語法を説明するわけにはいかない。そして、「彼は男である。」を「彼は父である。」に変えた場合は、もし現実に親子関係が存在するならばその現実の関係をとらえたものであり、もし親子関係が存在しないなら空想の親子関係を設定してその空想の関係をとりあげたことになる。この例にも見られるように、語法や文法ははじめ現実的な世界のありかたから規定されて成立しながらも、それがあらゆる言語表現のための普遍的な規範として表現をささえることが求められているために、表現に際しては現実の存在にも空想の存在にも使われることになるから、過程を見ずに結果を見れば現実界も空想界も超越した頭の中の存在として、人間の生れつき持っている能力で駆使され変形されるかのように思われてくる。語と語とを結びつけることによって、対象相互の関係を示すということは、現実の関係はもちろん空想の関係にも適用されるから、言語表現にあってはきわめて複雑な空想のありかたをとらえて容易に展開していくことができる。そしてこの言語表現の他の表現に対する優越を、表現の特徴と理解しないで人間という装置自体の生れつき持っている特殊な能力に押しつけるところに、チョムスキー的解釈の認識論的特徴があるわけである。

 子どもの言語能力習得にしても、たえず行われている能動的な現実認識を考えに入れれば、それこそ科学的に解明できることである。「父」とか「パパ」とかいう表現が、どんな対象に対して使われたのか、その与えられた言語の過程的構造を大体つかむことができるなら、同じ対象が起きていようと寝ていようと食事をしていようと、その特殊性を無視して一般的にこう表現すればいいことがわかってくる。さらに同じような親子関係にある他の男性についても同じ表現でいいことがわかるなら、週刊誌やTVの中に出てくる男性についても同じように表現するであろう。一言でいうならば、与えられた言語からその表現をささえている規範をとらえ、規範の使いかたを訓練することによって、現実認識が広まり深まるとともにとらえる規範も多くなり使いかたの訓練もつみ重なってきわめて高度に体系化された文法の表現も可能になるというわけである。

 以上の理解があれば、チョムスキーに抱きついている長谷川欣佑が『言語の普遍的特性』(『思想』一九七二年二月号)で説いている〈深層構造〉論の逆立ちも、容易に察しがつくであろう。チョムスキーの支持者の中には、〈深層構造〉はすなわち意味構造だと見て、「諸言語の表層構造は千差万別であるが、その深層構造(=意味構造)は同一(普遍的)である」という仮説を立てて証明しようとする、傾向が見られるのだが、長谷川はこれをとりあげていう。

「私は次の理由から上記の仮説は可能ではあるが無内容であると考える。そもそも『普遍文法』というと、深層構造(あるいは意味構造)の普遍性、つまり、どの言語も『より深い』ところでは同じ構造を持っている(あるいは深層構造を生成する規則は同一である)というふうにとられやすい。しかしすでに強調したように、近年の言語研究から実質的な成果が得られているのは、もっと抽象的な、言語の形式上の特性(文法の組織化の原理、文法規則の特性)における普遍性についてである。そしてそのような形式上の普遍特性が、われわれの考える『普遍文法』の主要な内容を構成しているのである。もちろん諸言語は表層構造において類似している。これをさらに進めて上記の仮説を立てることはもちろん興味あることであるしまた可能である。『意味構造』を一種の論理式(命題関数)として表わしたものを、『普遍的深層構造』であると考え、それが『変形』によって日本語、英語などの個別言語に変えられる、と考えるのはまったく可能であり容易である。ただこれがあまり意味がないと言うのは、そのように考えると、すでに述べたような、経験的に必要になる制約、自然な条件からまったくはずれた『変形』が大量に必要になるからである。別な言い方をすれば、そもそも『変形』は文法構造の形式上の規則性を把握するために必要になったものであり、またそれがその存在理由でもあるのに、上記の仮説に立つと、とうてい文法構造上の規則性を表わしているとは言い難い『変形』が大量に必要になるのである。つまり、現在上記の仮説仮説が可能であるということは、むしろ現在の文法理論の欠陥を示すものであり、そのような欠陥を取り除くためにも、できるだけ豊富な、厳しい(しかし自然な)制約を一般言語理論に課すことが、現在の重要な課題であると考えられる。」(強調は原文)

 〈深層構造〉という概念は、それが〈表層構造〉すなわちさまざまの現実的な文法構造を説明するための、基本形を設定する必要があったために、生れたものである。二つの語ないし二つの文章が、形式的に同じでありながら内容を異にする場合に、その差異がどこにあるかをその構造の背後のヨリ深いところに求めたために、〈深層構造〉を設定することになったのである。そうだとすれば、英語にも日本語にも〈深層構造〉は存在するわけであり、英語の文章を日本語に翻訳するというかたちで形式それ自体がまったく異なったものになり、〈表層構造〉がまったく異なった場合に、これを意味的にも文法的にも承認するとすれば、それが同じであるという根拠もやはり〈深層構造〉で説明する以外に道はないことになる。これはチョムスキー理論からの論理的強制であって、それだからこそ〈深層構造〉は同一であるという仮説を立てないわけにはいかなかったのである。「上記の仮説が可能であるということは、むしろ現在の文法理論の欠陥を示すもの」と長谷川はいう。まさにしかり! それはチョムスキーの〈深層構造〉論そのものの本質的な欠陥を示すものにほかならない。

 英語の文章を日本語に翻訳するとき、いったいわれわれはどこに「深層」の「同一」(普遍性)を求めているのであろうか。具体的にいうならば、「father」を「父」に訳すというまったく異なった語彙に代えた場合に、何がその正当性を保障してくれるのであろうか? いうまでもない。「father」と表現した場合の対象と、「父」と表現する場合の対象とが同一だということである。つまり、英語の作者が対象としたものと同じ対象を日本語で表現しようとするなら、「父」と表現することになると、それぞれの言語規範が規定しているのであって、長谷川のいう〈普遍的深層構造〉なるものは実は現実の普遍性をチョムスキー的に頭の中に設定した、逆立ちした発想にほかならないのである。同じ現実の普遍的な構造であっても、それを表現するための言語規範はそれぞれの民族語によって大きく異なっている。したがって〈普遍的深層構造〉が〈変形〉によってあるいは英語になりあるいは日本語になるというのは、逆立ちをひっくりかえすなら、同じ現実の普遍的な構造が歴史的条件の規定のもとにそれぞれの民族語の相異なった言語規範をつくりあげた事実をさすのであるから、この相違をチョムスキー的に〈変形〉と解釈したところで、そこには「とうてい文法構造上の規則性を表わしているとは言い難い」さまざまな歴史的条件の規定による変化を考慮することが、「大量に必要となる」のである。

 同名異人という事実は、言語における多義性を理解するための一つの鍵である。俳優の襲名に見るように、言語規範としては同じものを用いながら対象である個人が異なっているとすれば、いったい誰を意味しているかは話し手が誰をとらえているかによって決定されるのであって、〈深層構造〉もへったくれもない。規範は誰にも使えるが、表現は特定の個人をとらえているのである。英語の condense は、ラテン語の condensus から来たもので、「凝縮する」という意味を持ち、日曜語として condense milk(濃縮ミルク)などと使われている。 condenser は従って、「濃縮器」であり、condenser のついた蒸気機関車も存在している。ところが、ラジオのアマチュアにとって condenser とは装置の部分品であって、日本語では「蓄電器」と訳した例があるが、もちろんこれは誤訳である。この例にしても、英文の condenser が何を意味しているかは、書き手がどんな対象をとらえているかで決定されているので、読み手が何と受けとろうとそこで決定されるわけではない。語の多義性は、規範がそれ自体表現ではなく、音声や文字の種類を指示するものとして表現する主体の対象の認識から相対的に独立しているところに、その合理性が存在している。なぜなら、たとえいろいろな意味を持たせられたとしても、それはいろいろな対象の認識に使われうるという可能性が与えられているだけであって、実際に表現する場合にはつねにそのうちのどれかが一義的にえらばれ、他のものは何の関係も持ちえないから、現実性においては一義性の規範の場合と変りがないのである。

 言語規範が多義的であるときに、表現に際してどの意味が選ばれるかは、いわゆる〈表層構造〉の背後で決定されるのであるから、その意味で〈深層〉を考えねばならぬ、というところまではチョムスキーの考えかたも正しかった。ところが人間という装置の内部構造ですべてを説明しようとするあやまった人間観を持っている以上、その論理的強制によって〈深層〉の構造もすべてを人間の内部構造と解釈しないわけにはいかなくなった。表現の過程的構造を逆にたどって、表現主体の認識からその対象へと考えをすすめていくことができなかった。こうして〈深層構造〉がデカルトの「本有観念」(ideae innatae)と一致することになったのである。

 

 学術用語は〈科学言語〉ではない

−p.280−

 科学と言語との関係については、三つの解釈がある。第一は言語それ自体を科学とよぶもので、文章がすなわち科学である。この解釈は左翼に多く、ベリンスキーのつぎの主張がそのよりどころとなっている。

「人は芸術と科学は同じものではないことをみて、両者の差異はまったく内容にあるのではなく、あたえられたな内容を精錬する方法にあるのであることをみないのである。哲学者は三段論法で語り、詩人(作家)は形象と画像で語るが、この両者は同じことを語るのである。経済学者は、統計的数字によって武装して、自分の読者または聞き手の知力に働きかけつつ、社会におけるこれこれの階級の状態はこれこれかくかくの原因の結果として著しく良くなったこと、また著しく悪くなったことを証明する。」(一九四七年のロシア文学の外観)

 甘粕石介が、科学は「客観的真理の表現を」目的とするもので、「感性的個別を一般的な論理規定によって再現」すると主張したのも、この系列の解釈である。第二はやはり言語それ自体を科学とよぶ点で第一のそれと共通しているが、ソシュールのいう〈言語(ラング)〉を〈芸術言語〉とか〈科学言語〉とか分類するやりかたで、フランスの言語論に多い。科学は〈言語〉のありかたであるという解釈である。

 これらは芸術と科学とをならべて、同じ次元で扱う解釈であるが、第三は両者をその存在する次元が異なったものと解釈するもので、時枝誠記はつぎのように述べている。

「学問といふものは、不思議なことであるが、また、考へてみれば当り前のことであるが、造形美術や建築のやうに、人間を離れて、客観的に、図書館や博物館の中に存在するものでなく、常に、学問をする者の頭の中にだけ、ただ、考へ方としてのみ存在するに過ぎないものである。」(『国語学への道』はしがき)

 私も戦前からこの解釈をとっていた。したがって、科学は言語表現以前にすでに科学であって、〈言語〉すなわち言語規範と直接の関係なく認識それ自体科学とよばれる性格を持っているもの、と受けとるのである。科学が言語に表現されて、論文とか公式とかいわれるかたちをとったとき、それらの単語が芸術とよばれる言語表現と異なった性格のものに感じられたとしても、それはそこに表現された科学とよばれる認識の特殊性であって、〈科学言語〉の特殊性であるかのように解釈してはならない。〈言語〉すなわち言語規範は、同じ種類の対象をとりあげるかぎり、認識の性格にかかわりなく同じ規範を用いなければならない。「人間」という規範は、日常生活の個々人であろうが、宗教のエデンの園の住人であろうが、医学書の扱う患者であろうが、それら認識の特殊性を超えて使われ、それぞれの言語表現は同じ「人間」でありながらその内容を異にするわけである。ところがさらにすすんで、認識の特殊性はその表現に使われる規範の特殊性をももたらすのであって、日常語とか宗教用語とか法律用語とかあるいはスポーツ用語とか、それぞれの分野のいわば専門用語が成立する。宗教用語の「罪」と法律用語の「罪」とは意味がちがい、同じスポーツ用語でも野球の「ストライク」とボーリングの「ストライク」とは意味がちがう。科学者の学術用語も専門用語である。

 学術用語の存在は何ら〈科学言語〉論の正しいことの証明にはならない。なぜならば、これは科学としての特殊な認識の表現に用いられる規範として、特殊な意味を持たされるという点が日常語の規範と異なっているだけのことであるから、すでに存在する日常語の規範に科学としての特殊な意味を持たせて、いわば多義的に学術用語が成立する場合もあれば、これとは逆に、学術用語を日常生活の認識を表現するために特殊な意味を持たせて、これまた多義的に日常語が成立する場合もあるという状態で、そこから科学が展開されるような科学を創造する能力を持った〈科学言語〉などというものはどこにも存在しない。マルクス主義で「社会」Gesellshaft とか「生産」Produktion とかいうのは、特殊な意味を持つ学術用語であって、ドイツ語の日常語とは異なった意味を持っている。平田清明はそのことを理解しないでマルクスの文章に日常語の意味を押しつけ、これこそ正しい解釈だと力説して物笑いになった。自然科学者は「ビタミン」とか「ホルモン」とかいう学術用語をつくったが、それはこれらの物質についての一般的な認識にもとづいて範疇として意味づけられている。けれどもこれが日常語化した場合には、食物の中の成分や薬屋で売っている薬剤の意味に用いられ、「ビタミン入り味噌」「ホルモン焼」などという使いかたもなされている状態である。

 科学はわれわれの日常の認識と無関係に成立したものではない。「水は零度で凍る」とか、「可視光線は〇・三八〜〇・八ミクロンの波長を持つ電磁波である」とかいわれているけれども、科学者はその認識をわれわれが日常生活でぶつかっているものと同じ具体的な水や光線から得たのであって、日常生活とまったく別に・たとえば生れつき持っている能力で頭の中から・ひき出したわけではない。カント主義者にいわせれば、〈日常的世界〉それ自体がすでに客観的実在ではなく知覚風景を配列した主観的存在であって、これに対する〈科学的世界〉はこれとまったく無関係にこれと適合するように便宜的につくりあげられたものである。けれども弁証法的唯物論では、〈日常的世界〉が科学者の認識において止揚されたものが〈科学的世界〉なのであって、水であろうと可視光線であろうと原子であろうと素粒子であろうと、現実の〈日常的世界〉において個々の特殊性をそなえて実在しているものが〈科学的世界〉において特殊性を捨象して扱われるだけなのであり、その意味で時間空間から超越する結果になるだけなのである。そしてそこにまた、日常語の規範が異なった意味を持たせられて学術用語になる契機を見ることが、言語理論として必要なのである。

 具体的に考えてみよう。科学者の仮説は実験によって正しいことが証明される。すなわち直接には実験室における個々の特殊性を持つ水のありかたなり可視光線のありかたなりの認識でありながら、それが普遍化されて水一般なり可視光線一般なりに妥当するものとされるのである。それは古今東西のあらゆる水に、地球のみならず宇宙に存在したあるいは存在するであろうあらゆる水についての認識となり、また古今東西のあらゆる光線からの可視光線に、宇宙に存在したあるいは存在するであろうあらゆる天体の可視光線についての認識となるのである。このような時間空間を超えた対象を科学が想定するゆえに、これを〈科学的世界〉とよぶとすれば、これを認識するところのこの〈科学的世界〉における科学者も、これまた現実の個々の特殊性をそなえて実在している科学者ではなくてそれから人間の観念的な自己分裂によって成立したところの時間空間を超えた認識主体であって、まだ人間が誕生していない〈科学的世界〉をも観察し認識している人間である。この説明だけを聞くと、非科学的な神秘的な解釈のように感じる者もあろうが、われわれが自分の死骸を創造し、自分の死体の入った棺のありかたを観察し認識している認識主体を否定できないように、科学者が自分の現実のありかたと似ても似つかぬ時間空間を超えた認識主体になることも否定できないのである。

 社会科学においても本質的に同じである。マルクスが、「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、逆に、彼の社会的存在が彼らの意識を規定するのである。」といったとき、直接にはマルクスがとりあげた個々の特殊性を持つ人間のありかたの認識であっても、それが普遍化されて人間一般に妥当するものとなり、原始社会から未来の共産主義社会までのあらゆる人間についての認識として、人間観とか歴史観とかよばれる理論になっているのである。ここでのマルクスも現実の人間としてではなく、観念的な自己分裂によって全社会・全人間を一望のもとに観察し認識している、〈科学的世界〉における認識主体なのである。

 自然科学の「水」や「可視光線」や「原子」や「電子」にしても、社会科学の「人間」や「社会」にしても、それらは範疇とよばれる抽象的な認識であって、これらの範疇を文章に表現するために学術用語が必要になったのである。俗流反映論はこの範疇とよばれる認識を、外部世界の範疇の反映だと解釈する。これは、鏡と同じように外部世界に実在するものをそのまま反映したものだと解釈する点で、オバケとよばれる認識は外部世界のオバケの反映だとか、紙とよばれる認識は外部世界の神の反映だとか、主張するのと共通している。ミーチンや永田広志などの官許マルクス主義者の認識論の教程は、範疇をこのように俗流反映論の立場でせつめいしたにとどまっていて、範疇とよばれる認識が直接とらえることのできない対象やまだ現実に存在していない対象をもとりあげている事実に注意を向けなかったし、その時の認識主体がどんな性格のものであるかについても反省しなかった。けれども哲学者は、俗流唯物論者の俗流反映論では範疇なりこの相互関係を規定した一般法則や一般論がなぜ真理であるかを説明できないことを見ぬいて、カント主義にはじまるドイツ古典哲学の展開ともなり、またいまもってカント主義が再生産されることにもなっているのである。範疇を正しく説明しようとするならば、どうしても自己分裂によって成立する認識主体をとりあげなければならないし、これがほかならぬ現実の科学者の観念的な分身であって、分身としての認識をひっさげてまた現実の科学者に復帰していくことを指摘しなければならない。そしてこの特殊な認識主体としての認識の正しさが、さらに実験なり産業なり歴史の発展の中なりで実証されるとして、実践を正しく位置づけなければならない。カント主義はこの特殊な認識主体をアプリオリズムで解釈し、フィヒテ主義は「我」としてここから〈科学的世界〉および〈日常的世界〉の「非我」が分れると解釈し、ヘーゲル主義になると客観的な「絶対概念」の一つのありかたとしての客観的な範疇が自己発展によって〈日常的世界〉へとそのすがたを変えるのだと解釈したのである。それゆえ官許マルクス主義はカント主義を非難し拒否するだけで、いまもって克服し止揚してはいないわけである。いうまでもなく、これはマルクスからの後退である。

 カント主義者が言語と言語規範とを正しく区別できなかったり、あるいは「言語の限界が私の世界の限界」(ヴィットゲンシュタイン)と認識の限界から世界の限界をひき出したりするばかりでなく、〈日常言語〉と〈科学言語〉をまったく異なった種類の言語として切りはなして論じるのは、右に述べたような認識論的なふみはずしに原因するのである。私が二十年前から、正しい認識論なしに正しい言語理論の建設は不可能であると強調してきたのも、右のような問題をふまえてのことであった。

 

 夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析

−p.287−

 文学論はすくなくないが、読者が文学を鑑賞するという事実について理論的に解明したものは、ほとんど見ることができない。もちろんそれにはそれだけの理由がある。創作の理論的な解明ができないのに鑑賞だけ解明できるはずはない。創作活動にしても鑑賞活動にしても精神活動であるから、その解明には認識論の援助を受けなければならないのだが、これがまた確立されてはいない。それに、読者は作者に対して本質的には受動的な態度をとり、作者の創造を忠実に受けとらねばならないのだが、それには読者の能動的な精神活動が要求されるのであって、ポカンとただ文字をながめていたのでは与えられた作品を正しく読みとることができないし、またどんなに正しく読みとるべく努力したとしても、近似的にしか受けとることができない。作者の精神活動を読者が完全にそのままくりかえすことは不可能なのである。そのために、現実の世界と人間の認識とはどういう関係にあるかについて、哲学者がふみはずしたのと同じ発想が、文学作品と読者の認識との関係の説明にも現われてくる。現実の世界のありかたを完全にそのまま認識しているならば、唯物論者のいう〈反映〉論も承認しようが、認識は現実の世界のありかたとくいちがうし時には空想的な存在をも想像するのだから、反映論は認めるわけにはいかないと哲学者は不可知論から観念論へふみはずしていった。作品の鑑賞にあっても、読者の受けとり方はすべて不完全であるし時には誤解や曲解も起っているから、鑑賞を〈追体験〉というのは正しくないと、評論家はいい出しかねない。「読むという行為は誤解のつみかさねである」という者も出てくる。創作の理論的解明ができない左翼の評論家は、読者の鑑賞それ自体をとりあげようとしないで、機能論的に、文学は「生活を組織する」ものだと論じ立てたりしているのである。

 私がこれまで著書や論文で述べてきたこの問題の理論的な解明を、簡単にスケッチしておこう。作者が空想の世界を小説に描くことは、作者が意識的・目的的に夢を見てその夢を読者に言語で伝えようとすることである。読者は小説を読みながら、作者にみちびかれて作者と同じ夢を見ようとする。作者は自分の創造した夢の中で、織田信長の若き日の生活をながめたり、二一世紀の宇宙旅行で他の遊星に行って宇宙人の生活をながめたりしているが、そのときの現実の作者は依然として昭和四十何年というカレンダーのおいてある書斎の机の前にすわっている。

 これは、夢の中でオバケに追われて必死に森の中を走っていても、その時の現実の人間はベッドの中で動かずに眠っているのと共通している。これを人間の観念的な自己分裂二重化とよぶが、作者にみちびかれて作者と同じ夢を見る読者にしても、郊外電車の座席に腰を下(おろ)して週刊誌のこまかい活字をながめながら、同時に平清盛の生活をながめるという観念的な自己分裂・二重化を行わなければならない。この、読者が観念的に自己分裂を行って夢の中の作者と同じ立場に立ち、同じ体験をすべく努力することが、〈追体験〉とよばれる精神活動である。

 古典文学の解釈や、鑑賞経験を理論的に反省することは、これまでも行われなかったわけではない。たとえそれが認識論の未確立のために不充分なものに終ったとしても、それなりに正しい方向を進んだものは評価されてしかるべきである。それゆえこの小論では、時枝誠記と夏目漱石の主張をとりあげてみることにしよう。時枝の言語過程説は、京城帝大における「中古語研究」の題目での『源氏物語』の演習に負うところが多い。演習の開始に際して、彼は解釈ということの本質を考えるよう求めたむね、『国語学への道』(一九五七年)の中で述べている。

「解釈とは、どのやうな事実であるのか。この演習にあたつて、諸君はもう一度根本的にこの問題を考へるべきである。そこから出発して我々は解釈といふことを、その本質において生かさなければならない。解釈の本質を探つて行けば、勢ひ言語文章の本質が何であるかの問題に行き当る。言語文章の本質観に従つて、解釈といふことは、文字がその内に包蔵している音とか意味とかを引き出す作業だとも考へられるであらう。私は久しい以前から、言語文章の本質は、話手或は書手である言語主体が、自己の表現しようとする事物・事柄即ち表現行為の一形式であらうと考へて来た。であるから、文の解釈或は文を読むといふことは、文字面(もじづら)を通してこれを言語主体の音声、或は表現の素材である事物に還す仕事であると考へてゐる。解釈は即ち文字を話手の思想に還元することであり、表現過程を逆に辿ることであると考へてゐる。解釈といふ仕事は、表現主体に立返るといふことによつて完成するのであるから、解釈者は常に己を空しくして、表現主体といふことを念頭から去つてはならない。

 『国語学原論』(一九四一年)には、つぎのように記してある。

「古代言語の記述は、これを古代人の主体的行為に還元することによつてのみ、我々はこれを具体的な言語経験として把握することが出来るのである。古代人の主体的活動に還元するといふことは、……要するに、言語の観察者が古代人の言語体験を追体験することに他ならないのである。一般に古代言語の研究といふことは文字を通して観察者に於いて古代言語の音声と意味とが理解せられるといふ経験そのものを対象として把握することから始まるのであつて、この様な主体的な経験を除外して我々は古代言語を対象とすることは出来ないのである。」

 こうして、古代人の言語体験すなわち夢の中での作者の体験を主体的に〈追体験〉する立場と、現実の読者が現実の作者の作品について論じる観察的な立場とを、時枝は区別して、この識別が「極めて重要」であると強調したのであった。この言語における〈主体的立場〉と〈観察的立場〉との区別は、私が名づけたところの人間の観念的な自己分裂・二重化を経験的にとらえたものにほかならないのである。

 夏目漱石については、まず『吾輩は猫である』の創作と鑑賞を考えてみよう。これはいわば「猫」の生活記録であり、漱石の空想の世界に生きている「猫」が身辺のさまざまな事件やその見聞で感じたことについて、ペンをとって記したことになっている。作品の〈表現主体〉は「猫」であるから、読者もこの「猫」の体験を主体的に〈追体験〉しなければならない。さらに、空想の世界の中では登場人物である苦沙弥や迷亭や寒月などがいろいろ語り合っているけれども、作品の中の彼らの会話は「猫」がそれらの発言を忠実に記録したことになっているから、読者も苦沙弥なり迷亭なり寒月なりそれらの発言の〈表現主体〉に立返って、彼らの身になってその思想を読みとるべく努力することになる。このような、作者の創造した夢を〈追体験〉によって正しく受けとろうと努力することが、作品の鑑賞活動である。けれどもこの活動は夢の世界の中ですすめられるから、そこには苦沙弥はいても現実の作者漱石は存在しないし、夢を〈追体験〉する「猫」の立場の読者はいても現実の読者はいない。ところが鑑賞活動を終えた読者が、この夢の世界の外に出てあらためて作品を観察すれば、「猫」はもちろんのこと苦沙弥も迷亭も寒月もすべて漱石の創造であり、彼らの思想もすべて漱石が与えたものでしかない。夢の世界の中で、さまざまな〈表現主体〉に立返って読者が読みとったものは、夢の世界の外へ出たとき漱石の創造としてとらえかえされることとなり、そこに創作活動の分析とか作者の研究とかいうことが新しくはじまるのである。時枝が「観察者と主体との二の立場は厳然と区別されなければならない」といったことばは、この作品にあっては現実の作者としての漱石の立場と、〈表現主体〉としての「猫」や登場人物の立場を混同して扱ってはならないことを意味するわけである。

 さて、漱石によってなされた文学の鑑賞経験の理論的な反省は、『文学論』(一九〇七年)において展開されているが、読者が「表現主体に立返る」問題を具体的にとりあげた第八章「間隔論」をここで検討してみよう。この章では、作品中の事物や人物と著書との〈間隔〉、および著者と読者との〈間隔〉をとりあげて、その〈間隔〉の変化を論じるのである。

「普通の記述は作中に融化せられざる著者の媒介を待ってはじめてこれを納受するはまへに述べたるがごとし。を記事とし、を作家とし、を読者として、三者の間隔を図に示せば――――となる(これを第一図とす)。もし記事の性質と著者の技巧により、幻惑の高潮度に達したるとき、卒然として著者の存在を遺却して当面に記事を熟視するを得ば、間隔は縮(ちぢま)つて――となる。読者と著者と合したるの興致を示すものなり(これを二図とす)。作家もしをもつて事を叙し、編中の一人を代表して文を遣るとき、単独なる作家は当初よりその存在を認むるの必要なきをもつて間隔ははじめより二図と異なるなく――をもつて示すを得べし。」(傍円は原文)

 あとで説明するけれども、ここで著者とよばれているのは実は〈表現主体〉であり、自己分裂で生れた夢の中の作者である。時枝は二つの立場を区別して〈主体的立場〉への移行を説いているのに、漱石には移行の自覚がなくて図式に直ちに〈表現主体〉を持ってくるのであるから、理論的に未熟であったことは否定できない。しかしながら彼は、この間隔論をひっさげて、スコットの歴史小説『アイヴァンホー』の分析をすすめるのである。

「少時 ScottIvanhoe を読んで、Rebecca の盾を翳(かざ)して壁間より戦状を Ivanhoe に報ずるの章に至つて張目寝(い)ぬるあたはず、燈を挑(かか)げて天明に達せるは、今なほ明かに記憶にあり、当時庶幾(しょき)するところはただ書を楽しむにあつて、事を解するに存ぜざりしをもつて、そのなにがゆゑにわが心を動かすのかくのごとくはなはだかりしかはつひに脳裏に反問するの意なくして長く歳月を経たり。後年やうやく思索の街頭に往来の蒼頭白首を数へて、紅絹青衣を類別するに至つて、はじめて十年の昔に回頭して、考案のいまだ透過せざるものあるを思ひ、これを拈定(ねんてい)して一炷(しゅ)の香を焼くこと再三、いまだ分明に端的を会せずして已(や)めり。今またこの間隔論に逢着して、まへの話頭を挙しきたるの恰好なるを見る。もし弁じ得て釈然たらざるとき、おほかたの善知識余のために三十棒を揮(ふる)へ。」

 これまでに三十棒を揮った「善知識」がいたかどうか、私は知らない。小泉信三はこの分析を「夏目理論」の展開だといい、理論的な検討はしていないが、「彼れに在(あ)つては、その凡(すべ)ての理論の前に人真似はしないといふ潔癖があつた。お伽話にある、裸の王様を裸だといふ正直があつた。」と書いている。たしかに、右の自分の経験を述べた文章にしても、彼が自己に誠実であることの一端がうかがわれる。

Ivanhoe の場合にあつて上図のに相当すべきは城下に起る戦闘の光景なり。黒兜白毛の騎士なり。長幹偉躯の悪僧なり。伏せて彎(ひ)く弓なり。空に鳴る矢なり。剣光なり。馬影なり。咄喊(とっかん)の声、甲冑の波なり。しかしてこれ等の動静を叙するものは著者にあらずして明眸皓歯(めいぼうこうし)の佳人 Rebecca なり。ゆゑにこの際における図式は――――にあらずして、――――となる。換言すれば作家に代ふるに Rebecca をもつてしてはじめて相当なる図式を得るものとす。幻惑(作家の技倆、記事の内容より生ずるもの、間隔より生ずるものにあらず)の熾(さかん)なる時読者、作家の筆力に魅せられて、一定の間隔を支持することを忘れ、進んでこれに近づき、近づいてこれに進み、つひに著者と同平面、同位置に立つて、著者の目をもつて見、著者の耳をもつて聴くに至るがゆゑに著者と読者の間に一尺の距離をも余すことなし。しかしてこの際における著者は Rebecca にあらずや。この際における幻惑は白熱度ならずや。吾人は進んで Rebecca に近づかざるを得ず。つひに Rebecca と同平面同位置に立たざるべからず。最後に R. の目をもつて見、R. の耳をもつて聴かざるべからず。R. と吾人との間に一尺の距離を余すなきに至つて已(や)まざるべからず。

 まず、この作品が三人称小説であることを確認しておこう。それゆえこの小説の〈表現主体〉は、現実の作者スコットではない。作者から観念的に分裂して空想の世界の中にいる無色透明の傍観者であって、アイヴァンホーやレベッカや獅子王リチャードやロビン・フッドなどの活躍をながめて書き綴っているのである。この傍観者は、レベッカが目の前の戦況を、味方の黒騎士が倒れたとか、立ちあがって敵将を倒したとか、つぎつぎと語るのを忠実に記録していく。読者もこの記録を通じて、空想の世界の中の〈表現主体〉に立返って〈追体験〉するから、「R. の目をもつて見、R. の耳をもつて聴」くことになる。ここで注意しなければならないのは、右の文章で「作家の筆力」といい、また「著者の目をもつて」といって、二つのことばを使いわけている点である。これは漱石が明確に自覚してはいないにしても、「作家」というときは現実の作者を、「著者」というときは〈表現主体〉をさしているのであるから、無意識のうちに区別を与えたものと見なければならない。無意識だけに混同することもあって、「作家に代ふるに Rebecca をもつてして」と、現実の作者と〈表現主体〉が入れかわるかのような説明が見受けられるし、あとのほうでは「この際における著者Rebecca にあらずや」と正当に説明しているといった、食い違いが見られるのである。

「しかるに Rebecca は編中の一人物なり。戦況を叙述するの点において著者の用を弁ずるとともに、編中に出頭し、透迤として事局の発展に沿うて最後の大団円に流下するの点において記事中の一人たるを免かれず、このゆゑに吾人は著者としての Rebecca と同化するかたはら、すでに記事中の一人なる Rebecca と同化しをはるものなり。こゝにおいてか Ivanhoe の記事は重圜を描いて循環するを見る。外圜を描くものは Scott にして Rebecca はこの圜内に活動し、内圜を描くものは Rebecca にして、堞下の接戦はその中に活動す。吾人は幻惑を受けて戦況を眼前に髣髴するの結果、内圜を描くものと同時、同所に立つて覚らず。顧みればすなわち身はすでに外圜のうちに擒(とりこ)にせられて、編中の人物とともに旋転するを見る。翻つて Scott を索(もと)むればはるかに外にあつて、吾人と利益をともにせざるがごとく長嘯するに似たり。」

 漱石がここで Scott とよんでいるのも、実は現実の作者ではない。「圜を描くもの」はすなわち〈表現主体〉であって、空想の世界の中にいて空想の世界を記録している無色透明の傍観者である。これを Scott とよんでいるのは、現実の作者と正しく区別できないことを示している。つまり、読者は作品の〈追体験〉において、まず「内圜を描く」無色透明の傍観者に観念的に「同化」し、空想の世界に展開する事件を客観的にながめていく。つぎに、そこに登場して「内圜を描く」Rebecca にさらに観念的に「同化」するという移行を行って、こんどは Rebecca の見聞する戦況を「眼前に髣髴する」ことになる。この移行によって、読者はもはや傍観者の立場ではなく、登場人物の立場に立っているのであるから、読者は観念的に事件の直接の体験者として行動し感情を持ち認識しているわけであって、自分たちの行動を外側からながめている無色透明の傍観者などは「吾人と利益をともにせざるがごとく」まったく別の立場の無関係な人間でしかない。

「このゆゑにこの場合における間隔的幻惑はもとより ――――のごとく隔靴掻痒の感あるものにあらず、あるひは読者の進んで著者と合したる――にもあらず。または著者の余となつて編中の人物を代表する意味においての――にもあらず。読者が記事そのもののうちに闖入せる場合なり。図をもつて示せば()ならざるべからず。記事、読者ともに一圜中に生息して、尺寸の間隙なき場合ならざるべからず。さらに竿頭に一歩を進めていへば記事と読者が一団となるのみならず、真の著者をはるかの後へ(しりへ)に見捨てたる場合ならざるべからず。したがつてこの特殊なる吾人の幻惑は、記事を操つる著者が、記事に対するよりも、吾人が記事に対するの、はるかに親密の度において優れりとの自覚より来るものなり。みづから記事中に活動して圏外の著者を疎外視するより来る幻惑なり。これを図に示すとき()――なる変形を得るに似たり。」

 この場合の「外圜」に対する「内圜」は、時枝のいうところの入子(いれこ)型構造になっていて、それぞれに〈表現主体〉すなわち漱石のいう著者が存在しているのである。だから「外圜」の著者が「真の著者」だと漱石が書いているのは、どちらの〈表現主体〉も真実には Scott創作になるものだという意味での空想の世界の創作者と、物語を記録する「外圜」の無色透明の傍観者との混同が、ヒョイとことばの上に出て来たものと見ることができる。それはそれとして、漱石はここで、三人称小説の登場人物が〈表現主体〉となるときの読者の〈追体験〉を、事件の傍観者からさらにすすんで事件の中に「闖入」するときの「白熱度」のイリュージョンの高まりとして、問題にしているのである。それは、単に登場人物が〈表現主体〉になればすべてそうなるというのではなく、Rebecca の場合は特殊な条件にあるからだということを、つづいて指摘するのである。彼は Rebecca の表現が現在形であり、全体として〈歴史的現在〉とよばれる形式となっているところに注意を求めている。

「この場合にあつては記事そのものが吾人の目的なるをもつて、記事の面白ければ面白きほど(他に関係なく)吾人は満足の意を表すものとす。しかしてこれを面白くする一方法として戦争は現在において起らざるべからず。余は単に通俗なる修辞の一として教へられたる歴史的現在に付着せる普通の意義においてこれを主張するにあらず。単なる時間の短縮は、話材を事実に変じて活動の一睛を点ずるにおいて、その功力の争ふべからざるものは明かなりといへども、この場合における余の主張は、かく一般に認識せられたる功力以上のあるものを現在法に見留むるがゆゑなり。現在法によりて逐次に転回する事件は読者に対して未知数なるのみならず、これを活説する Rebecca にもまた未知数なり。単に Rebecca に対して未知数なるのみならず、事件の発展に対してその期に達せざるかぎりは、運命と号する怪物のほか天下また何人も知るあたはざるなり。知るあたはざるがゆゑに、読者の注意はもちろん、Rebecca の全精神もまた局面の発展に傾瀉(けいしゃ)するのは自然の理なり。未知数は不定なり。不定なるものは甲たらんも知るべからず。乙たらんも計りがたし。その結果の甲たり乙たるにおいて吾人の興味に大なる影響を与ふるとき、話すものの全身はことごとく目なり。聴くもの全身はことごとく耳なり。運命の一子を下すたびに一喜しまた一憂す。けだし運命のわが期待するごとく変ぜんかとの投機的希望に束縛せらるゝがゆゑなり。Rebecca の眼下に起るは戦にあらずや、戦とは敵と味方とを意味し、敵と味方とは勝負を意味す。The Black knight か、Front-de-Boeuf か、これ読者の呼吸を凝らして知らんと欲するのみならず、Rebecca のまた張胆明目して知らんと欲するところのものなり。しかして Rebecca のかく熱心なるは勝敗の数いまだ定まらざる現在の光景なればなり。一分の発展するごとに、一分の結果をもたらし、一分の結果をもたらしつゝ発展し去る刻下の状態なればなり。」

 私はこの分析に同感であった。漱石の東大での文学論の講義は明治三六年九月〜三八年六月であるから、「間隔論」はおそらく三八年春ころの講義であろうが、この部分は講述を不満として新しく書き直したものであるから、『アイヴァンホー』の分析が三八年の講義でどのように語られたか、三九年の新稿でどのように改められたか知るよしもない。ただ私がこの分析を読んだとき想い浮べたのは、三九年四月に公けにされた『坊つちやん』の一場面であった。終り近く、山嵐と坊っちゃんが宿屋の二階に陣取って、角屋の入口を見おろし、赤シャツが泊りにやってくるのを「一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らして」その穴からのぞいて待っている部分である。赤シャツは来るかも知れないし、来ないかも知れない。私たち読者にとって未知数であるばかりか、二人にとってもまた未知数である。「もし赤シャツが此処へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出来ないのである」! だがついに来た。赤シャツが野だいこといっしょに、二人の悪口をいいながら角屋に入っていく。二人は「おい」「おい」「来たぜ」「とうとう来た」と声をかけ合う。この〈表現主体〉を読者は〈追体験〉して、ついに天誅を加える機会が来たことを知った二人といっしょに、読者もまた興奮するのである。Rebecca は戦いを見おろしたが、山嵐と坊っちゃんは敵が来たのを見おろしてから戦いをはじめようというわけである。

 映画やTVにおけるキャメラが、〈表現主体〉の目であるとともに、観客の〈追体験〉における目となっていることは、ちょっと反省すればすぐわかるであろう。空想の世界を扱ったドラマは文学の三人称小説に相当し、キャメラの目すなわち〈表現主体〉の目は空想の世界の中の無色透明の傍観者として、思うがままにあるきまわっている。あるときは登場人物の顔をながめ、あるときは空から金門橋を見おろし、いまインディアンのそばで遠くから走ってくる駅馬車をながめたかと思うと、つぎにはその駅馬車の上から追ってくるインディアンをながめるのである。そしてこの傍観者である〈表現主体〉の目は、時々登場人物に移行し、登場人物の目として事件のありかたをながめ、そのとき観客もまた登場人物に「同化」して登場人物の体験を〈追体験〉することになる。そのいくつかの例を、私は『日本語はどういう言語か』(一九五六年)でとりあげて、スリルをもりあげるために意図的に使われることも指摘しておいた。殺人の場面でキャメラの目が被害者の目に移行して、せまってくる殺人者がその両手を首をしめようとさし出してくるのを見るといった場面は、しばしば見られるし、反対に殺人者の目に移行して、隣のビルの屋上からライフルでアパートの窓をねらうといった場面もおなじみになっている。ヒッチコックの “Spellbound” では、キャメラの目が犯人の目に移行して、事件の真相を見ぬいた女医をピストルの銃口が追う場面がある。女医はドアから出ていくが、追って動いていく銃口は沈黙したままである。女医の姿はドアの向うに消えてしまい、やがて銃口はキャメラ自身すなわち犯人自身に向けられて、発射される。自殺の表現である。同じ作者の他の作品では、ドアから入って来た男のすがたが次第に逆立ちしてくる。仰向けに寝ている女が首を動かして、近づいてくる男を下から注視しているのである。

 このような映画における登場人物への観客の「同化」は、文学と無関係に経験的に開発された方法であろうが、漱石の分析の正しさの傍証ともなるものである。フランスの評論家は文学における〈主体〉の解体とか飛散とか妄想をならべ、日本の評論家もそれをうのみにして口まねし、漱石の研究者と名のる人びとすら『文学論』の検討を避けて通るという現状において、私はあらためて漱石に敬意を表し脱帽したいと思うのである。

 

 

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