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三浦つとむ『レーニン批判の時代』

三浦つとむ選集2『レーニン批判の時代』

勁草書房 1983年6月3日

*ゴシックはボールドで表した。

 
序論 レーニンのヘーゲル的偏向とその影響
レーニン真理論の批判

レーニン国家論の批判




 

序論 レーニンのヘーゲル的偏向とその影響 (註)

 

 

―p.1―

 ソ連の第一次五ヵ年計画の成功が、マルクス主義者にとってどんなに感激的であったか、その理論の正しさを確信づけるものであったか、これはその時代にあって自ら体験しないかぎり想像することはむずかしいと思う。川上肇もまたその一人であって、その感激と確信は『第二貧乏物語』にも伝えられている。これはまた、当時のソ連の指導者たちに対する大きな信頼ともなった。スターリンに対する信頼や、スターリンとともにマルクス主義の前進のために努力するソ連の学者たちに対する信頼が、これによって高められることになった。

 しかしながら私としては、その感激と確信と同時にソ連のマルクス主義に対する疑いがつねにつきまとっていて、これが次第に具体化していったのである。それは私が探偵小説の愛読者であったために、万人が疑いを持たぬものを疑ってかかるという習慣をもっていたことも無関係ではないが、どうしても疑わずにはいられないような事実がつきつけられていたのである。その第一は、モンタアジュ論であった。これは映画理論として、さらには芸術についての基礎的な理論として、ソ連の映画作家たちがつくり出したものであり、それこそ世界を震撼させた理論であった。この中ではマルクス=エンゲルスがひきあいに出され、弁証法が論じられていて、唯物弁証法を適用した映画理論であり芸術理論であると名のっていた。だが、芸術に理論的な関心をもって検討していた私にとって、この理論が現象に目のくらんだ逆立ち理論であることは疑う余地がなかったのである。それにもかかわらず、マルクス主義から足をすべらしたときはたちまちきびしい批判をあびるはずのソ連において、このマルクス主義と無縁なことがあまりにも明瞭なモンタアジュ論が何ら批判の対象になっていないのはなぜか? 経済学や哲学のように、マルクスやレーニンがすでに確立した理論の分野ならばきびしい批判がなされるが、確立していない理論の分野ではこんな逆立ち理論さえ批判できないのはなぜか? こう考えていくと、ソ連の学者たちには自分の頭で理論を検討しあやまりを発見する能力が欠けているという結論にならないわけにはいかなかった。

 その第二は、第一とつながることだが、学者たちが執筆し権威あるものとして出版された教科書が、批判をあびて書き変えられるという事実であった。個人の著書とか新しい分野の研究論文とかならば、大きな欠陥があるとかあやまっているとか批判をあびても、それはうなずけることである。そうではなくて、唯物弁証法とかマルクス経済学などについての教科書が多くの学者によって集団の労作として書かれる場合には、、すでにたよるべき権威ある論文もたくさんあるし共同討議も十分に行なったうえで執筆されるのであるから、完成したものがまわりから批判の雨をあびて絶版にしなければならなくなるなどということは常識的にみて考えられない。それにもかかわらず、絶版にして書き直すという事実がしばしば起るのである。もし故意に内容をゆがめるのであれば、これはまた別の話だが、そうでないなら、マルクス主義の権威ある文献さえも正しく理解できないような、低いレベルの学者たちしかいないのだ、という以外に説明のしようがないのである。

 以上の二つの事実は、学者たちに対する粛正についても疑いを持たせることになった。おそらく学者たちは、善意で努力したにもかかわらず、能力不足で理論的に足をふみすべらしたのではなかったか? それを批判する人たちも、なぜ彼らがそのようなあやまりにおちいったかを理論的に分析し、批判する能力を持たないために、故意にあやまった理論を流布し混乱におとしいれたものだと解釈して、敵のスパイとか反革命分子だとかいう結論に持っていったのではなかったか? と私は疑ったわけである。

 さて、一九二九年十二月にマルクス主義農業家会議の席上でスターリンは演説を行い、理論戦線の現状はまったく不満であって理論が実践の要求にこたえていない事実を痛烈に批判した。ここから、一方では「プロレタリア文学におけるレーニン主義のための闘争」として「ラップ」(ロシアプロレタリア作家同盟)の指導者たちとその指導理論を批判するカンパニアが起り、他方では「哲学におけるレーニン的段階」のための闘争として、哲学において指導的な立場にあったデボーリンたちのグループとその理論を批判するカンパニアが起った。現実が要求している理論をつくり出さなかったではないかといわれた場合、講壇マルクス主義哲学者たちが一言もないことは当時も現在も変りがないわけで、なぜこんな立ちおくれがあらわれたのかその原因をさぐって批判し自己批判しなければならないのだが、それが「修正主義者」や「反党分子」のせいにされることも当時も現在も変りがない。ただソ連の場合には、指導的な立場にある哲学者の責任が問われ、彼の仕事のしかたや理論の中にその原因がさぐられることになり、ちょうどデボーリンがその立場にあったために、彼とその周囲の人たちの「偏向の克服」ということになったのである。このデボーリン主義批判を通じて、ミーチンが指導的な立場についた。ミーチンはデボーリン主義批判をまとめたいくつかの報告を行っており、日本でも訳されている。私は一九三一年四月に戦闘的唯物弁証法論者協会全連邦会議でミーチンの行った報告を、『マルクス主義の旗の下に』の日本版で読んだのだが、それは十分に説得的ではなかった。あとでのべるように、そこにはいくつかひっかかるものがあった。前記の第一と第二の事実から、別にミーチンの能力を評価していたわけでもなかったし、彼の主張のなかのいくつかの疑問は戦後の私のスターリン批判やレーニン批判につながっているのである。

 

 

―p.3―

 「ラップ」批判のカンパニアと「デボーリン主義」批判のカンパニアとの間には、理論的なつながりがある。ミーチンにいわせればつぎのようになっている。

「ロシアプロレタリア作家同盟の個々の代表者の間にも、またこの同盟の指導的活動家の間にも、幾多の折衷主義的誤謬の累積があり、『熟した果実』を諸々方々から借入れているといわねばならぬ。デボーリン一派が理論的領域に供したもの、いわゆる哲学的指導部が供したものは、いうまでもなく、理論戦線のこの分野にも影響を及ぼさざるをえなかった。この分野には、非常に大きな任務、デボーリン=プレハーノフの遺産を批判し、その誤謬を批判するという任務があり、同様にあらゆる事業を十分に高い理論水準に引き上げるという任務がある。」

 理論が実践の要求にこたえていないのは、理論家たちに責任があるのはたしかだが、その原因は彼らが「プレハーノフの遺産」のとりこになっているからだ、なぜならばプレハーノフはメンシェヴィキでその属している第二インターナショナルは理論と実践とが分離していたではないか、――こういう論理がカンパニア全体をつらぬいていたのである。『ラップ』批判のカンパニアは、蔵原惟人はじめ芸術理論家たちがうのみにした、悪名高い「唯物弁証法的創作方法」なるものは「トロツキスト的反革命家」アウエルバッハが反革命工作のために唱えたものであるかのようにいいふらして来た。だがこの創作方法は、科学と芸術とを同列におくベリンスキイ的発想から必然的に出て来たものである。デボーリン主義批判のカンパニアも、永田広志・古在由重その他哲学者たちがうのみにして、ミーチンと同じようにレーニンの『哲学ノート』を神聖化して来た。だがわれわれはミーチンの主張をも再検討しなければならない。

 周知のように、毛沢東の『実践論』『矛盾論』は、ソ連におけるデボーリン主義批判の「成果」をふまえ、「哲学におけるレーニン的段階」において展開されたものである。ところが中島嶺雄は『現代中国論』において、毛沢東の哲学的著作が一九三一年に出版されたシロコフ=アイゼンベルグの教程にもとづいている点を指摘しながら、ここでのべられている「ミーチン哲学がスターリン主義の哲学であることはいうまでもない」と、論証ぬきでもはや自明のこととであるかのようにのべている。なぜ「いうまでもない」のかといえば、それは哲学者山田宗睦の主張であり中島の接している代々木構改派の人たちがそう思いこんでいるからであろう。それでは、なぜ山田がミーチンの主張を「スターリン主義の哲学」だと言ったのだろうか? それは山田のかついでいる加藤正がミーチンの批判者だったところからはじまっている。山田は、加藤がスターリン主義の哲学の批判者としてトップを切ったかのようにまつりあげるのだが、それにはミーチン哲学すなわちスターリン主義の哲学でミーチン批判すなわちスターリン批判だという規定を必要としたのである。つまり山田は、スターリン批判の時流に乗って加藤の論文や自分の解説文を売るために、加藤のミーチン批判を誇張してこのような虚構をつくり出したのだが、中島はそれを見ぬけないでうのみにしたというわけである。

 たしかに、一九三八年にスターリンが「弁証法的唯物論と史的唯物論」を書いてのちはミーチンもスターリン哲学の礼讃者になって、レーニンよりもさらにスターリンが前進したと言っている。しかしこのことは、一九三〇〜一年ごろのミーチンの主張や教程のたぐいがスターリン主義の哲学だったことを意味するものではない。前記のように一九三〇年にはじまった理論戦線でのカンパニアは、レーニン主義のための闘争であり、プレハーノフの遺産の排除とレーニンの遺産の神聖化によってつらぬかれていたのである。『ラップ』の理論家たちは「正統プレハーノフ主義のために」というスローガンをかかげたことやプレハーノフの美学や文学批評を支持したことを非難され、デボーリン一派はマルクス主義哲学の根本問題においてプレハーノフとレーニンとの間にちがいはないと言ったことを非難されているのである。ミーチン哲学は山田や中島の考えているようにスターリン主義の哲学ではなくて、レーニン哲学であった。加藤はたしかにミーチンを批判したのだが、このレーニン哲学を批判しなかったばかりでなく、ミーチンに輪をかけて礼讃したのである。デボーリン主義批判は、スターリンの理論戦線批判に端を発したという意味で、スターリンとかかわり合いはあるのだが、スターリン主義の哲学なるものがデボーリンの理論にとって代わったわけではない。

 スターリンはデボーリン主義を「資格」づける人間として、カンパニアの途中にも登場する。ミーチンの報告はつぎのようにのべている。

「全討論の決定的な段階は、哲学および自然科学赤色教授学院細胞ビューローとの会談における同志スターリンの言明であった。同志スターリンが与えたその言明と指令とは討論を新たな高所に引き上げた。すべての問題が明らかとなり、明確に提起されてから、まず第一に、デボーリン一派の見解がメンシェヴィキ化しつつある観念論として資格づけられることになった。……同志スターリンとの対話はこの討論を現在の水準にまで高め、デボーリン一派を決定的に特徴づけた。」

 私はこれを読んで、デボーリン主義に対する態度がスターリンのイニシアティヴによってなされたことを知ったのだが、ここにひっかかるものを感じないわけにはいかなかった。なぜならば、デボーリンたちがマルクス主義から観念論へと足をすべらしたというのなら、そのすべらかしかたは哲学的なものであるから哲学的な特徴づけを与えてしかるべきであろう。事実「ヘーゲル主義的修正」という特徴づけが与えられているのである。スターリンの演説の批判にこたえようとする学者たちが、スターリンと会談してその意見を聞こうとするのはその当時として当然であろうし、学者たちが十分な能力のないにもかかわらず指導的な立場にいるデボーリンの理論を検討しようというのだから、スターリンの片言隻句がそのまま「決定的に特徴づける」結果になったであろうことも理解できる。しかしスターリンが哲学上の権威だという話は聞いたことがないし、専門的な論文もないらしい。デボーリンがプレハーノフを過大評価したとしても、それは唯物論者としてのプレハーノフであってメンシェヴィキとしてのプレハーノフではない。それにもかかわらず「メンシェヴィキ化しつつある」という政治的な傾向を特徴とする党派の名前をかぶせたのは、政治家スターリンの行きすぎた規定で政治主義のあやまりではないかと感じたのである。このことは、戦後になってスターリンが『ソ連共産党史』の中に哲学的な論文を書いたと聞かされ、それを見せられたときに、他のマルクス主義者のように神聖視してかかる気もちになれなかったことと、無関係ではない。

 ところでデボーリン主義批判においては、デボーリン主義なるものはつぎのように特徴づけられていたのである。デボーリン主義を再検討しようとする人たちは、これらの特徴づけが果して正統であるか否かについて自分の答を出さなければならないのである。

「一、理論の党派性の無理解。哲学におけるレーニン主義的段階の否定。
 二、唯物弁証法のヘーゲル主義的修正。
 三、弁証法と認識論とを対置すること、および弁証法の革命的本質の歪曲。
 四、メンシェヴィキ的=トロツキー主義的階級闘争観、機械論との合流。」(古在由重編『哲学講座第四巻、ソヴェト哲学の発展』)

 デボーリン主義者といわれる人たちが、いろいろあやまった主張をのべたことはたしかであるが、それがミーチンの解釈するようなものであったかどうか、それは問題だといわなければならない。それと同時に、ミーチンのこれこそ正しい理論だとふりかざしているものの中にも、あやまりがなかったかどうか、それも問題だといわなければならない。まず第一にあげられている「哲学におけるレーニン的段階」なるものについて、果してミーチンのいうように「哲学におけるレーニン主義はマルクス主義の哲学の発展における新しい最高の段階である。」か否か、レーニンの主張から検討してみる必要がある。もちろん、レーニンが個別科学としてのマルクス主義を前進させ豊富にしたことは疑いないし、高く評価しなければならないが、これが同時に哲学的な発展であるかどうかは吟味してみてからのことで、即断するわけにはいかない。現に、個別科学者としてすぐれた業績をあげている人たちが、哲学においては不可知論や観念論におちいっていることを、レーニン自身指摘しているからである。ミーチンは「レーニンの労作のような著しく新しい内容が――唯物弁証法そのものの発展、具体化、深化なしにありうるだろうか?」と、勝手にきめてしまっているが、私はこの点に疑いを持った。ミーチンはデボーリンが「哲学におけるレーニン的段階」を無視し否認していると非難したが、私はミーチンとは逆の意味で、デボーリンに異議を持っていたのである。

 

 

―p.8―

 一九二五年にレーニンの『唯物論と経験批判論』のドイツ語版が出版されたとき、デボーリンはこの本の成立のいきさつをのべた長い序文をつけた。これもデボーリン批判において、レーニンを低めプレハーノフを不当に評価するものとして抹殺されてしまったのだが、佐野文夫の訳した戦前の岩波文庫版(一九三〇年刊)にはこれがついていた。デボーリンはここで一九〇八年にレーニンがゴリキイに送った手紙を引用しているのだが、私はこの手紙の全訳を持っていたのでそれと引用文とを比較してみたところ、奇妙なことに気がついたのである。レーニンは「私は哲学の上では単純な一マルクス主義者にすぎないだろう」とか「哲学はよく読んでいません」とか書いているのに、デボーリンはそれらのことばの直前のところでいつも引用を打ち切っている。これらのことばがレーニンの神聖さを傷つけることを考慮して、処置したものであることは疑いない。したがってデボーリンはレーニンの哲学的な業績を無視し否定するどころか、反対に哲学的な未熟を隠蔽したということになる。デボーリン的なやりかたではまだまだレーニンの神聖化が足りないと、ミーチンが叱責しているのだということにもなる。永田広志は当時ミーチンの尻馬に乗って論文を書いていたが、彼の『唯物論と経験批判論』の訳本では、「人類の唯物論史の最高に位置」するものだという、これまた尻馬がのべてあった。私はこの本にレーニンの哲学的な未熟を、マルクス=エンゲルスの真理論からの後退を読みとっていただけに、永田の讃辞には不愉快な感じしかしなかった。

 周知のように『唯物論と経験批判論』には付録としてレーニンの『哲学ノート』の断片「弁証法の問題によせて」がついている。そこにはこうしるしてある。

「弁証法はまさに(ヘーゲルの、そしてまた)マルクス主義の認識論である。まさしく事がらのこの側面(ここでは『側面』ではなくてむしろ事がらの本質なのだ)に、プレハーノフは注意をよせなかった。他のマルクス主義者については言うまでもない。」(強調は原文)

 私はこれにひっかかるものを感じた。さらに『哲学ノート』を読むと、「ヘーゲル弁証法のプラン」という断片にこう記してある。

「論理学、弁証法、および認識論(三つの詞はいらない。それは同じものだ。)」

 これは前の記述と相通じるものであるが、私はこれにもひっかかるものを感じた。

 私がひっかかったのは二つの理由からである。第一に、エンゲルスは『反デューリング論』で弁証法について論じているが、「弁証法とは、自然・人間社会および思惟の一般的な運動=発展法則に関する科学以上のものではない」といい、さらに「個々の特殊過程の特殊性のことは考慮していない」と明言している。そうだとすれば、弁証法は思惟すなわち認識についても論じるにはちがいないが、それは自然や社会と共通した認識の論理について論じるにとどまるのであって、それ以上に出るわけではない。認識の持つ特殊過程の特殊な法則のことは考慮の外におくわけである。しかしながら、これを果して認識論といいうるであろうか。なるほど特殊と一般とは不可分であるにはちがいない。認識論の建設も弁証法に助けられ弁証法を導きの糸としてはじめて可能であるにはちがいない。だがこのことは、弁証法イクオール認識論であるということを何ら意味するものではない。エンゲルスならば、それは一般と特殊とを混同するものだ、と批判するにちがいないのである。

 第二に、私は芸術論・言語論をやっていたのだが、これらは人間の認識の全体的ありかたとかかわっているのだから、これらを科学として確立するにはどうしても具体的な認識のありかたを理論的に解明しなければならない。それすらまだほとんどなされていない状態である。芸術では、フィクションの世界の創造や、認識のありかたのかたちや音による表現などの問題があるし、言語では語法・文法など規範の問題があるが、これらはいずれも認識の特殊なありかたであるから、認識論はこれらの解明をもふくんだ個別科学として展開されなければならないと考えられた。この私の認識論に対する考えかたは、弁証法イクオール認識論だというレーニンの主張とはあまりにもへだたりがありすぎたのである。そこでさらに思ったことは、ソ連の芸術論がリアリズムについての一般的な規定を論じるだけですこしも具体的な創作方法を論じない事実や、マルクス主義言語理論が体系として展開されていない事実であった。これらは、弁証法イクオール認識論だという主張によって、間接的に足をひっぱられているのではないかとさえ、思われたのである。

 

 

―p.10―

 戦後主体性論争の中で、田中吉六がレーニンの「論理学、弁証法、認識論の同一性」をとりあげたとき、私もふたたびデボーリン批判の時代に立ちかえってこれを検討してみた。そのとき気がついたことは、第一にデボーリンの罪状の一つとしてあげられていた「弁証法と認識論とを対置すること」は実はデボーリンのほうが相対的に正しかったのであって、ミーチンがレーニンのことばをふりかざして正しい主張を押しつぶしたのだという点である。すなわち、デボーリンが弁証法を「一般的な理論」だといったことそれ自体は、エンゲルスも指摘しているように正当なのであるが、これが「弁証法の理論からあらゆる具体的な物質的内容を観念論的に去勢する」ものだとか、「まったく経験の一分子をふくまず、抽象的で『一般的な』、具体的なもの特殊なもの個別的なものから引きはなされた、思考の範疇」で「形式と内容の分離」「弁証法と認識論との観念論的な分離」だとか非難されたのである。第二にレーニンが「弁証法はまさに(ヘーゲルの、そしてまた)マルクス主義の認識論である」と言ったのは、ヘーゲル論理学を読んでヘーゲルにいかれたためだという点である。弁証法はヘーゲルの認識論である、が、マルクス主義の認識論ではない。にもかかわらずレーニンは、ヘーゲルを検討して前者を認めただけでなく、それをただちにマルクス主義へ持ちこんで、マルクス主義にとってもやはり認識論であるという、あやまった結論へ足をすべらせたのである。ところが私がこのことを知ったころ、突如としてスターリンが言語論文を発表したために、私はそれまで言語学について発言して来たマルクス主義者として、自分の見解を発表しスターリン理論をその根底から批判しなければならぬ立場におかれることになった。このスターリン批判がいれられなかったために、レーニンに対する批判はスターリン批判が一段落したのちに延期しなければならなかったし、それもまず国家論の誤謬の批判からはじめることになった。こうしてレーニンの『哲学ノート』の批判は、雑誌『現代思想』(一九六一年六月号)に書いた「弁証法とは何か」で公にされたわけである。

 私は右の論文のなかで、レーニンの主張は「ヘーゲル的偏向の端的な告白にすぎない』と指摘しておいた。それをかいつまんでくりかえして説明するとこういうわけである。ヘーゲルにとって、現実的な世界は絶対精神が自らを「外化」したものにすぎない。いいかえるならば、物質的な世界は精神がそのかたちを変えたものでしかないから自然も人間社会も思惟もすべて本質的に同じもの、すなわち精神である。つまり万物は認識のありかたである。「ヘーゲルにあっては、その弁証法は精神の自己発展なのである。」(『フォイエルバッハ論』)それゆえに、絶対精神のありかたすなわち弁証法、認識のありかたすなわち弁証法であって、弁証法について論じることはとりもなおさず認識について論じることを意味している。論理学は万物をつらぬく論理を論じるのであるから、万物すなわち認識のありかただとするヘーゲルにあっては、論理学も認識のありかたについての論理を論じることになり、認識論だということにならざるをえない。それゆえヘーゲル観念論においてこそ、弁証法は認識論だとか三つは同じだから別のことばはいらないとかいう主張が成立するのである。唯物論ではそういうことにはならない。認識論はあくまでも認識のありかたを解明する個別科学として体系化されなければならない。認識が物質的な世界の反映である以上、物質的な世界のありかたもその意味で問題にはなるが、認識の特殊性にもとづく特殊な法則の解明に重点がおかれるのであるから、論理学のようにすべてを対象としてそこから一般的な法則をひき出す学問とは明確に区別をしなければならない。

 ヘーゲルの弁証法とマルクス主義の弁証法とのちがいは、『フォイエルバッハ論』に説明してあるのだが、レーニンはこの著作をどちらかといえば軽視する傾向があったようである。それがヘーゲル弁証法にひきずられた原因の一つになっているように思われる。けれどもソ連の学者たちは、ミーチンに端的にあらわれているように、エンゲルスにくらべてすべての点でレーニンのほうが前進しているものと信じていた。デボーリンは革命以前からの活動家であり、ヘーゲルにも通じていただけに、レーニンの哲学的な仕事に対して信仰的になりえなかったし、「哲学におけるレーニン的段階」をさわぎ立てることもできなかったが、たとえ彼がレーニンの誤謬について確信を持ったとしても、それを公言することはただちにスターリンによる処刑となってわが身をほろぼすことになるから、口をつぐんでいたにちがいない。このようにして、論理学も弁証法も認識論も同じものだというレーニンの主張は、ヘーゲルへの後退どころかマルクス=エンゲルスよりもさらに発展した段階なのだと信じられ、これをめぐっていろいろな議論が行われた。このレーニン信仰と議論とは、そのまま戦前の日本の唯物論研究会にも持ちこまれ、雑誌『唯物論研究』の誌上をもにぎわしたのであった。

 

 

―p.12―

 弁証法についてのエンゲルスの規定とレーニンの規定とが相いれないものだと自覚できないマルクス主義者は、結局のところ両者を折衷しなければならなくなる。戦前派としては加藤正がそうであったし、戦後派としては寺沢恒信がそうであって、ちがいはただ折衷のしかたにすぎない。一九五六年すなわちスターリン批判後に寺沢の書いた『認識論史』は、つぎのようにのべている。

「レーニンのこれらの指示は、ソ同盟の哲学界で必ずしも十分に実現されてこなかった。ことに、弁証法と論理学と認識論とを統一的に理解することがきわめて不十分であった。自然と社会およびそれらの人間の意識内への反映である認識の、もっとも一般的な発展法則の科学である唯物論的弁証法のなかから、とくにその一部分である認識の弁証法を取り出し、これに特有の諸法則を組織的に研究するのが弁証法的論理学である。ところがソ同盟では、レーニンの死後、その指示に反して、弁証法的論理学の研究がないがしろにされてきた。唯物論的弁証法の研究において、その諸法則の普遍性のみを一面的に強調するという、偏った傾向が支配的であった。このような欠陥が批判され、弁証法的論理学を体系的に仕上げるという任務の重要性がようやく一九五四年になって強調されるようになった。そして一九五五年には、『論理学と認識論と弁証法との統一』というレーニンの指示がとくに重要視され、この指示にもとづいて今後数年間の研究テーマを組織的に整理し、この研究計画にもとづく研究が開始された。この計画どおりに研究が遂行されれば、ソ同盟の哲学界は面目を一新し、近い将来に弁証法的論理学の体系的叙述が完成されるであろう。しかし現在までのところでは、弁証法的論理学の(したがってまた認識論の)仕上げという仕事は、はがゆいほど遅々としたあゆみをつづけている。」()

 「一般」というときには、そこにはもはや特殊性は捨象されてしまっている。それなのにその「一般」の「なかから」「その一部分」である認識の弁証法を「取り出す」といのだから、これはまったくのナンセンスであり一般から特殊をとり出してくる観念論者に共通したナンセンスである。認識に特有の法則を研究するのが論理学だというのもナンセンスである。エンゲルスとレーニンとを折衷しようとすれば、こういうナンセンスにならないわけにはいかないし、こんなことをしていたのでは「面目を一新」するどころか「遅々たるあゆみ」しかできないのが当然である。

 読者はここで疑問を持つかも知れない。認識に特有の法則を研究するのは認識論だと思っていたが、それを寺沢は論理学だと主張するのであれば、彼は認識論を何と規定しているのだろうか、と。寺沢はいう。「知ること(認識作用)およびその結果獲得された知識(認識)についての何らかの哲学的反省のすべてを、認識論とよぶ。」認識論を論理学とよぶ人間は、論理学を認識論とよばなければならないように論理的に強制されることになる。認識についての「哲学的反省」すなわち一般的な法則を研究することは、論理学においてなされるのであってそれ自体は認識論ではない。

 マルクス主義哲学者と称する人たちは、哲学を教えて生活しているという自らの存在によって意識を規定され、「哲学一般はヘーゲルとともに終結する」(『フォイエルバッハ論』)というマルクス主義の立場を受けいれようとはしないで、何とかして哲学が存続するかのように解釈しようとした。そして認識論は「哲学的反省」によって得られるものだという、昔からの哲学者の主張に抱きついたのである。レーニンのヘーゲル的偏向はそのためのつっかい棒として役立てられることにもなったのである。しかしながら、寺沢のように認識論と論理学との内容を入れかえて逆立ちさせてしまうと、認識論も論理学もどちらも動きがとれなくなってしまう。なぜなら、認識に特有の法則を研究するのが論理学だといっても、論理学はそもそも「一般」的な法則をとりあげるのであるから、「一般」に重点がおかれて体系化されていくことになり、特殊はそれを説明するための例証以上の役割は与えられない。認識に特有の法則をたぐって体系化していこうとすれば、論理学を展開できなくなる。また、認識についての「哲学的反省」は認識に特有の法則を超えた「一般」的反省であるから、個々の認識のありかたはその「一般」的な法則の例証として位置づけられないわけにはいかない。ここでも認識論と名のりながら、認識に特有の法則をさぐって体系化することはできない。したがって二つの相反する逆立ちした内容の規定は、ともに個別科学としての認識論の確立を阻止するという点で一致する。寺沢のあやまった規定は、これまた皮肉なことに、弁証法の正しさの一つの証明になっているのである。

 

 

―p.15―

 スターリンの伝記には、彼の『弁証法的唯物論と史的唯物論』を、「マルクス・レーニン主義哲学思想の最高峰を示すもの」と書かれている。すなわち、この出現によってもはや「哲学におけるレーニン的段階」なるものも、正しくはあるがすでに過去のものとして扱われることになったわけである。ところがスターリンの死後、スターリンに不満を持つ学者たちが『弁証法的唯物論と史的唯物論』以前に立ち帰ってそこから再出発しようとして、寺沢も指摘しているようにレーニンのことばにもとづいた研究計画もつくられることになった。この、デボーリン批判このかたレーニンのヘーゲル的偏向の枠の中で常に学者が動いて来たという事実を理解するならば、ソ連の学界にあらわれたいろいろな奇妙な事実についても、納得がいくだろうと思う。そのいくつかをあげてみよう。

 まずミーチン時代のできごととして、形式論理学を弁証法の特殊な形態と解釈する主張が出現した。これはいうまでもなく、弁証法イクオール論理学であるとするならば、弁証法以外に論理学の存在を認めることは「哲学のレーニン的段階」の否定になるからである。エンゲルスは形式論理学と弁証法とを「二つの思考方法」(『反デューリング論』)ととらえていたのだが、このように形式論理学を弁証法と独立した論理学であると認めることはもはや許されないのであって、どうしても一つにしなければならないからである。しかし右の新しい解釈は、形式論理学の持つ特徴と、一定の限界の中での有効性を、それなりに正当に評価することの妨害となった。それと同時に、弁証法の論理学としての限界も無視されることになった。形式論理学を役立てている人たちが、これを納得できなかったことはもちろんである。右の解釈のしかたは、リアリズムとロマンチシズムを芸術の二つの方法ととらえることのできなかったソ連の理論家が、社会主義リアリズムの提唱にあたってロマンチシズムをリアリズムの「構成部分」としてぶちこんだのと、似たところがある。これもロマンチシズムの持つ特徴と有効性を評価することの妨害となり、リアリズムの方法としての限界を無視し、説得力を欠くこととなった。

 つぎに、ソ連にはいまもって認識論と名乗る体系的な個別科学が存在しない。そしてこれに近い内容を持つ個別科学は、心理学の名のもとに教科書化されている。これは認識を多面的に扱っていないという点でも、また従来の心理学がとりあげたさまざまの問題を扱ってその成果を吸収していないという点でも、はなはだ中途半端な認識過程についての体系的な叙述である。弁証法ということばは使われているが、認識の諸矛盾はほとんど解明されておらず、俗流反映論をぬけ出していない。そして認識の具体的な問題ととりくんでその特殊な法則を研究する個別科学者がほとんどいないらしく、そのような論文は稀にしかあらわれない。

 さらに、ソ連の哲学の教科書にあっては、マルクス=エンゲルスの諸論文がとりあげている具体的な理論をさらに論理的につっこんでいく仕事がほとんどなされないで、レーニンのやった仕事を(そのまちがったものをもふくめて)引用するにとどまっている。たとえば「疎外」についても、マルクスは現実的な労働における疎外としての商品や、観念的な疎外のありかたとしての宗教や法律をとりあげているのだが、これを論理として問題にしようとはしない。もし論理としてとらえれば、これは疎外した側とされた存在との対立の統一として、すなわち矛盾の一つの形態としての疎外と非敵対矛盾の一形態としての疎外との区別および相互の関係を論じるまでに、すすまなければならないことになる。しかしソ連の哲学者たちはそんなところへすすもうとはしないで、レーニンの『哲学ノート』の設定した枠の中でおっかなびっくりふみ出しはしたものの、レーニンの矛盾論にはあやまりがあったと公言することもできずに、中国側から修正主義だと攻撃をあびているような状態である。

 

(註)七三年の春に、長い間書きためた原稿のなかで、もう不要だと思われるものをミカン箱一杯燃やしたが、しまい場所の関係でその時燃やせなかったものを八一年一月に発表した。これはその中の一篇だが、本書の序論として適当だと思われるので印刷することにした。




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