ディーツゲン・マルクス・エンゲルスハイネ『ドイツ古典哲学の本質』>第三巻 哲学革命。カント、フィヒテ、シェリング

第三巻 哲学革命。カント、フィヒテ、シェリング

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 ひとつの寓話――イギリス唯物論の結果を暗示している こういう伝説がある。たくみをきわめたいろんな機械を考えだしたあるイギリスの技師がついに、人間をつくってみようと思いついた。この思いつきはついに成功した。この技師のつくった人造人間はほんものの人間のとおりにふるまった。そのうえ、その人造人間は皮でつくった胸のうちに一種の人間らしい感情もそなえていた。それはイギリス人のふつうに持っている感情とあまりかわらないものであった。その人造人間はとぎれとぎれの音で自分の感情をつたえることができた。このとぎれとぎれの音がきこえてくるので、ほんものの英語をしゃべっているように思われたのである。つまり、その人造人間は申し分のないジェントルマンであった。ただ、ほんものの人間になるにはたましいが足らないだけだ。イギリスの技師もさすがにたましいだけはあたえることができなかった。ところが、このあわれな人造人間は自分にたましいがないことをさとったので、まい日まい晩「たましいをくれろ!」とせがんでその技師をくるしめはじめた。いよいよしつこく何度もせがまれるのでその技師はついに辛抱できなくなって、自分のつくった人造人間をすてておいて逃げだした。ところが人造人間はすぐさま特別仕立の客馬車をやとって、技師をしたってヨーロッパ大陸まで出かけてきて、いつもあとを追いかけながら、ときどき技師をひっつかまえては、小声でぶつくさ云うのである。「たましいをくれろよ!」さてわれわれは今日どこの国へいっても、この技師と人造人間とに出あうのである。しかしこの技師と人造人間とのとく別の関係を知っている者だけにしか、このふたりが妙にあわてたり、不機嫌にいらいらするわけが分らない。けれどもこのとく別の関係を知っている者は、一般的な結果をそこに見いだすことができる。つまりイギリス国民の一部分は機械になっていることにあきはてたので、たましいを求めはじめた。するとイギリス国民の他の部分はこうした要求におそれをなして、あちこち逃げまわっている。そして、イギリス国民のそのいずれの部分も本国にはいたたまれなくなったということである。

 思想が行動の基礎である これはすごい話だ。われわれがつくってやったからだがたましいを求めるというのはおそろしいことである。けれども、われわれがたましいをつくったところが、そのたましいがからだを求めてわれわれを追いかけまわすようになったら、それこそいっそうすごい、おそろしい、気味のわるいことだろう。ところがわれわれの考えだした思想は、こうしたひとつのたましいである。思想はからだをあたえられるまでは、つまり物質的な現象にしてもらうまでは、われわれにせがんでやめない。思想は行動になろうとし、言葉は肉体になろうとする。そしてふしぎなことには、人間は聖書のなかの神のように、自分の思想を述べさえしたら、その言葉どおりの世界ができあがる。光と闇ができたり、大洋が大陸とわかれたり、野獣があらわれ出たりすることになる。世界とは言葉の意味をあらわす符牒だ!

 行動をほこる君たちフランス人よ! このことはよくおぼえておきたまえ。君たちは知らぬまに思想家の助手になっているのだ。思想家はごくつつましやかに黙っていながら、君たちのすべての行動をきわめてはっきりと、まえもってきめてしまうことがある。マキシミリアン・ロベスピエールはジャン・ジャック・ルソーの助手にすぎなかった。ルソーがたましいをあたえておいた胎児を革命の母体からひっぱりだした助手にすぎなかった。ルソーの生活をいじけさせたあのおちつかぬ不安の念は、おそらくルソーが、自分の思想は形をそなえてこの世にうまれでるにはどんな助産婦が必要かということをおぼろげながら感ずいていたからおこったものだろう。

 時代閉塞の現状 「もしも自分が世界中のすべての思想をこの手のうちににぎっていたとしたら、自分はその手をひらかないように用心するだろう」というフォントネル老人の言葉はあの時代にはあるいは正しかったかも知れぬ。しかし私はちがった考えをいだいている。もしもこの私が世界中のすべての思想をこの手のうちににぎっていたとしたら、私は君らにねがうだろう。「すぐにこの手を切りおとしてくれ! ながらくこの手をにぎったままではどうしてもおれないから。」私は思想の牢番にはなれないたちだ。ちかって、私は思想を牢屋から解放してやる! 解放された思想はきわめて危険なものになるかも知れぬ。バッカス祭の行列のようにさわぎたてて国々をあれまわり、そのバッカスの杖で世にも無邪気な草花をうちくだき、病院へとびこんできて、病気でねている古い世界をベッドから追い出すかも知れぬ。――そうなればもちろん私もずいぶんつらい目にあい、私自身も損害をうけるだろう。なぜかといえば私自身も残念ながら、病気にかかった古い世界のひとりであるからだ。「撞木杖(しゅもくづえ)をからかったとて、ちんばがなおるものではない」というのは詩人の名言である。私は君らのうちでもいちばん病気がおもい。そのうえ私は健康のありがたみを知っているだけに一そうあわれな身のうえだ。しかし君らは健康のありがたみなどは知らない。うらやましい人たちだ! 君らは自分でも知らぬまに死ぬことができるのだ。いや、それどころか、君らのうちの多くの人はとっくのむかしに死んでいながら、「いよいよこれからほんとうに生きるんだ!」と云いはっている。そこで私がその妄想に反対でもしようものなら、私をにくんで、どなりつける。――おお、おそろしや! 死体が私にとびかかってきて、どなりつけるんだ。その毒舌もさることながら、死人の肉のくさった匂いがたまらない。……ゆうれいよ、去れ! 私はこれからある男のことを話そう。その男の名まえだけでも魔よけの力があるぞ! その男とはイマヌエル・カントのことだ。

 ゆうれいは首きり役人の剣を見るとふるえあがると云われている。――ではゆうれいはカントの「純粋理性批判」をつきつけられたら、どんなにふるえることだろう。この本こそドイツで超越神論の首を切った剣である。

 カントとロベスピエールとの全般的な比較 正直に云うが君たちフランス人はわれわれドイツ人とくらべてみると、おだやかでひかえ目である。君たちはせいぜい、たったひとりの国王しか殺せなかった。しかも、その国王は君たちに首をきられるまえに、その首を失ったほどあわてていたのだ。そのうえ君たちはその首をきるときに、全世界がふるえるほどやかましく太鼓をたたいたり、わめいたり、足ぶみしたりしなければならなかった。マキシミリアン・ロベスピエールは王制をたおすとなれば、もちろん例の「破壊的」狂犬病の発作におそわれ、つづいて「国王首切り」のてんかんをおこして、ものすごくひきつけたものだ。けれどもお寺まいりをするとなると、すぐさまてんかんの白い泡を口からふきとり、血みどろの両手をあらってから、ぴかぴか光るぼたんのついた黄色の晴れ着をきて、おまけに幅ひろの胸衣に花束をさして出かけたものである。

 カントの日常生活 イマヌエル・カントの生涯の経歴を書くことはむずかしい。カントには生涯も経歴もなかったのだから。カントはドイツの東北の国境にある古い町ケーニヒスベルクのしずかなへんぴな横町で、千ぺん一律の、ほとんど観念的な独身生活をおくった。あの町の大寺院の大時計でも、やはりその町にすむイマヌエル・カントほど冷静に規律正しく表面的な日々のつとめをはたしたとは思われない。起床、コーヒーをのむ、著述、講義、食事、散歩と万事がきまった時刻になされた。イマヌエル・カントが灰いろの燕尾服をきて、籐の杖をにぎり、住居の戸口から出てぼだい樹のささやかな並木道へぶらぶらあるいていくのを見ると、となり近所の人たちは知ったのである。今ちょうど午後三時半だと。そのぼだい樹の並木道はカントにちなんで今日も「哲人の道」とよばれている。カントはその並木道をどの季節でも八度だけ往復した。天気がわるくて灰いろの空から雨がふりそうな日には、カントの下男のラムベじいさんが、おずおずと気づかわしげに、ながいこうもり傘をこわきにかかえて主人のあとをつけていくのが見うけられた。こうもり傘をかかえたこのじいさんの姿は神意をあらわしているようだった。

 この男の表面の生活と世界をおしつぶすような破壊的な思想とはめずらしい対照をなしている。たしかにケーニヒスベルクの市民はこの男の思想の意味そのものをおぼろげにでも感じたとしたら、この男を首切り役人よりももっとひどくおそれたことだろう。首切り役人は人間の首を切るだけのものだ。けれどもケーニヒスベルクの善良な市民はこの男をただの哲学の教授としか思っていなかった。それでカントがきまった時刻に散歩してとおりすぎると、したしげにあいさつをして、懐中時計をカントにあわせたものである。

 カントとロベスピエールとの性格の比較 ところで思想界の大破壊者であるイマヌエル・カントはテロリズムではマキシミリアン・ロベスピエールにはるかにまさっていたが、いろんな点で似ているところがあった。だから、このふたりの人物をくらべて見なければなるまい。まず第一にこのふたりには容赦しない、するどい、雅趣のない、くそまじめな正直さがある。第二にこのふたりにはうたがいぶかい心がそなわっている。カントはそのうたがいぶかい心を「批判」と名づけて、思想にたいして発揮したし、ロベスピエールはその心を「共和国の徳」と名づけて、人間にたいして用いたのである。第三にまたこのふたりにはひとしく小商人根性が最高度にあらわれている。このふたりは元来、コーヒーや砂糖をはかり売りするように生れついていた。ところがふしぎなめぐりあわせでほかの物をはからねばならなくなった。ロベスピエールのはかりの皿には国王が、カントのはかりの皿には神がのせられたのである……。

 そしてカントもロベスピエールもてきとうな分銅をそのはかりの分銅皿にのせた!

 「純粋理性批判」以前のカントの著作 「純粋理性批判」がカントの主要な著作である。われわれはとくにこの本を研究しなければならぬ。カントのすべての著書のうちでこの本ほど重要なものはほかにはない。この本はさきにも述べたように、一七八一年に出版されて、一七八九年にようやく有名になった。この本ははじめはまったく無視されていた。出版された当時はつまらん新刊批評が二つだけこの本について書かれただけである。ようやくその後、シュッツ、シュルツ、ラインホルトらの論文でこの偉大な書物に公衆の注意が向けられるようになった。世間からみとめられるのがこのようにおくれたわけは、おそらくこの書物の異様な形式とまずい文体によるのであろう。まずい文体と云えば、カントほど非難さるべき哲学者はほかにはあるまい。ことにカントがそれ以前にはもっとりっぱな文体で書いていたことを思いあわせると、なおさらのことである。ごく最近に出版されたカントの小論文集には、彼の初期の習作がおさめてある。それらの習作はわれわれをおどろかすような、りっぱな、ときには大そう気の利いた文体で書いてある。カントはあの大作「純粋理性批判」を頭の中ですでに仕上げておきながら、これらの小論文をはな歌まじりで書いた。これを書くときのカントは、きっと勝つと信じておちついて出陣の身仕度をする兵士のようにほほえんでいる。それらの小論文のうちでもとくに目だつのは、すでに一七五五年に書かれた「天文学の一般的な歴史と理論」、それから十年のちに書かれた「美と崇高の感情についての考察」およびフランスの随筆風に上機嫌があふれている「ある見霊者の夢」などである。これらの小論文にあらわれているカントの洒落はきわめて独特のものである。つまりその洒落は思想にからみついて、弱いながらも、さわやかな高所まではいのぼっている。もしこの思想にささえられないならば、もちろんあのきわめてゆたかな洒落は成長し得なかったろう。それはちょうど、とまり木をうしなったぶどうのつるが地面をみじめにはって、きわめてとおとい実をつけながらくさってしまわねばならぬのとおなじである。

 「純粋理性批判」の文体のむずかしいわけ ところでなぜカントは「純粋理性批判」をあんな味気ない、ひからびた包装紙のような文体で書いたのだろうか?おそらくデカルト、ライプニッツ、ヴォルフ流の数学的形式を否定してしまったカントは恐れたのだろう。もしも軽快な、やさしい明るい文体で述べられたら、哲学はその威厳をいく分損ずるだろうと。だからカントは哲学にしゃちほこばった、抽象的な形式をあたえた。それは思想の低い階級にはとうていしたしめない冷たい形式である。カントは、きわめて下世話なはっきりした表現をねらっていた当時の通俗哲学者とは自分をいばって区別しようととして、自分の思想を宮廷くさい冷えきったお役所言葉でよそおった。この点にカントの俗物根性がはっきりあらわれている。けれどもまた一面から見れば、カントは自分の丹念にきめられた正確な考えかたをあらわすためには、やはり丹念にきめられた正確な言葉が必要だったろう。しかし、カントはそのために紋切り型のお役所言葉よりもすぐれた言葉はつくり出せなかった。天才だけがあたらしい思想にあたらしい言葉をあたえる。ところが、イマヌエル・カントはけっして天才ではなかった。カントはあのまじめなロベスピエールとおなじように自分は天才ではないと感じたからこそ、天才にたいしては一そううたがいぶかかった。カントは「判断力批判」という著書でこう云いきっている。「天才は学問には用がない。天才の活動は芸術の世界にかぎられている。」

 カントは数学的形式を哲学から拒否した カントはその主著のおもくるしい、しゃちほこばった文体でおそろしい大損害をひきおこした。頭はからっぽの真似ずきがカントのこの文体だけを猿まねしたので、ドイツでは「よい文章を書く者は哲学者ではない」という迷信ができてしまったのである。しかし、あの数学的形式はカント以後は哲学では用いられなくなった。カントは「純粋理性批判」でこの数学的形式にきわめて無慈悲に死罪を云いわたした。カントの云い分はこうだ。哲学に数学的形式を用いたところで「カルタでつくった家」しかできない。それはちょうど数学に哲学式形式を用いたら、つまらんおしゃべりになってしまうのとおなじである。なぜかと云えば哲学での定義と数学との定義とは根本的にちがうからである。数学上の定義は討論のあげくに出てくるものではなくて直観的なものである。つまり直観によって直接に証明されるものである。ところが哲学でのいわゆる定義はひとつの試み、または仮定として一おう前もってきめられるだけのものであって、ほんとうの正しい定義はいちばんおしまいに結論としてようやく出てくるのである。

 哲学に用いられた数学的形式 さて哲学者らはなにゆえに、これほどまでに数学的形式をひいきにするんだろうか? これはピュタゴラスからはじまったことである。ピュタゴラスは客観界の原理を数であらわした。これは天才的な思想であった。一定の事物は数であらわされると、その事物の有限の感覚的な要素はすっかり除去されてしまう。しかも、その数は一定の事物と、その事物の他の一定の事物との関係をはっきりとあらわしている。その他の一定の事物も、数であらわされると、やはり有限の感覚的な要素をとりのけられたものになる。この点で数は観念と似ている。観念もまた有限の感覚的な要素をとりのけられたものとして、他の観念と関係している。だから、人間の精神と外界の自然とで成立する観念は数によってきわめて適切にあらわされるのである。けれども数はあくまでも観念をあらわす記号であって、観念そのものではない。ピュタゴラス先生はこの数と観念との相違をよくわきまえていた。ところが弟子たちはこの相違を忘れてしまって、孫弟子たちに象形文字としての数、記憶としての数だけをつたえた。その数のあらわす意味はついにはだれも分らなくなって、ただ学者ぶって口まねでしゃべるだけのことになった。数以外の数学的形式もこれとまったくおなじだ。永久にうごいている観念を固定することはできない。観念は数によっても、また線分、三角形、四角形、円などによっても固定されない。思想を数えたり、測ったりすることはできないのだ。

 「純粋理性批判」のうちのヴォルフ哲学との論争の部分はフランス人には余計なものだ 本書の主要な目的は、フランス人の君たちにドイツ哲学を勉強しやすくすることなのだから、私はいつも大たい皮相なことを話すのである。それがどういうものかあらかじめよく知っておかぬと、君らはその皮相なことにおどしつけられて手も足も出なくなる。カント哲学をフランスの民衆に分りやすく解説しようとする著述家諸君は、とくに次の点に注意してほしい。つまり、カントがもっぱらヴォルフ哲学のいろんな不合理をやっつけている部分は、はじめから取りのけてもいいということである。カントの著作のいたるところにわりこんでいるあのヴォルフ哲学との論争はフランス人に紹介したって、いたずらに混乱をひきおこすばかりで、なんの役にも立ちっこない。――うわさによればパリにいるドイツ人の学者、シェーン博士がカントの著作をフランス語にほんやくする仕事をすすめているそうだ。シェーン博士の哲学者としての見識はりっぱなものと思うから、いまさきに述べた忠告を同氏にもする必要はあるまい。シェーン博士はきっとこの有益な重要なほんやくをりっぱに仕上げることだろう。

 さきに述べたように「純粋理性批判」はカントの主要な著書である。カントのその他の著作はいわばなくてもかまわぬし、せいぜいこの主著の註釈と見なしてもいい。さてこの「純粋理性批判」のうちにひそむ社会的意味をこれから説明しよう。

 カントの認識論。物自体は認識できぬということ カント以前の哲学者は人間の認識の根源についていろいろと考えてきた。そしてすでに説明したように、「経験以前にも人間には元来、観念がそなわっている」という学説と、「人間の観念は経験によってはじめて得られる」という学説とふたつのちがった道をとって進むことになった。けれども、人間の認識能力そのもの、人間の認識能力の範囲、あるいは限界についてはあまり研究しなかった。そこでこの認識能力そのものを研究するのがカントの仕事となった。カントは人間の認識能力を容赦なく吟味した。この能力のおくそこをきわめ、この能力の限界をあまねく確定した。そしてカントはさとらねばならなかった。人間は、これまで知りぬいていると思っていた非常に多くの物を、じつは知ることができぬということを。これは大そう腹のたつことだ。けれども、人間の知り得ない物があるということをさとるのは、やはり有益である。われわれにこの道はとおれぬと教えてくれる人は、正しい道を教えてくれる人と同じだけの親切をつくしてくれるのだ。カントは証明してくれた。われわれはあるがままの物自体を知ることはない。ただその物がわれわれの心に映るさまだけを知るのであると。だからわれわれ人間は、プラトンが「国家論」第七巻で悲しげなさまをえがいているあの囚人とまったく同じである。その不幸な囚人たちは首がまわらぬように頭と両脚をしばられたまま、上があいている牢屋にすわっている。その上の方からわずかな光がさしこんでくる。この光は囚人たちのうしろの高いところにもえている火から来るものである。この火と囚人たちとはひくい壁でへだてられている。この壁のそと側を、人びとが木像や石像などあらゆる種類の立像をささげて話ながらとおっていく。あわれな囚人たちは、この壁よりはせいの低いその通行人を見ることはできぬ。ただ、その壁よりも高いところをはこばれていく木像や石像の影をほんとうの物だと思いこみ、またその通行人の話し声が牢屋の壁にこだまするのにだまされて、この影、つまり「ほんとうの物」が話しあっていると信じている。

 カント哲学のコペルニクス的転回 物のまわりをかぎまわって、物の目じるしをあつめ、物を分類してきたこれまでの哲学は、カントがあらわれたので、研究を中止してしまった。カントは人間の心そのものを調べるように研究をひきもどして、人間の心にあらわれてくるものを吟味した。カントが自分の哲学をコペルニクスのやり方と比べたのは、もっともなことである。地球を静止したものとして、太陽が地球のまわりを回転していると考えていたコペルニクス以前の時代には、天体の運行についての計算はどうもうまく合わなかった。そのときコペルニクスが太陽を静止したものとして、地球が太陽のまわりを回転すると仮定した。すると見よ! すべての計算がきわめてうまく合うではないか? これと同じくカント以前は、「太陽」である理性が、現象界つまり「地球」のまわりを回転してそれを照らしていると考えられていた。ところがカントは「太陽」つまり理性を静止したものとして、「地球」つまり現象界がそのまわりを回転してそれに照らされていると仮定した。すると現象界つまり「地球」は、理性つまり「太陽」の光のおよぶ範囲にはいったときにだけ照らされるのである。

 カントのいわゆる「本体」と「現象」 私はカントの仕事を簡単な言葉で示したが、ここまでくればどなたにもお分りだろう。「純粋理性批判」のうちでも、いわゆる「現象」と「本体」とを論じている部分がカント哲学の最重要の部分、中心点と見なさるべきであるということを。つまりカントは物自体と物の現象とをはっきりと区別した。人間は物自体については、それが現象として人間にあらわれてくる様子しか知ることができぬ。また、あるがままの物自体はそのままあらわれてはこない。そこでカントは、物自体のあらわれてくる姿を「現象」と名づけ、物自体を「本体」と名づけた。人間は、物自体のあらわれてくる姿、つまり「現象」は知ることができる。けれども、物自体つまり「本体」を知ることはできない。物自体とは、うたがわしいものである。それがほんとうに存在するとも、存在しないともわれわれは云えない。そもそも、「本体」という言葉が「現象」という言葉と並置されたのは、人間に認識できない物自体にはふれないで、認識できるものだけを取りあげて、判断するためなのである。

 だからカントは多くの学者がやったように物を区別して、人間にとって存在しているものを「現象」と名づけ、存在していないものを「本体」と名づけたのではない。こうした区別をした学者の名まえはここではいちいちあげないことにする。こうした区別の仕方は、つまらんばかげたものである。カントのいわゆる「現象」と「本体」というのは、これらの学者の云うのとはちがって、人間の認識の限界を示す概念である。

 神はカントのいわゆる「本体」である さてカントによれば神はひとつの本体である。カントの論証によれば、われわれがこれまで「神」とよんでいた、経験を超越したあの概念は、人間の頭脳がこねあげて作ったものだ。神とは、人間の生れつきの幻想からうまれたものだ。たしかにカントは示した。われわれ人間は神という本体については何も知ることはできないし、これから先も神の存在を証明することはできないということを。「純粋理性批判」のうちでこのことを論じた章のはじめに、われわれはあのダンテの言葉を書かなければなるまい。「この門に入る者はのぞみをすてよ!」

 思弁哲学が神の存在を証明する三つの方法 この章をわかり易く証明する労は省きたいと思う。つまり、「思弁的理性が最高の存在者である神の存在を証明しようとして提示する理由」を論じた章である。これらの理由を正面きって反駁している部分はあまり多くの紙面を占めていないで、「純粋理性批判」の後半にはじめて出てくるのであるが、しかしこの部分はこの本の始めからまえもって、きわめて計画的に持ちこまれていて、この本の眼目のひとつとなっている。この章につづくのが「すべての思弁的神学の批判」という章である。この章で超越神論者のつくりあげたその他の空中楼閣も破壊されている。ここでついでに述べておかねばならぬが、カントは神の存在を証明する三つの主要な方法、つまり存在論的証明、宇宙論的証明、および物理神学的証明を攻撃している。そして宇宙論的証明と物理神学的証明とは破壊してしまったが、存在論的証明は破壊できなかったように私は思う。フランス人諸君がこの存在論とか宇宙論とかいう言葉を御存知かどうか私は知らないから、カントがこの三つの証明方法を区別して定義している「純粋理性批判」の中の箇所をここで引用しておこう。

 「思弁的理性によって神の存在を証明するにはただ三つの方法が可能である。第一の方法は、一定の経験およびその経験によって認められる我らの感覚界の特殊な状態から出発して、因果律にしたがって、この世界のそとにある最高の原因、つまり神の存在を推定するというやり方である。第二の方法は不確定な経験、つまり何かの具体的な存在を基礎として神の存在を推定するというやり方である。第三の方法は、すべての経験を引き去ってしまって、経験をまったく超越して、たんなる概念から最高の原因、つまり神を推定するというやり方である。第一の方法は物理神学的、第二の方法は宇宙論的、第三の方法は存在論的証明とよばれる。これ以外の証明法はないし、またあり得ない。

 カントの主著「純粋理性批判」を何度も徹底的に研究したあげくに、私はたしかめたように思った。神の存在についての従来の証明を論駁する態度がこの著作のいたるところにうかがわれることを。私はもし宗教的感情にひきとめられないならば、カントのこの論駁をもっとくわしく話しただろう。しかし私はだれかが神の存在について議論しているのを聞くと、妙な不安、ぶきみな胸くるしさにおそわれる。それはむかしロンドンのニュー・ベードラムの精神病院で、案内人をふと見うしなって、狂人ばかりにとりかかまれたときのあの感じに似ている。「げんに在るものはすべて神である」そして、神をうたがうことは、生命そのものをうたがうことであり、つまり死ぬことである。

 現在の人間がもっている宗教的感情 神の存在を論議するのは大そう責むべきことであるが、神の性質を思索することはそれだけになお一そうほむべきことである。この思索こそほんとうの礼拝である。人間の心はこの思索によって、一時的な有限なものからはなれて、本来の善と永久の調和とを意識するようになる。この意識は、感情的な人間が祈りをささげたり、教会のシンボルを見つめたりするときに身にしみて感じるものである。思想家はあの気だかい精神力を働らかすときに、こうしたとおとい気分になる。その精神力は「理性」とよばれて、神の性質を探求するのを最高の任務としている。ことに宗教的な人間は子供のときからはやくもこの任務をひきうける。そして心のうちに理性が活動しはじめるとすぐ、この任務のために不思議なくるしみ方をする。この本の著者であるわたくしハイネは、こうした子供のときからの根本的な宗教心をきわめてたのしく自覚している。この宗教心と別れたことはけっしてなかった。神はいつも私のすべての思想の始りであり終りであった。大人になった私は今、「神とは何か?」「神の性質はどんなものか?」とたずねているが、子供の時にはたずねたものだ。「神さまって、どんな方だろう?」「どんなようすをしてらっしゃるの?」あのころ私は一日じゅう空をながめてすごしさえした。そして、いともとおとい神さまのお顔はついにおがめないで、はい色にかすんだ雲のしかめつらしか見えなかったので、夕方には大そう悲しんだのである。あのころは啓もう時代であったから、ごくちいさな子供のあたまにも天文学のいろんな知識が遠慮なくつめこまれた。そのために私のあたまはすっかり混乱してしまった。あの何十億もの星がすべてこの地球と同じように大きな、りっぱな球であって、これらのかがやく球の混雑しているむこうに唯ひとりの神さまがみそなわしておられるというのは、この上もないおどろきであった。これは思い出ばなしだが、私はあるとき夢で、天のごくとおいところにおられる神さまを見たことがある。神さまはうれしそうにちいさな天の窓から、こちらをのぞいておられた。ユダヤ人ひげをちょっぴりはやした、信心ぶかい顔をした老人だった。その老人はたくさんの大むぎの種子をその窓からまきちらした。その大むぎの種子は天からおちてくる途中で、はてしもない空間でいわば芽を出して、おそろしくふくれあがって、それぞれわれわれの地球とおなじくらいの大きさの、光かがやく、花ざかりの、人の住む世界になった。私はあの神さまの顔を忘れることはなかった。その後もなんども私は夢であの快活な老人の神さまがれいのちいさな天の窓から世界の種子をまいているのを見た。いやそれどころか、あるときはにわとりにえさの大むぎをまいてやる女中のように舌うちする音さえ聞いたのである。けれども私はおちてくる大むぎの種子が空中でしだいにふくれて大きな、かがやくまるい世界になるのは見たけれども、まきちらされた世界の種子を食べようと、くちばしをあけてどこかでまちうけている大きなにわとりなんか見たことはなかった。

 超越神論の弱点。そこをカントは衝いた 「大きなにわとり」なんて云うと、読者はほほえまれるだろう。けれども、この子供くさい意見は、大人になりきった超越神論者の意見とあまりちがわないのだ。世界のそとにいる神を分りやすく説明しようと、東洋人も西洋人もいろんな子供くさい大げさなたとえを用いた。けれども、無限の時空間と超越神との関係は、空想力にとむ超越神論者もさすがに説明しかねた。この点に、超越神論者の無力、彼らの世界観と神の性質についての意見とがたよりないことがすっかりばくろしている。だから、この超越神論者の意見が整理されても、われわれはほとんど悲しむことはない。ところでカントは神の存在についての超越神論者の説明を破壊してしまって、超越神論者にほんとうにこうした危害を加えたのである。

 神の存在論的証明は汎神論にも用いられている 神の存在論的証明がカントのてってい的な破壊をまぬかれたというのは、超越神論にはかくべつ有難いことではなかった。というのは、この証明法は汎神論にも用いられているからである。このことを一そうくわしく理解してもらいたいのでついでに述べておくが、この存在論的証明は、デカルトが提示しており、またデカルト以前に早くも中世にカンタベリーのアンゼルムがあるおちついた祈祷の文句で述べたものである。いやそれのみならず、はやくもセント・オーガスティンが「自由に判断して」という著書の第二巻でこの神の存在論的証明を提示しているとも云えよう。

 先に述べたように、神の存在の証明にたいするカントの論駁をわかり易く説明する労は私は省きたい。私はただ、超越神はカント以後は思弁的理性の範囲内ではほろびてしまったと断言するにとどめておく。この死のかなしい通知が世間ぜんたいにひろがるまでにはまだおそらく数百年はかかるだろう。――けれどもわれわれドイツ人はこの死をかなしんで、とっくのまえから喪服をきて、「神よ、我は汝をよぶ!」という罪をつぐなう歌をうたっている。

 カントは実践理性によって超越神を復活させた 「さあ、もうこれで芝居はおわった。うちへ帰ろう?」などと読者諸君は思われるかも知れぬ。いや、とんでもないこと! もう一幕のこっています。悲劇のあとには茶番が上演される。イマヌエル・カントはこれまではきびしい哲学者の役を演じてきた。天国をにわかにおそって、そこの守備兵をのこらず斬りころしてしまった。神、つまり世界の最高の主人はついにその存在を証明されないで、血まみれでたおれている。神の大なる慈悲とか、父おやらしい親切とか、この世でひかえ目にくらしたむくいをあの世でうけるとかいうようなことはもうなくなってしまった。不滅のはずのたましいが、いきをひきとりかけて、のどをごろごろならして、うめいている。――さてれいのラムベじいさんが、いつものこうもり傘をこわきにかかえて、悲しげな顔つきでこの場面を見物していた。ひや汗となみだとがラムベの顔からぼたぼたおちた。そこでイマヌエル・カントはラムベじいさんをかわいそうに思った。そして自分がえらい哲学者であるばかりではなく、やさしい人間でもあることを示そうとした。とくと考えたすえなかば親切な、なかば皮肉な口調でカントはこう云った。「あのラムベじいさんは、神さまがなくてはこまる。あのあわれな人間は神さまがいないと、しあわせになれないんだ。――さて人間はこの世でしあわせにくらさねばならぬ。これは実践理性の要求することだ。――えい、かまわん。やっちまえ! ――この実践理性に神の存在を保証させよう。」こうした論法で、カントは理論的理性と実践理性とを区別した。そしてこの実践理性を魔法の杖のように使って超越神論の死体に活をいれた。超越神は一度は理論的理性に殺されていたのである。

 カントが超越神の復活をくわだてたのは、ただラムベじいさんへの同情からだけではなくて、警察をおそれたためかも知れない。それとも、ほんとうに確信をもってくわだてたことかも知れない。あるいはまたカントは神の存在を証明するすべての方法をぶちこわして、われわれに示そうとしたのかも知れぬ。神の存在を知ることが全然できぬとなると、どんな不便なことになるかということを。もしそうだとすれば、カントは、ウェストファリアにいる私の友人とまったくおなじようなかしこいことをやったわけだ。その友人はゲッチンゲン市のグローンデル町の街灯をのこらずぶちこわしてしまってから、そこのくらやみに立って、街灯がじっさい必要であることをながながと演説した。そして、「街灯がないと何も見えないということを実践的に示すために、理論的にこれらの街灯をぶちこわしたのだ」と云ったのである。

 ドイツ哲学の革命と反革命 さきに述べたように、「純粋理性批判」ははじめてあらわれたときには、ほとんど評判にはならなかった。それから数年ののちにようやく二、三のかしこい哲学者がこの本の解説を書いたときに、はじめて世間の注意をひくようになった。そして一七八九年にはドイツではカント哲学ほど問題になったものはなかった。カント哲学の註釈、評語集、説明、批判、弁護などがたくさんできあがった。ドイツの哲学書目録のどれかひとつをちょっと見てくれたまえ。そうすれば、そのころにカントについて書かれたかずかぎりない多くの文献の名前を知って、このただひとりの男からはじまった思想運動がどんなものであったか十分わかるだろう。ある文献にはカント哲学へのはげしい心酔が見られる。他の文献にはカント哲学へのきびしい怒りが見られる。そして多くの文献には、この思想革命の結果はどうなるだろうかと目を見はってうかがう態度がみとめられる。フランスでの物質的な暴動がおこったと同じように、わがドイツでは精神的な暴動がおこった。君たちフランス人がいきり立ってバスチーユをおそったように、われわれドイツ人はいきり立ってむかしからの独断論をぶちこわした。もちろん、バスチーユ襲撃のばあいとまったく同じように、独断論、つまりヴォルフ哲学を守ろうとする数名の老廃兵もいた。それは革命であるから、むごたらしい行動もないわけではなかった。そしてそのむごたらしい行動を見ても、すこしも怒らなかったのは保守党のうちでもことに、ほんもののすなおなキリスト教徒であった。いやそれどころか、これらのキリスト教徒はいっそうひどいむごたらしい行動をのぞんだ。革命がいきすぎると、当然の反動として反革命がいっそう早くおこるだろうと思ったからである。フランスでは政治上の悲観論者がドイツでは哲学上の悲観論者がいた。わがドイツの悲観論者の数名のものはみずからの目をくらましてこう思いこんでしまった。「カントはおれたちとこっそり妥協している。カントが神の存在を証明する従来の方法をぶちこわしてしまったのは、理性では神はけっして認識できないから、この世では神から示された宗教を信じなければならぬことを世人にさとらせるためだ。」

 カントの批判的精神がドイツにあたえた影響 カントはこの大きな思想運動をその著作の内容よりはむしろその著作を支配している批判的精神によってひきおこした。この批判的精神は今ではすべての科学にしみこんでいる。すべての科学がこの批判的精神のとりこになった。いやそれどころか、文学さえもこの批判的精神の影響をまぬかれなかった。たとえばシラーはもうれつなカント主義者であった。シラーの芸術観にはカント哲学の精神がしみこんでいる。カント哲学は抽象的な無味乾燥なものだから、文学や芸術には大そう有害だった。カント哲学が料理法にまでいりこまなかったのは、せめてものしあわせである。

 ドイツ人は容易なことではうごかない国民である。けれどもドイツ国民は一たん何かの道をとってすすむとなると、きわめてしつこく辛抱づよくその道をとことんまですすんでいく。宗教改革ではそうだった。哲学革命でもそうだった。政治運動でもドイツ国民はやはりとことんまですすんでいくことだろう。

 ドイツ哲学革命はじまる ドイツはカントによって哲学革命の道をすすむことになった。哲学はドイツ人ぜんたいの問題となった。偉大な思想家のりっぱな一群が、魔法でうまれたようにとつぜんドイツの土地からあらわれ出た。もしいつかにこのドイツの哲学革命がフランス大革命と同じようにティエールやミニューのような歴史家に述べられるならば、そのドイツ哲学革命史はフランス大革命史と同じようにめずらしい読み物になるだろう。そしてドイツ人はほこりをもって、フランス人はおどろいてそのドイツ哲学革命史を読むだろう。

 カントの弟子たちのうちで早くも頭角をあらわしたのはヨハン・ゴットリープ・フィヒテである。

 フィヒテ哲学では思想と情操とがひとしくあらわれている このフィヒテという男の意味を正しく理解してもらえるように説明できるかどうか私には自信がない。カントのばあいには「純粋理性批判」という一冊の本をよく研究しさえすればよかった。ところがこのフィヒテのばあいには著書だけではなくて、人間そのものが問題となる。フィヒテという人間では思想と情操とが一致している。その思想と情操とがりっぱに一致して、同期にはたらきかけている。だからこのばあいには私は哲学を解説するだけではなくて、いわばその哲学を制約しているフィヒテの性格も説明しなければならぬ。そしてこの哲学と性格とのあたえた影響を理解してもらうためには、当時の社会情勢も述べなければならないだろう。これはとても広範囲にわたる仕事だ。ここではもちろん不十分な報告をするだけで、ゆるしてもらおう。

 フィヒテ哲学の主観的方法 フィヒテの思想を報告するだけでもむずかしい仕事である。このばあいにもいろんな特殊な困難にぶつかる。そうした困難は思想内容だけではなくて、フィヒテ哲学の方法と形式についても起るのである。まずこのふたつ、つまり方法と形式とを外国人の諸君に知らしておきたい。では、まずフィヒテ哲学の方法について述べよう。フィヒテの方法ははじめはまったくカントからの借り物だった。けれども、この方法はまもなく、研究の対象の性質がかわるにつれてかわってきた。つまりカントは批判という消極的なことばかりやっていた。ところがフィヒテはのちに体系という積極的なものを提示することになった。カントの著述はしっかりとした体系がないので、「哲学」とよばれるべきではないと時どき云われている。イマヌエル・カント自身の著述についてはこう云われるかも知れんが、カントの原理によってたくさんのしっかりとした体系を組みたてたカント学派についてはけっしてこうは云えない。さきに述べたように、フィヒテはその初期の著作ではカントの方法をごくまじめに守っていた。匿名であらわれたフィヒテの最初の論文はカントの著作と思われたほどである。ところがフィヒテはのちに体系を立てるときには、熱心にわがままに構想しはじめた。そして、世界そのものを頭のなかでうまく構想してしまうと、こんどはまた熱心にわがままに、自分のやったその構想を上から下まで論証しはじめた。フィヒテはこの構想と論証とでいわゆる抽象的情熱をあらわしたのである。そしてまもなくフィヒテの哲学体系そのものにも、またフィヒテの講義にも主観的な態度がつよまってきた。ところがカントはこれに反して、研究の対象である思想を自分の目のまえにおいて、解剖し、ごくこまかい筋にいたるまで分解した。カントの「純粋理性批判」はいわば心を解剖して見せる解剖学実習室である。そしてカントはこの実習室でほんとうの外科医のようにあくまでも冷静で感情はぬきにしている。

 フィヒテ哲学の主観的形式 フィヒテの方法だけではなくて、フィヒテの著作の形式も主観的である。その形式は生き生きとしているが、生命のもつあらゆる欠点をそなえている。つまりそれはおちつきがなく混乱している。ほんとうに生き生きとしていようとしてフィヒテは、哲学者のふつうの術語をはねつけてしまった。そうした術語はフィヒテには死んだものと思われたのである。けれどもそのためにわれわれはフィヒテの意見が一そう分らなくなってしまった。そもそもフィヒテはこの「分る、分らん」ということを妙に気にかけている。ラインホルトがフィヒテとおなじ意見をもっていたときに、フィヒテはこう云いきった。「ラインホルトほどわしの意見が分ってくれる者はほかにはない。」ところがそののちラインホルトがフィヒテとちがった意見をもつようになると、こんどはこう云ったものだ。「ラインホルトはわしの意見がさっぱり分らなかったのだ。」またカントと意見がちがってきたときに、フィヒテはある出版物にこう印刷させた。「カントにはカント自身の云うことが分らないのだ。」ここでわがドイツの哲学者のこっけいな一面をついでに述べておこう。ドイツの哲学者は「分ってもらえない」といっていつもなげいている。ヘーゲルは臨終のベッドで云った。「わしの意見が分ってくれたのはただ一人いただけだ。」けれども、すぐそのあとで腹だたしげにこうつけくわえた。「いや、あの男もほんとうに分ってはくれなかった。」

 フィヒテ哲学の歴史的位置 フィヒテ哲学は内容そのものから云えば、大した意味をもっていない。それは社会になんの結果ももたらさなかった。ただフィヒテ哲学がドイツ哲学史上もっとも注目すべき段階のひとつであるという点で、またこの哲学が観念論がけっきょくは無効なことを示したという点で、そしてまたこの哲学が今日のドイツの自然哲学への必要な過渡期の産物であるという点で、フィヒテ哲学の内容には多少の興味があるだけである。つまりこの内容は社会的というよりはむしろ、歴史的、科学的に重要なのであるから、ごくかんたんな言葉でこの内容を示すだけにしておきたい。

 フィヒテ哲学の根本問題 フィヒテが解決しようとした問題は、次のことである。「人間が物についてもっている観念と、人間のそとにある物とが一致すると仮定するのは、いかなる理由によるか?」そしてフィヒテはこの疑問に次のような解答をあたえた。「すべての物はわれわれの心のうちにおいてのみ実在している。」

 「知識学」の根本問題 「純粋理性批判」がカントの主著であるように、「知識学」がフィヒテの主著である。この「知識学」はいわば「純粋理性批判」の続篇である。「知識学」も「純粋理性批判」とまったくおなじように、心を心そのもののうちにとどめおこうとしている。けれどもカントはもっぱら分析したが、フィヒテは組み立てようとした。「知識学」は「自我はつまり自我である」という抽象的な公式ではじまっている。そして心のおくそこから世界をつくり出し、カントに一たん分解された部分をふたたび組みあわせ、カントの進んだ抽象への道をあともどりして、現象界に到達している。そして心が、この現象界を知性の必然的なはたらきとして説明できるということになっている。

 この根本問題からおこるひとつの困難 フィヒテのばあいには、心が活動しながら、その活動中に自己観察をしなければならないというとくべつな困難がある。つまり自我は知的なはたらきを展開しながら、そのはたらきを考察しなければならぬ。思考は、思考しながら、あたたまり、しだいにあつくなり、煮えきってしまうまでの自分自身のはたらきをうかがっていなければならぬというのだ。この自我の操作は、いろりのそばにすわって、あかがねの釜で自分の尻尾を煮ている猿を連想させる。というのはフィヒテの意見によれば、ほんとうの料理法は、なにか外にあるものを煮るだけではなくて自分自身が煮ていることを自覚する点にあるのだから。

 フィヒテの自我哲学についての誤解 フィヒテ哲学がいつもいろんなあてこすりを忍ばねばならなかったというのは奇妙なことである。私はあるとき、フィヒテを鵞鳥としてあらわした漫画を見たことがある。その鵞鳥の肝ぞうがとても大きいので、自分は鵞鳥かそれとも肝ぞうかその鳥自身には分らなくなっていた。そして、その鵞鳥の腹には「自我はつまり自我である。」と書いてあった。またジャン・パウルは「フィヒテの鍵」という本でフィヒテ哲学をきわめてはげしく嘲笑した。観念論が徹底すれば物質の責任をすっかり否定してしまうというのは多くの人には、羽目をはずした冗談と思われたのである。けれども、われわれは、たんなる思考によって現象界ぜんたいをつくり出すフィヒテのいわゆる自我をいじわるくあざけってはならぬ。フィヒテをあざけった人たちはひとつの誤解を利用していた。その誤解はあまりにひろく流布しているので、ここでちょっと述べておこう。つまり大多数の者はこう誤解した。フィヒテのいわゆる自我とはヨハン・ゴットリープ・フィヒテ自身の自我である。そしてこの個人的な自我がすべての他の存在を否定しているのだと。そこでまじめな人たちはこう叫んだ。「何という横着者だ! このフィヒテという男はおれたちの存在を否定している。ところがおれたちはフィヒテよりはふとっているし、フィヒテよりは上役の市長や裁判所書記なんだぞ!」また奥さんたちはたずねた。「フィヒテさんはせめて御自身の奥さんだけは存在していると信じていらっしゃるでしょう? 信じていらっしゃらないって? まあ! フィヒテさんの奥さんはそれをゆるしていらっしゃるの?」

 フィヒテの自我哲学とナポレオン帝国 私がいつかフランス大革命をドイツの哲学革命とくらべたときに、フィヒテをナポレオンとくらべたのは、まじめというよりはむしろ冗談からであった。けれども、このふたりにはじっさい、いちじるしく似ている点がたくさんある。カント学派がその暴力的な破壊をなしとげてから、フィヒテがあらわれたのは、フランスの革命的人民公会がこれまた純粋に理性的な批判によって過去のものを一切うちたおしてしまってからナポレオンがあらわれたのと同じである。ナポレオンもフィヒテもすこしも容赦しない壮大な自我のあらわれである。そうした自我では思想と行動が一致している。そして、ナポレオンとフィヒテがそれぞれ組立てた巨大な建物は、ひとしく巨大な意志を証明している。しかし、この巨大な意志に限界がなかったために、あの巨大な建物はすぐさまくずれさってしまった。フィヒテの「知識学」もナポレオンの帝国も、できあがるのも早く、くずれて消えうせるのもまた早かった。

 ナポレオン帝国は今では歴史の一部分となっている。けれどもナポレオン皇帝が世界中にひきおこした運動は今でもまだおさまってはいない。現代はまだこの運動で活気づいている。フィヒテ哲学もこれと同じだ。フィヒテ哲学はすっかりほろびてしまった。けれども思想家たちは、フィヒテの述べた思想でいきり立っている。フィヒテの言葉が後世にあたえた影響ははかり知れない。経験を超越した観念論そのものはまちがいだとしても、フィヒテの著作のうちには、ほこらしい自主独往の精神、自由への愛、男子の品位がそなわっている。これらのものはことに青年に有益な影響をおよぼした。フィヒテのいわゆる「自我」はフィヒテ自身の不撓不屈の、頑固な、鉄のような性格とまったく一致していた。こうした万能の「自我」を説く学説はおそらくこうした性格の人からのみ生れるのだろう。逆にまたこの性格はこうした学説に根をはって、いっそう不撓不屈に、いっそう頑固に、そしていっそう鉄のようになるはずである。

 フィヒテの青年時代の苦闘 このフィヒテという男は、いろんな種類の節操のない懐疑派や、軽薄な折衷主義者や温和派にはおそろしい人物と思われたにちがいない。フィヒテの生涯はふだんの闘争だった。フィヒテの青年時代は苦悩の連続であった。これはわがドイツのほとんどすべての偉人について云われうることである。ドイツの偉人たちは赤ん坊のときから貧困という乳母にそだてられた。そして、このやせこけた乳母はそれらの偉人に一生涯つれそってあるいたのである。

 意志堅固なフィヒテが家庭教師という職でどうにか生きていこうとつとめたありさまほどいたましいものはない。フィヒテはこうしたみじめな職さえも故郷では見つからなかったので、ワルソーへ出かけていかなければならなかった。そして、そのワルソーで伝説ができあがった。つまり、この家庭教師はおやさしい奥方の、いやむしろおやさしくない御女中の気にいらなかった。この家庭教師の宮廷式のお辞儀の仕方は申し分なく上品ではなく、申し分なくフランス風ではなかった。ついにこの家庭教師はわかいポーランドの貴公子の教育をひきうけるだけの資格はないと見なされた。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは下男のようにおはらいばこになって、不満に思っておられるお邸からはわずかの路銀ももらわないで、ワルソーを去り、カントを知ろうと青春の情熱にもえながらケーニヒスベルクへおもむいたのである。

 カントとフィヒテとの面会 このふたりの人物、つまりカントとフィヒテとの出あった事情はどの点から見てもおもしろい。このふたりのそのときの態度や事情を具体的に示すには、フィヒテの日記の一部をここで紹介するのがいちばんいいだろう。それはフィヒテの息子が近ごろ発表した「フィヒテ伝」のなかにふくまれている。

 その頃のフィヒテの日記 「六月二十五日に、ケーニヒスベルクから来た馭者と共にワルソーを出発。七月一日、道中無事にケーニヒスベルクに着いた。七月四日にカントを訪問。カントは自分をとくべつにもてなしてはくれなかった。カントの講義を臨時に聴講させてもらうことにした。その講義でも自分の期待は満たされなかった。カントの講義はねむたい。その講義中にこの日記をしるしている。――」

 「――ずっと前から、カントを正面きって訪問したいと思っているが、手づるがない。ついに『すべての啓示への批判』という論文を書いて、その論文を紹介状のかわりにカントに渡そうと思いついた。七月十三日ごろからこの論文を仕上げてカントに送った。八月二十五日にカントの批評を聞くためにカントを訪問。カントは大そうやさしい態度で自分を迎えてくれた。自分の論文『すべての啓示への批判』には大いに満足しているらしい。しかし、ふかく立ちいった学問的な話はしなかった。自分が哲学上の疑問を述べると、カントは『純粋理性批判』をよくよんで見てくれ、また宮廷牧師シュルツに会って見よとすすめた。シュルツをすぐに訪ねて見るつもりである。八月二十六日にカント宅でゾムメル教授とともに会食。そのときカントが大そう愉快な才気にあふれた人物であることが分った。ようやく今、自分は彼の著作のうちにある偉大な精神にふさわしい特徴をカント自身にみとめることができた。」

 「八月二七日。フォン・S氏の貸してくれたカントの『人間学講義』からのぬき書をしたのちに、この日記をしるす。今後もまい晩、就寝前にきまってこのぬき書きをつづけて、目にとまった面白い箇所はのこらず、ことにその特徴的な点や評註などを書きとめておくことに決心した。」

 「八月二十八日夜。昨日、自分の『すべての啓示への批判』を修正しはじめて、ほんとうにりっぱな深刻な思想に到達した。そして自分のさいしょの原稿はどこまでもあさはかなものであるのを残念ながらみとめなければならなくなった。きょうはこのあたらしい研究をつづける予定だったが、思案にふけって、一日じゅう何もできなかった。けれども、これは残念ながら自分のげんざいの生活状態では、不思議ではない。持っているぜにをかぞえて見たら、きょうからもう二週間しかここで食っていくことができないというありさまだ。――もちろん、これまでにもこうしたこまった目には何度も会った。けれども、それは故郷にいたときのことだ。だんだん年をとるにつれ、体面を重んずる心が切になるにつれ、いよいよつらくなってきた。――決心がつかぬ。いや、つけようがないのだ。――カントがたずねて見よとすすめてくれたボロウスキイ牧師に会っても、いまのこの窮状をうちあけまい。自分がもしそれをうちあけるとしたら、それはただカントにだけである。」

 「八月二十九日。ボロウスキイを訪問。ボロウスキイはほんとうにやさしい正直な男である。彼はひとつ就職口をおしえてくれた。けれども、それはまだ十分にたしかではなく、またあまり望ましいものでもなかった。ボロウスキイがあまりにあけすけな態度なので、自分はついさそわれて白状してしまった。大そうこまって就職口をさがしているのだと。するとボロウスキイはW教授をたずねて見よとすすめてくれた。この日は勉強はできなかった。――そのあくる日にほんとうにW教授を、ついで宮廷牧師シュルツをたずねた。W教授のところにもかんばしい就職口はなかった。けれども、とにかくクールラントには家庭教師の職があると教えてくれた。いよいよこまったばあいには、このクールラントの職にでも就かねばなるまい。つづいて宮廷牧師をたずねた。いって見るとはじめは細君だけが出てきたが、あとからシュルツ氏自身も出てきた。けれどもシュルツは数学の円の問題を考えこんでいた。しかし自分の名前をくわしく聞いて、カントの紹介状を見ると大そう親切にもてなしてくれた。プロシャ型の角ばった顔をしていて、その顔つきからは正直さと親切味そのものがあらわれている。そののちにブロインリヒ氏と同氏があずかって教育しているデーンホーフ伯爵、宮廷牧師の甥ビュットネル氏、ニュルンベルクから来たわかい学者エールハルト氏などともそこで知りあいになった。このエールハルトというのはすぐれた頭脳の持ち主であるが、礼儀作法をわきまえぬ世間知らずである。」

 「九月一日。カントにうちあける決心がついた。あまりなりたくはない家庭教師の職さえも見つからぬ。そしてこの町での自分の生活が安定していないので、のびのびと勉強できぬし、あたらしい友人たちと今後の交際をつづけることもできぬ。よし、いっそ故郷へかえろう。故郷へかえるためのわずかばかりの旅費はカントに世話してもらえば借りられるだろう。」

 フィヒテはカントに手紙で借金を申しこんだ 「けれどもいよいよカントのところへいってこの願いをいざもち出すとなると、勇気がくじけてしまった。そこでカントに手紙を出そうと決心した。今晩は宮廷牧師のところへ招かれて、大そうたのしい夜をすごした。九月二日にカントはあての手紙を書きおわって発送した。」

 フィヒテがカントに出したこの手紙は大そうめずらしいものではあるが、私はこれをフランス語にほん訳してここで紹介しようかどうか、決心がつかないでいる。この手紙をフランス人の諸君に紹介すれば、私は赤面することだろう。自分の家庭のきわめてはずかしい窮状を他人にうちあけるような気がするのだ。私はフランス式の世界人的な考えかたを会得しようとつとめている。また私は哲学では世界人としての立場をとっている。けれどもやはり、俗物根性をのこらずそなえた古風なドイツが私にはいとしい。――つまり、あのフィヒテの手紙は諸君にはやはり紹介するわけにはいかぬ。ここではただ次のことだけをつたえておこう。イマヌエル・カントは大そう貧乏だったので、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテのその手紙の文句は胸をかきむしるほどいたましいものだったけれども、金を貸してはやれなかったというのだ。けれどもフィヒテはことわられてもすこしも怒らなかった。それは次に引用するフィヒテの日記のなかの言葉で推察されよう。

 「九月三日。カントに招かれた。カントはいつものあけすけな態度で、自分を迎えて、こう云った。『きみの依頼についてはどうしたらいいか決心をつけかねている。さしあたり二週間以内には何とかしてあげることはできない。』なんというかわいらしいあけすけな態度だろう! そのうえカントは私の計画にいろんな異議をとなえた。それから察するに、カントは私の故郷のザクセン国内の事情をよく知らないらしい。――このごろまい日、何もしないでいる。けれども自分は勉強をはじめたい。そして勉強以外のことはすっかり神にまかしてしまいたい。――九月六日。またカントに招かれた。カントはそこで自分にすすめた。『すべての啓示への批判』の原稿を牧師のボロウスキイにたのんで出版屋のハルツンクに売ったらどうかと。自分が『それではあの論文にもう一度、手を加えて見ましょう』と云うと、カントはこたえた。『いや、あの論文はよくできている』――ほんとうだろうか? とにかくカントがあの論文をほめてくれた。――そうしてカントは、私の借金の申しこみはきっぱりとことわった。――九月十日。カント邸で昼飯をよばれた。私の金策については一語もでなかった。ゲンジーヘン学士もきていた。ごく普通の、しかし部分的には大そうおもしろい会話がその席でかわされた。カントの自分にたいする態度は、むかしとすこしもかわっていない。――九月十三日。きょうは勉強しようと思ったが、何もできなかった。れいの不快な気分におそわれた。これではけっきょく、どうなるだろう? 一週間の後にはどうなることか? たくわえのぜにはつかいはたしてしまうのだ!」

 フィヒテ、イエナ大学の教授となる あちこちとうろつきまわり、スイスにながらく滞在したあげくに、フィヒテはついにイエナ大学にたしかな地位を得た。そしてこのときからフィヒテの黄金時代がはじまった。二、三時間の道のりしか離れていないザクセン国内のふたつの都市、イエナとワイマールとはそのころのドイツの精神生活の中心であった。ワイマールには宮廷があって、文学がさかえていた。イエナには大学があって哲学がさかえていた。ワイマールにはドイツでもっともすぐれた詩人たちがいた。そしてイエナにはドイツでもっともすぐれた学者たちがいた。一七九四年にフィヒテはイエナ大学で講義をはじめた。この一七九四年という年号は意味ふかいものである。この年号は、そのころのフィヒテの著作にあらわれている精神と、フィヒテがその後にうけた迫害とを説明する一助ともなるだろう。フィヒテはそれから四年後についにその迫害にまけてしまった。つまり一七九八年にフィヒテは無神論者として告発されて、たえられぬほど追求されて、ついにイエナ大学からしりぞいたのである。このフィヒテの生涯でもっとも注目すべき事件は同時にまた一般的な意味も持っているので、これを黙殺するわけにはいかぬ。この事件で神の性質についてのフィヒテの意見がきわめて正直にあらわれている。

 「無神論論争」の登場 そのころフィヒテが発行していた「哲学年報」という雑誌にフィヒテは「宗教という概念の発展について」という論文をのせた。その論文は、フォルベルクとかいう名まえのザールフェルトの学校の先生からの寄稿であった。この論文にフィヒテはさらに「神の世界支配をわれわれが信ずる根拠」という題の解説をつけ加えた。

 「無神論論争」についてのワイマール宮廷の態度 ドレスデン市にあったザクセン選挙侯国の政府は、このふたつの論文は無神論をふくんでいるという口実で没収した。それと同時にドレスデンの政府はワイマール宮廷へ通告して、フィヒテ教授を厳重に処罰せよと要求した。ワイマール宮廷はもちろん、こうした不当な要求にまよわされはしなかった。ところがフィヒテはこの事件にさいして、きわめて大きな失敗をした。つまりフィヒテは自分の監督官庁の意向などは気にかけないで、文書で直接に公衆にうったえたのである。フィヒテの監督官庁であるワイマール宮廷はフィヒテのこのやり方で気をわるくしたし、また外部からせまられたので余儀なく、不用意な言葉を用いたフィヒテ教授をやさしく叱ってはげまそうとした。ところが、自分は正しいと信じきっているフィヒテは、こうしたやさしい叱責も甘んじて受けようとせず、イエナを去ってしまった。そのころにフィヒテの書いた手紙から推量すると、フィヒテは、職務上この事件に特に重大な発言権をもっていたふたりの人物のやりかたをことに心中ふかくうらんでいたようだ。そのふたりとは宗務委員フォン・ヘルダー閣下と枢密顧問官フォン・ゲーテ閣下である。けれども、このふたりのやったことはたしかに許さるべきである。ヘルダーの書翰集をよむとよく分ることだが、イエナ大学で勉強してからドイツ新教の牧師になる資格試験をうけようとしてワイマールへ来た神学科の卒業生らをあわれなヘルダーがもてあました様子はいとしいほどである。ヘルダーはその資格試験で、これらの受験者に、神の子であるキリストについてはあえてたずねようとしなかった。受験者らが父なる神の存在をみとめさえしたら、それでヘルダーはまんぞくしていた。ゲーテについて云えば、ゲーテはこのフィヒテの事件について、日記に自分の意見を次のようにしるしている。

 「無神論論争」についてのゲーテの意見 「ラインホルトがイエナ大学を去った。これが大学にとって大きな損失と思われたのはもっともなことである。さてこのラインホルトの後任にフィヒテをよんだのは、大胆な、思いきったやり口だった。フィヒテはその著書で道徳や国家などのもっとも重大な問題について堂々と、しかしかならずしも穏当でない意見を述べていたのであった。フィヒテは、これまでにいたきわめて有能な人物のひとりであった。フィヒテの意向には高い立場から見れば、非難すべきところはなかった。けれどもフィヒテは、自分がつくりだし、自分のものと思っている世界とどうして歩調をあわせたらよかろうか?」

 「フィヒテは平日に公開講義にあてようと思っていた時間をけずられてしまったので、日曜日に講義をすることにした。さてその講義がはじまるといろんな故障がおこった。その講義から起った大小さまざまの面倒な事件は監督官庁がかなりの不快をしのんで、どうにかごまかしたり、おさえたりしてきたが、ついに神と神の性質とについてのフィヒテの言葉によって、われわれ監督官庁の者は外部からいろんな厄介な抗議を聞くようになった。そもそも神や神の性質についてはじっと観察するだけで、何も云わない方がいいのだ。」

 「フィヒテは自分の編集している『哲学年報』で神と神の性質とについて、この種の不思議なものについてこれまでのべられてきたふつうの言葉とは矛盾するような言葉で思いきって自分の意見を発表した。これについてフィヒテは答弁を要求された。そしてフィヒテは弁解したが事情は好転しなかった。というのはフィヒテは次のような内情はすこしも知らずに、いきりたって弁明するばかりであったからである。つまり、われわれ監督官庁側の者はフィヒテに大そう好意をもっていること。フィヒテの思想や言葉をいい意味に解釈していること。またきわめておだやかな仕方でフィヒテを助けだそうと考えていることである。フィヒテに好意をもっており、フィヒテの思想や言葉をいい意味にたくみに解釈していることは、われわれの公文書で用いる無味乾燥なお役所言葉ではフィヒテにさとらすことはもちろんできなかった。大学でのいろんなあいまいな演説で、しゃべったり、さんざんにもみあったあげく、監督官庁がフィヒテを叱りおくべきだ、フィヒテは公式の叱責をうけるべきだという意見が述べられた。この意見を聞くとフィヒテはすっかりあわててしまって、自分の当然の権利としてはげしい手紙を監督官庁へ提出した。そしてその手紙で叱責の処分ぐらいはかくごのうえで、いきりたって反抗的にこう云ってきた。『自分は叱責の処分を甘んじて受けるものではない。叱責されるくらいなら、いっそいきなり大学から辞職してしまう。けれども、自分ひとりが辞職するわけにはいかぬ。もしそうなれば数名のおもだった教授も自分と一しょに辞職するつもりでいるから。」』

 「この手紙のために、フィヒテにたいしてわれわれがいだいていた一切の好意はにわかにさまたげられた。いや、むだになってしまった。今となっては調停の道はない。フィヒテにたいするもっともおだやかな処置は、すぐさまフィヒテに免職をいいわたすことである。こうしてもうどうにもならぬ羽目にきてから、フィヒテははじめて知った。われわれがこの問題を何とかうまく解決したいと思っていたことを。だからフィヒテは自分のはやまった行動を後悔したにちがいない。われわれとしてはフィヒテを気の毒に思わずにはいられなかった。」

 ゲーテは偉大なスピノザ主義者であった これこそ、ごまかしたり、とりしずめたりする宰相ゲーテのやり口そのものである。根本的に見てゲーテがとがめているのは、フィヒテが自分の思想を正直に述べたということ、又その思想をありきたりの、仮装した言葉で述べなかったということである。ゲーテはフィヒテの思想ではなくて、その思想の表現を非難している。超越神論がカント以後のドイツの思想界でほろびてしまったというのは、私がさきに一度、述べたようにだれでも知っている公然の秘密であった。けれども、そのころではまだこの秘密を街頭で大声であばきたててはまずかったのだ。ゲーテもフィヒテと同じように、超越神論者ではなかった。ゲーテは汎神論者であったからである。けれどもゲーテはこの汎神論という高い立場にいたからこそ、そのするどい目でフィヒテ哲学の弱点をきわめてたしかに見やぶることができた。見やぶったときゲーテのやさしい口もとには微笑がうかんだはずである。つまりはみなが超越神論者であるユダヤ人には、フィヒテは恐ろしい人物と思われずにはすまなかった。けれども、偉大な異教徒にはフィヒテはただの馬鹿者と思われただけだ。「偉大な異教徒」とはドイツ人がゲーテにたてまつったあだ名である。けれども、このあだ名はぴったりとあたっていない。ゲーテの異教的精神はふしぎなほど近代的である。ゲーテの力づよい異教的性質は、すべての外部の現象、すべての色や形をはっきりと、するどくつかむという点にあらわれている。けれどもゲーテは同時にまたキリスト教から、いっそう深い理解力をあたえられた。ゲーテはキリスト教をはげしくにくんでさからったが、そのキリスト教から精神界の秘密をうちあけられた。ゲーテはイエス・キリストの血をのんで、自然のきわめて裏そこにひそむ声が聞こえるようになった。それはうち殺した龍の血の一滴がくちびるをぬらしたときに、にわかに鳥の言葉がわかるようになったニーベルンゲンの英雄ジークフリートに似ている。めずらしいことには、ゲーテの異教的性質にはきわめて近代的な感傷がしみこんでおり、古代の代理石像に近代の血が脈うってながれており、ゲーテはわかいヴェルテルのなやみにも古代のギリシャの神のよろこびにもおなじようにはげしく同情しているのである。だからゲーテの汎神論はふつうの異教徒の汎神論とは大そうちがっている。私の考えをかんたんに云えばゲーテは文学上のスピノザである。ゲーテのすべての詩には、スピノザの著書をよむとき吹きつけてくるのとおなじ精神が浸みこんでいる。ゲーテがスピノザの学説をすっかり信奉していたというのは、うたがいもないことである。とにかくゲーテは一生をつうじてスピノザ哲学を研究してきた。ゲーテはその思い出の記のはじめにも、また最近に刊行された「思い出の記」のさいごの巻でも、そのことを正直に告白している。どこでよんだか私は今では忘れてしまったが、ヘルダーはゲーテがいつもスピノザを研究しているので、あるとき不機嫌にこう叫んだことがある。「ゲーテはスピノザよりほかのラテン語の書物を手にしてもよさそうなもんだ!」けれども、これはゲーテだけではない。のちには詩人として多少とも有名になったゲーテの多くの友人もみなわかくから汎神論を信奉していた。汎神論は哲学の理論としてドイツを支配するまえに、早くも実践的にドイツ芸術でさかえたのである。ちょうどフィヒテの時代に、観念論は哲学界では最盛期をほこっていたが、その観念論が芸術界ではむりやりにぶちこわされてしまった。これがあの有名なドイツの芸術革命である。この芸術革命は今日もなお終ってはいない。この革命は今日、古典芸術の支配にたいするドイツ・ローマン派の闘争、つまりシュレーゲルの暴動となってまたあらたにはじまっている。

 ドイツの前期ローマン派の中世へのあこがれは古代ゲルマンの文化をめざしている たしかに、わがドイツの前期ローマン派の文士は汎神論的な本能で行動していた。けれどもその本能を彼ら自身は理解していなかった。彼らがカトリック教の本山へのあこがれだと思っていた感情は、彼ら自身の予想していたよりもっと深い根をもっている。中世の伝統や、中世の民間信仰、悪魔、魔法、魔女などを彼らがうやまい、ことに愛したというのは、古代ゲルマン民族の汎神論へ戻りたいという思いが、とつぜん、理解されないままに目ざめてきたからなのである。きたならしくよごれ、いじわるく不具にされた中世のこれらの姿を前期ローマン派の文士は元来、自分らの先祖のキリスト教以前の宗教の表現としてのみ愛したのである。ここで本書の第一巻を思い出してもらいたい。そこで私は示しておいた。キリスト教が古代ゲルマン民族の宗教的要素を自分のうちにとりいれたこと。この古代ゲルマン民族の宗教的要素はきわめてはずかしい変化をしたのちに中世の民間信仰としてのこっていたということ。そして古代のゲルマン民族の自然崇拝はよこしまな魔法と見なされ、古代のゲルマン民族の神々はいやらしい悪魔と見なされ、古代のゲルマン民族のきよらかな女性の司祭はいやしい魔女と見なされるようになったということである。こう考えると、わがドイツの前期ローマン派に見られるいろんな混乱は、ふつうになされているよりももっと寛大に批判されてもいいことになるだろう。前期ローマン派の文士は中世のカトリック教を再興しようとした。というのは彼らの最古の祖先がうやまっていたものや、彼らの最古の民族のあがめていたものが中世のカトリック教のうちになお多く残っていると感じたからである。不具にされ、はずかしめられた聖者の遺物に彼らは心をひかれた。彼らはドイツ新教と自由主義をにくんだ。それらのものはカトリック教のすべての伝統とともに古代のゲルマン民族のあがめていたものもほろぼそうとするからである。

 文学上のスピノザとしてのゲーテ けれども、この問題についてはのちに述べることにしよう。ここではただ次のことだけを云っておきたい。つまり汎神論はフィヒテの時代にはやくもドイツ芸術にしみこんでいたということ。カトリック教を信ずるローマン主義者も知らずしらずにこの汎神論の方向をとってすすんでいたということ。およびゲーテがきわめてはっきりとこの方向を云いあらわしたということである。これはすでに「ヴェルテル」で見られる。「ヴェルテル」でゲーテは愛のよろこびにみちて自然と一致しようとあこがれている。またゲーテは「ファウスト」で高慢な神秘的な方法で自然といきなり関係をむすぼうとしている。ファウストは呪文の魔力で不可思議な大地の力をよびだすのだ。けれどもこのゲーテの汎神論がもっともきよらかに、もっともかわいらしくあらわれているのは、その小歌においてである。スピノザの学説は数学的形式というまゆからぬけ出て、ゲーテの小歌となってとびまわりはじめた。それゆえにドイツ新教の正統派や敬虔派はゲーテの小歌を見て怒りたけった。彼らはその信心ぶかい熊の手のひらでこの蝶々をとらえようとするけれども、蝶々はいつもひらひら逃げ去っていく。ほんとうにこの蝶々はやさしくて精気のようで、大そうよい香りを放つ翅(はね)をつけている。君たちフランス人はドイツ語を知らないと、この蝶蝶がどんなものか分らないだろう。ゲーテの小歌には、何ともたとえようのないいたずら好きな魔力がそなわっている。調和のとれた詩句がやさしい恋人のように君の心をだきしめてくれる。その小歌の思想が君に口づけすると、その小歌の文句が君をだきしめてくれるのだ。

 ゲーテがフィヒテを弁護しなかった理由 だからゲーテのフィヒテにたいする態度にはみにくい動機はけっして見いだされない。ところがゲーテと同時代の多くの人はゲーテにみにくい動機があると云って、それをいっそうみにくい言葉で示そうとした。この人びとはゲーテとフィヒテとの性質の相違が分らなかった。もっとも温和な人々さえも、その後にフィヒテがひどく圧迫され追求されたときにゲーテが受身のたいどを守りつづけたことを誤解していた。こうした人たちはゲーテの社会的地位を考えにいれていない。このゲーテという巨人は、ドイツのある小人の国の宰相であった。だからゲーテは自然のままにうごくことはできなかった。オリムピアの神殿にあるフィディアスのつくったすわった形のジュピターの像は、もしとつぜん立ちあがったら、神殿のまる屋根をつきやぶったろうと云われている。ワイマール宮廷でのゲーテの地位は、まったくこのジュピターの像とおなじであった。もしそれまでしずかにすわっていたゲーテがにわかに立ちあがったとしたら、ゲーテはワイマール国家の屋根をつきやぶったろう。いや、それよりもきっと、その屋根に頭をぶつけてくだけただろう。ゲーテは、まちがっているだけではなく滑稽でさえもあるフィヒテの学説のために、こんな危険をおかさなければならなかったか? ドイツのジュピターであるゲーテはおちついてすわったまま、しずかに祈りをささげてもらったり、香煙をたいてもらったりしていた。

 告発の資料となったフィヒテの言葉 当時の芸術運動の事情まで説明して、フィヒテが無神論者として告発されたときにゲーテのとった態度をいっそう根本的に弁護するのは、本書の目的からあまりにも遠ざかることだろう。とにかく、このフィヒテへの告発は元来、口実にすぎないもので、政治的な挑発がこの告発のかげにひそんでいたということだけはフィヒテには有利な事実である。というのは神学者は一定の教義を説く義務を負うているから、無神論を説けば告発されても仕方がないが、哲学者はこうした義務を負うていないし、また負うわけもない。哲学者の思想は空とぶ鳥のように自由であるから。――さてフィヒテへの告発の基礎となり、理由となった事情を、私自身および他人の感情をきずつけないために、ここで全然、報告しないとすれば、それは不当なやり方だろう。だから、あの告発された論文のいかがわしい個所をここでひとつだけ紹介しよう。――「いきいきと活動している道徳的秩序そのものが神である。われわれはこれ以外の神は必要としないし、また理解することもできない。この道徳的な世界秩序からぬけ出て、基礎づけられているものから基礎そのものを推論するという仕方で、もうひとつの特殊なものを現在の世界秩序の原因として仮定しなければならないわけは、理性的にはありえない。だから人間にうまれつきそなわっている分別はこうした推論はけっしてしないし、またそうした特殊なものをみとめることはない。ただ自己の使命を誤解している哲学者だけがこうした推論をするのである――」

 フィヒテの無神論の内容 これは頑固な人間の特徴であるが、フィヒテは「公衆への訴え」や裁判所の答弁ではいっそう乱暴にいっそうするどく自分の意見を述べた。しかもわれわれの心そこの感情をきずつけるような言葉を用いた。われわれは、無限の延長としてわれわれの感覚にあらわれ、無限の思考としてわれわれの心にあらわれるほんとうの神を信じている。われわれは自然という目に見える神をうやまい、その神の目に見えない声を心のうちで聞いている。だから、我らの神をたんなる妄想だと云いきったり、そのうえ皮肉ったりするフィヒテのするどい言葉を聞くと、ひどく気をわるくする。フィヒテが神にくっついている感覚的な付加物を一切きれいにとりはらって、「存在とは感覚的な概念だ、そしてただ感覚的な概念としてのみ成立しうる」という論法で神の存在を否定するのは、皮肉かそれとも気ちがい沙汰かまったくわからなくなる。フィヒテはこう云う。「知識学によれば存在とは感覚的な概念だ。経験の対象となるものだけが『存在する』と云われうるのだから『存在する』という言葉は神には使えない。」したがってフィヒテのいわゆる神とは存在ではない。その神は存在しないで、ただ行為そのものとして、いろんな事件の秩序として、いろんな事件をまとめる秩序として、つまり世界法則としてのみあらわれるのである。

 観念論は徹底すれば無神論となる このようにして観念論哲学が神を濾過して神のあらゆる具体的要素をつぎつぎに取り去るうちに、もはや神というものは何ものこらなくなってしまった。お国のフランスでは国王のかわりに法律が支配するようになったが、わがドイツでは神のかわりに法則が支配することになった。

 ところで、神によらない法則つまり「無神論の法則」、あるいは法則にすぎない神つまり「法なる神」ほどばかげたものがあるだろうか?

 フィヒテの無神論は政治的に危険なものではなかった フィヒテの観念論は、人間の精神がこれまでにもくろんだもっとも大規模な誤謬のひとつである。その観念論は、きわめて不細工な唯物論よりももっと不信心な、もっとのろわしいものである。フランスでのいわゆる唯物論的無神論は、フィヒテの経験を超越した観念論の結果とくらべて見ると、それでもまたありがたい、信心ぶかいものである。それは私がたやすく説明できることだ。とにかく、私の知るかぎりでは、フィヒテの観念論もフランスの唯物論も私には気にいらぬ。このふたつの思想はいずれも詩情にさからうものだ。フランスの唯物論者もドイツの超験的観念論者もまずい詩しかつくらなかった。けれどもフィヒテの学説は政治的に危険なものではなかった。いわんや政治的に危険だとして追放されるほどのものではけっしてなかった。フィヒテのこのまちがった学説で邪道へみちびかれるには、思索的なするどい頭が必要だった。しかし、そうしたするどい頭はごくわずかな人しかもっていないのだ。ありふれたばかな頭の大衆には、このフィヒテのまちがった学説はまったくわからなかった。だから、神についてのフィヒテの意見は理論的に否定さるべきで、警察力で否定さるべきものではない。哲学者が無神論を主張したので告発されるというのは、さすがにドイツでもめずらしいことであった。だから、フィヒテもはじめは、一体ないを要求されているのかさっぱり分らなかった。フィヒテはきわめて正しくこう云っている。「ある哲学が無神論かどうかとたずねられた哲学者は、ある三角形が緑色か赤色かとたずねられた数学者と同じように奇妙に感じるものだ。」

 フィヒテが告発されたのには、秘密の理由があった。そしてフィヒテはこの秘密の理由をまもなく見やぶった。フィヒテは世にもまれな正直な人間だから、この秘密の理由についてラインホルトに自分の意見を述べているフィヒテの手紙は十分に信用してもいいだろう。一七九九年五月二十二日の日付になっているこの手紙はそのころのドイツの社会情勢をえがいて、フィヒテのうけた圧迫そのものをまざまざと示しているので、その一部をここに引用しよう。

 フィヒテの手紙にえがかれた当時の社会情勢 「つかれきってしまったうえに嫌でたまらなくなったので、私はこのまえ君に知らしたように、二、三年間は世間からすっかり姿をくらましてしまおうと決心していた。そのころの情勢を考えて見て、私は義務としてもこうした決心をしなければならぬと確信していた。というのはげんざいのように人心が激昂し手いるときには、いくら意見を述べてもとうてい聞いてもらえないし、またこの激昂が私の意見の発表でいっそう悪化するかも知れないからである。だから二、三のちにこのさいしょのおどろきがおさまってから、いっそう力をこめて私の意見を発表したほうがいいだろうと思ったのである。――ところが今では考えなおした。私は、今だまっておるべきではない。もしも今だまっていたら、もう二度と自説を述べることはできなくなるだろう。ロシヤとオースタリーとが同盟をむすんだときから、どうやら起こりそうだと思っていたことが、ごく最近のいろんな事件で、ことにあのおそろしい公使暗殺事件で、いよいよたしかな事実となった。(この公使暗殺事件でザクセン人は大よろこびをしている。SもGもこの事件で歓声をあげている。まったく、こうした犬どもはうちころしてしまわねばならぬ。)つまり専制主義は今や死にものぐるいで身を守ろうとしている。ポウルとビットが専制主義をてってい的におこなおうとしている。専制主義の計画の基礎は思想の自由を根こそぎなくすることである。そして、ドイツ人民は、専制主義がこの目標に到達するのに大した邪魔にはならないようである。」

 「たとえばワイマール宮廷は、私が在職しているためにイエナ大学の学生数が減ると思っていたなどと君は信じてはならぬ。いやワイマール宮廷は、じつは学生数がかえってふえるということをよく知っていたのだ。ワイマール宮廷は全般的な、ことにザクセン選挙侯国がきわめて力づよく立てた計画にしたがって、私を辞職させるより仕方がなかったのだこの間の秘密を知っていたライプチヒ市のブルシェルはすでに去年の末に、『フィヒテは来年の末までにはきっと大学から追放される』と云って、大した金を賭けていた。フォイクトはブルクスドルフにうごかされて、とっくの昔に反フィヒテの陣営に加担していた。ドレスデンの科学教育局は公表した。あたらしい哲学を信奉する者は役人になっても進級しないし、これまでに進級していたとしても、それ以上は出世させないと。ライプチヒの授業料免除の学校ではローゼンミューラーの啓蒙思想さえも危険視されている。マルチン・ルターの『教義問答書』がライプチヒでは近頃またもや学校の教科書として用いられることになった。教師たちはあらたに、宗教の信条を示す書物をかたく信ずると誓わなければならなくなった。こうしたやり口がいよいよひどくなり、いよいよひろがるだろう。――つまりフランス人がこの上もなくおそろしく優勢になり、ドイツで、すくなくともドイツの大部分で一大変革をやらないならば、自由思想を一生涯、守りぬいたので有名な人物は二、三年のうちにドイツでは安息の場所を見いだすことができなくなるというのは、きわめてたしかなことである。――たとえ私が今、どこかの片隅に安息の地を見いだしたとしても、一年か、せいぜい二年以内にまたそこから追いだされるのは、きわめてたしかなことである。そして、追いだされて転々するのは、危険なことである。これはジャン・ジャック・ルソーの歴史的な例が教えている。」

 「だまりこんでしまって、一行の文字も書かないという条件を守りさえしたら、私は無事でおれるだろうか? いや、そうはいくまい。たとえ宮廷はそうした私をゆるしておいてくれるとしても僧侶たちは、私がどちらを向いても、私にたいして愚民をけしかけ、私に石を投げつけさせるだろう。そして、諸国の政府にたのんで、不安をひきおこす人間として私を追放させるだろう。けれども、だからと云って私はだまっているべきだろうか? いや、たしかにだまっていてはならならんのだ。というのは私は、次のように信ずべき理由がある。つまり、もしドイツ精神のいく分かが救われるとしたら、それは私の演説で救われる。またもし私がだまっていたらドイツ哲学は早急に、すっかりほろびてしまうだろうというのである。私がだまっていても許してくれそうにもない人が、しゃべるのを許してくれる見込はとてもない。」

 「けれども私はそうした人々に、私の学説の無害なことを納得させよう。――ラインハルト君。君はこれらの人々をどうしてそんなに善人と思っているのか? 私の立場がはっきりとすればするほど、私に罪のないことがわかればわかるほど、あの人々はいっそう陰険になり、私のほんとうの過失がいっそうりっぱになるだろう。あの人々は私のいわゆる無神論を追求しているのではない。自分の思想を分りやすく説明しはじめた(この点でカントはあいまいな用語を使って得をしている)自由思想家として、不評判な民主々義者として私を追求しているのだ。彼らは自主独往の精神をゆうれいのようにおそれている。そして私の哲学がそうした精神をよびおこすだろうと、おぼろげながら感じているのだ。」

 ナポレオン時代以前のドイツの自由主義者 もう一度、云っておく。この手紙は昨日の日付ではなくて、一七九九年五月二十二日の日付である。悲しいことにはその頃の政治的事情は今日のドイツの状態とじつによく似ている。ただちがうのは、そのころは自由主義者はむしろ、学者、詩人その他の文士のあいだでさかえていた。ところが今日では自由主義は学者や文士のあいだではひどくおとろえて、むしろ活動的な人民大衆ことに職人や実業家のあいだにあらわれているのである。フランス大革命のころドイツの人民大衆は、なまりのようにおもくるしい、きわめてドイツ的な睡魔におそわれていて、いわば下品な静けさがゲルマニアぜんたいにひろがっていたときに、ドイツの文学界だけには、きわめてはげしい運動がおこった。ドイツのどこかへんぴな片隅にくらしていた、きわめて孤独な著述家がこの運動に参加した。政治的な事件については十分な知識は得られなかったけれども、その著述家はこの運動の社会的意味にほとんど共鳴して、その社会的意味を著述で説明した。この現象は、われわれがときどき装飾品として暖炉のうえにのせておくあの大きな貝がらを思いださせる。あの貝がらは海原から大そうとおざかってはいるけれども、さし潮の時が来て、波が浜辺におしよせるやいなや、にわかにざわめきはじめるのである。人間の大海原であるこのパリで革命の潮がながれはじめて、巨浪がこのパリであれくるってはくだけると、ライン河のかなたでもドイツ人の心がざわめき、わきたった。……けれども、それらのドイツ人はまったく孤立していた。彼らは暖炉のうえの貝がらと同じように、まったく感じのない磁器、茶わん、コーヒーわかし器、話のすじはわかっているよと機械的にうなずくだけの支那製の首ふり人形などにとりかこまれていた。ああ、わがドイツのあわれな先覚者らは革命に同情をしめしたので、ひどいつぐないをしなければならなくなった。地方貴族や坊主らがこれらの先覚者にれいのきわめて不細工な下劣な奸計をめぐらした。それらの先覚者のうちの数名の者はこのパリへ逃げてきて、ここで悲惨と困窮のうちにおいさらばえて、人知れず死んでいった。私はごく最近、あのとき以来パリに亡命しているめくらの同郷人を見たことがある。ちょうどそのとき、その同郷人はパレ・ロワイヤルですこしばかり日なたぼっこをしたあとであった。青ざめてやせおとろえたその人が、日なたぼっこをおわってから、軒づたいに手さぐりであるいていくのは、いたましいようすであった。その盲人こそはデンマークの老詩人ハイベルクだと私におしえてくれたひとがいた。また私は最近、フランス市民ゲオルク・フォルスターの死んだ屋根うらの小部屋を見たことがある。ドイツにのこっていた自由主義者も、もしもナポレオンとその部下のフランス軍隊とがまもなくドイツを征服しなかったならば、もっともっとひどい目にあっただろう。ナポレオンは自分がドイツの自由主義者を救ったなどとはゆめにも思っていなかったろう。けれども、もしナポレオンがいなかったならば、わがドイツの哲学者もその自由主義も絞首刑や車ざきの刑罰で根こそぎにされたろう。けれどもわがドイツの自由主義者は、あまりにも共和主義的な意向をもっていたのでナポレオン皇帝につかえることはできなかったし、あまりにも大まかであったのでフランス人の支配に加勢してどいつの反動家と戦う気にもなれなかったので、それ以来かたい沈黙をまもることにした。これらの自由主義者はくちびるを閉じたまま、やるせない思いをいだいて、淋しくあるきまわっていた。ナポレオンが没落したときに彼らは悲しげに、黙ってほほえんだだけである。そのころ最高の主権者からも承認されて、ドイツじゅうにわきたちかえったあの愛国主義の熱狂にもこれらの自由主義者はほとんど加担しなかった。彼らは自分の思想がどういうものかよく知っていたので、だまりつづけていた。これらの共和主義者は大そうきよらかな、すなおな暮しをしていたので、大ていは老年まで生きのびた。一八三〇年の七月革命がぼっ発したときにも、彼らのうち多くのものはまだ生きていた。いつもはからだをまえにかがめて、まるで白痴のようにだまってあるきまわっていたこれらの年よった変人が、七月革命がおこるとにわかに昂然と頭をあげて、小僧っ子のわれわれにしたしげにわらいかけ、われわれと握手し、いろんなおもしろいむかし話をきかせはじめたので、われわれはすくなからずおどろいた。私は彼らのうちのひとりが歌うのをきいた。その老人はある喫茶店で認識マルセイユの歌をうたってきかせてくれたのである。そこでわれわれ若者はこの歌のメロディーやりっぱな歌詞を覚えた。そしてまもなくこの老人自身よりも、もっとうまく歌えるようになった。というのはその老人はいちばんみごとな歌詞の一節をうたうときには、気ちがいのようにわらったり、子供のように泣いたりしたからである。こうした老人が生きのこっていて、若者たちにむかしの歌をおしえてくれるのは、うれしいことである。若者のわれわれはこれらの歌を忘れないだろう。そして我らのうちの二、三の者は、いつかは生れてくる孫にその歌をおしえこむことだろう。けれども我らの多くの者はその歌を孫におしえるまでもなく、ドイツ国内の監獄や外国の屋根うらの小部屋でくさりはててしまうのだ。

 フィヒテ哲学の変節 しかし、もうこんな話はやめてドイツ哲学にもどろう。私がさきに述べたように、フィヒテ哲学はきわめて現実味のない抽象からくみ立てられながらも、その推論で大たんきわまるほこさきを見せ、鉄のような頑固さを示していた。ところがある朝おきて見ると、このフィヒテ哲学はひどく変化していた。フィヒテ哲学は言葉をかざりたてたり、べそをかいたりしはじめて、やさしく、つつましやかになっていた。思想のはしごで天国へよじのぼり、その天国のあき部屋を横着な手つきでさぐりあるいていた観念論の巨人フィヒテはにわかに、多少こしをかがめたキリスト教徒になって、ため息をつきながら愛についてくどくどと話しはじめた。これがフランスにいるわれわれにはほとんどかかわりのないフィヒテ哲学の第二期である。フィヒテ哲学の仕組全体が、きわめて異様に修正された。そのころにフィヒテは「人間の使命」という本を書いた。この本はちかごろフランス語にもほん訳された。またそれに似た「至福なる生活への指示」という本もこの第二期にぞくするものである。

 「自然哲学」についてのフィヒテの意見 強情なフィヒテは自明なように、この自分の哲学の重大な変化をけっしてみとめようとしなかった。フィヒテはこう主張した。「私の哲学はむかしとすこしもかわってはいない。ただ、その表現がかわり、改良されただけである。それが分ってもらえないのだ。」フィヒテはまたこう主張した。「ちかごろドイツにあらわれて、観念論哲学を押しのけようとしている自然哲学は根本的に見れば、私の哲学体系とまったく同じである。今や私と別れて、あのあたらしい自然哲学をはじめたヨーゼフ・シェリング氏は私の弟子だ。ヨーゼフ・シェリング氏は哲学上の用語をつくりかえ、おもしろくもないおまけをつけ加えて、もとからのフィヒテ哲学を拡大しただけである。」

 本書は自然哲学をどの程度まで説明するか ここでわれわれはドイツ思想史のあたらしい局面に達したわけだ。私はさきにヨーゼフ・シェリングという名まえと、自然哲学という名をあげた。ところが、シェリングという人はフランスではほとんど知られていないし、自然哲学という言葉の意味も一般の人からは理解されていないので、私はこのふたつの名称の意味を説明しなければならぬ。もちろんこの本では十分に説明することはできぬ。これをてってい的に説明するためには、もう一冊、別の本を書かねばなるまい。ここではただ、このふたつの名称にしみこんでいる二、三の誤解をといて、上記の自然哲学の社会的意味に多少の注意をはらいたい。

 フィヒテの「超験的観念論」とシェリングの「自然哲学」とは互におぎなうものである さいしょにまず述べておきたいことは、「ヨーゼフ・シェリング氏の学説は私の学説とおなじである。ただ私の学説をつくりかえ、拡大しただけだ」といきりたって云うフィヒテの言葉はまったくのまちがいではないということである。ヨーゼフ・シェリング氏とまったく同じようにフィヒテも説いている。存在するものは、ぜったい的な自我だけであると。そしてフィヒテは理想と現実とは一致すると説いている。私がさきに示したようにフィヒテは「知識学」で、知的な操作によって理想から現実をくみ立てようとした。ところがヨーゼフ・シェリング氏はこの方法を逆にした。つまりシェリングは現実を解釈して理想をとらえようとしたのだ。もっとはっきり云えば、フィヒテは「思考と自然とは同一物である」という原理から出発して、知的な操作によって現象界に到達した。つまり思想から自然を、理想から現実をつくり出したのだ。ところがシェリング氏はこれとおなじ原理から出発しながら、現象界を思想そのものにしてしまった。つまり自然から思想を、現実から理想をつくり出したのだ。だから、フィヒテのとった方向と、シェリング氏のとった方向とは、いわばたがいにおぎないあうのである。というのは上述の再考原理によって哲学はふたつの部分にわかれることになり、一方の部分では、思想から自然の現象界が成立する次第を説明するし、他方の部分では、自然が溶解して思想そのものになる次第を説明することになるからだ。それゆえに哲学は超験的観念論と自然哲学に別れるわけである。じっさいにまたシェリング氏は哲学のこの二つの方向を認めた。そして自然から思想への方向を「自然哲学の理想」という著書で、また思考から自然への方向を「超験的観念論の体系」という著書で追求したのである。

 シェリングは詩的な哲学者であった ひとつは一七九七年に、他のひとつは一八〇〇年に発表されたこの著書の名を私がここにあげたのは、さきに述べたあのおぎないあうふたつの哲学の方向がこの著書の題名にはっきり示されているからなので、これらの著書に完全な体系がふくまれているからではない。いや、この完全な体系はシェリング氏のどの著書にもけっして見いだされない。シェリング氏はカントやフィヒテのように、その哲学の中心点と見なされるような主要な著作はもっていない。シェリング氏をその著書の内容の範囲や用語の正確さなどに就いて批判するのは、正しくない。むしろシェリングの著書は年代順によみ、著者の思想が次第に完成していくあとをたどって、ついに著者の根本思想をしっかりとらえるべきだろう。さらにまたシェリング氏では、思想の代りに、詩が活動しはじめる点を時どきたしかめることが必要だろう。というのはシェリング氏は、詩をつくる能力よりはむしろ詩を愛する心を自然からめぐまれた人物のひとりであるから。そうした人物は詩壇の娘らをまんぞくさせるような詩はつくれないので、哲学の森へ逃げこみ、その森の観念的な木の精ときわめて無益な結婚をするのである。そうした人物の感情は詩的であるが、用語はたよりない。そうした人物は自分の思想と認識とをつたえるはずの芸術的形式を手にいれることができない。詩はシェリング氏の強みであり、弱点である。この詩がよかれあしかれシェリング氏をフィヒテと区別するものだ。フィヒテはただの哲学者である。フィヒテの力はその弁証法にあった。フィヒテの強みはその論証にあった。ところが、論証はシェリング氏のにがてである。シェリング氏はむしろ直観のうちに生き、つめたく高い論理の世界ではいごこちがわるいので、シンボルの花さく谷へとびおりていく。哲学者としてシェリングの強みはその構想力にあった。ところが、この構想力というのは、平凡な詩人やもっともすぐれた哲学者にしばしば見いだされる精神的能力である。

 「自然哲学」の奔放な活動 この私の暗示的な言葉で分るように、シェリング氏は超験的観念論のみをあつかう哲学の部分では、当然フィヒテの口まねばかりしていた。ところが星や草花にまじってはしゃぐ自然哲学ではおそろしくおごりたかぶることができた。だからこの自然哲学の方向を、シェリング氏はもちろんのこと、その同志らもすすんで追求した。そこでおこったおそろしいさわぎは、これまでの抽象的、観念的な哲学にたいするへぼ詩人らの反動にすぎないとも云えよう。一日じゅうせまい教室で母音や頭文字にくるしめられてあえいでいた学童がようやく解放されたように、シェリング氏の弟子たちは自然のなかへ、芳香のただよっている、口あたりのいい現実のなかへとびこんでいって、そこで歓声をあげ、とんぼがえりをうって、大さわぎをしたのである。

 さて、この「シェリング氏の弟子」という言葉も、この場合にはふつうの意味に取ってはならぬ。シェリング氏自身が云っている。「私は、古代の詩人がつくった流派と同じ意味でひとつの学派をつくろうとした。つまり、その流派のだれもが一定の教義や一定の規律にしばられないで、各自が自分の心の声にしたがい、その心の声を自分の流儀で表現するという詩人の流派なのである。」シェリング氏は、予言者の学派をつくったと云ってもよかった。つまり、感激した人たちが思いのままに気まぐれに、すき勝手な言葉で予言しはじめる学派である。師匠のシェリングの精神に元気づけられた弟子たちは、ほんとうにこうした予言をはじめた。見識のきわめてせまい人物が予言を述べたてた。各自がそれぞれちがった言葉ではなした。そこで哲学界には大げさな聖霊降臨祭がひらかれたのである。

 自然哲学は汎神論である きわめて意味ふかく、きわめてりっぱなものでもまったくの茶番や仮想行列に用いられるということ、おく病ないたずら小僧や陰気な道化者の徒党でも偉大な思想を仲間にひきいれるということは、この自然哲学の場合にまのあたり見ることができる。けれどもシェリング氏のつくった予言者の学派あるいは詩人の流派が自然哲学を編物袋へいれようとしたのは、たしかに自然哲学自身をまんぞくさせることではない。というのは自然哲学の根本思想は、スピノザの根本思想、つまり汎神論にほかならないからである。

 ドイツ古典哲学の循環的発達 スピノザの学説と、シェリングがその好調期に示した自然哲学とは根本的に見てまったく同じである。ドイツ人はロックの唯物論哲学をしりぞけ、ライプニッツの観念論を極端までおしすすめて、この観念論もまた役に立たないことをたしかめてから、ついにデカルトの第三子であるスピノザ哲学に到達した。ドイツ哲学はひとつの大きな循環をなしとげた。この循環は二千年まえにギリシャ人がなしとげたのとまったくおなじであると云えよう。けれども、このふたつの循環をくわしく比べて見ると、ひとつの根本的な差異が見いだされる。ギリシャ人もわれわれドイツ人とまったくおなじように大たんな懐疑派だった。エレア学派のものは、近ごろのドイツの超験的観念論とまったくおなじように外界の実在をきっぱりと否定した。プラトンはシェリング氏とまったくおなじように現象界を通じて精神界を見いだした。けれども、わがドイツ哲学は、ギリシャ哲学やデカルト派よりはある点でまさっている。そのまさっている点というのは、

 わがドイツ哲学はその思想的循環を、人間の認識作用の根本的検討、つまりイマヌエル・カントの「純粋理性批判」をもってはじめたということである。

 シェリングの自然哲学の汎神論的内容 カントの名をあげたので、ここでついでに上記の考察につけ加えておこう。カントがまだゆるしていた神の存在を証明する方法、つまり道徳上の理由から神の存在をみとめるという証明法をシェリング氏はみごとにうちたおしてしまった。けれども私がさきに述べたように、この道徳的証明法はとくべつに力づよいものではなかったし、カントは人がいいのでこの証明法をみとめただけである。シェリング氏のいわゆる神はスピノザのいう「神なる宇宙」である。すくなくとも一八〇一年に発表した「思弁的物理学雑誌」の第二巻ではそうであった。この雑誌では神は、自然と思考、つまり物と心とがぜったい的に統一したものである。このぜったい的な統一は宇宙の成立する原因ではなくて、むしろ宇宙そのもの、つまり「神なる宇宙」である。この神なる宇宙には対立も分裂もない。だからこのぜったい的な統一はまたぜったい的な全体である。

 「ブルーノ」 それから一年のちにシェリング氏は自分の考えている神の概念を「ブルーノ、あるいは事物における神と自然との原理について」という標題の著書でいっそうくわしく展開した。この標題は、我らの信仰である汎神論のためにたおれたもっとも気だかい殉難者、ノーラのジョルダーノ・ブルーノをはれがましく思いださせる。イタリヤ人は、シェリング氏に剽窃の罪を負わせている。けれどもこれはまちがいだ。哲学には剽窃ということはないのだ。

 「哲学と宗教」 一八〇四年にシェリング氏の神は「哲学と宗教」という標題の著書でついに完成した。この著書で絶対的なものを説く学説が完成している。この著書では絶対的なものが三つの公式で表現されている。第一の公式は断定的である。つまりこうだ。「絶対的なものは理想でもなく現実でもなくて(つまり心でも物でもなくて)、このふたつの統一したものである。」第二の公式は条件をつけている。つまりこうだ。「もしも主体と客体とが現に存在するとしたら、絶対的なものとは、この主体と客体とが根本的にひとしい状態である。」そして第三の公式は選定をゆるしている。つまりこうだ。「存在するものはただひとつしかない。そして、このただひとつのものは同時にあるいは交互に、理想そのものか、現実のものと見なされ得る。」この第一の公式はまったく消極的である。第二の公式はある条件をつけている。ところがこの「現に存在するとしたら」という条件はそれに条件づけられている「主体と客体」そのものよりもいっそう理解しにくい。そして第三の公式はスピノザの公式とまったくおなじだ。つまりぜったい的な実体は思考か、あるいは延長として認識されるというのである。だからシェリング氏は哲学の道ではスピノザより先へすすむことができなかった。というのはシェリング氏のいわゆる絶対的なものは、思考と延長というふたつの属性の形式でしか理解されないからである。ところがシェリング氏はここで哲学の道をすてて、一種の神秘的な観照によって絶対的なものそれ自身を直観しようとした。絶対的なものの中心、あるいは本質を直観しようとした。ところが絶対的なものは、その中心あるいは本質では、理想でもなく現実でもなく、思考でもなく延長でもなく、主体でもなく客体でもなく物質でもなくて、何だかさっぱり分らないものである。

 シェリング哲学の行きづまり ここまでくるとシェリング氏は哲学者ではなくて詩人になった。いや、むしろ狂人になったと云いたい。するとシェリング氏はあのたくさんの馬鹿者から絶大の賛成を得た。それはおちついて考えるのはやめて、いわば回教徒の巡礼のまねをするのがうれしいという馬鹿者である。その回教徒の巡礼というのは我が友ジュール・ダヴィッドがものがたるように、客観の世界と主観の世界とがきえうせてしまい、このふたつの世界がとけあって、現実でも理想でもない透明な無になり、目に見えるはずのないものが見え、耳にきこえるはずのないものがきこえ、色を音として聞き、音を色として見るようになり、ぜったい的なものがまざまざとあらわれてくるまでひとつの輪のなかをぐるぐるあるきまわる手合いである。

 ヘーゲルが自然哲学を大成した シェリング氏の哲学の道は、ぜったい的なものを知力で直観しようという試みまで来て終結したようだ。いまやシェリング氏よりも偉大な思想家があらわれた。その偉大な思想家が自然哲学を完成して、完全な体系をつくりあげ、自然哲学を綜合して現象界ぜんたいを説明し、先輩たちの偉大な思想を、より偉大な思想でおぎないつつ、あらゆる学科にじっさいあてはめて見て、科学的に基礎づけたのである。その偉大な思想家はシェリング氏の弟子であった。けれども、この弟子は哲学界で師匠のあらゆる権力をしだいに横領し、たくましい野心にもえて師匠よりもえらくなり、ついにこの師匠をくらやみへ追放してしまった。その弟子とは、ドイツがライプニッツ以後にうみ出した最大の哲学者、偉大なヘーゲルである。もちろん、ヘーゲルはカントやフィヒテよりもはるかにまさっている。ヘーゲルはカントのようにするどく、フィヒテのように力づよい。しかも、思想をくみ立てるだけの心のおちつきと調和のとれた思考力をもそなえている。こうしたおちつきや調和はカントやフィヒテには見いだされない。というのは、このふたりはむしろ革命的な意気にもえているからである。ヨーゼフ・シェリング氏はヘーゲルとはまったくくらべものにならぬ。ヘーゲルは節操のある人物だからだ。ヘーゲルもシェリング氏と同じように、現在の国家や教会について二、三のずいぶんいかがわしい弁明をしているが、この弁明はすくなくとも理論的に進歩の原理を信奉している国家、および研究の自由を自己の生存の要素と見なしている教会のためにのみなされている。しかもヘーゲルはこのことをかくしていない。ヘーゲルは自分の意図をすべて認めているのである。ところがシェリング氏はこれに反して、実践的、理論的な絶対主義の次の間でいもむしのように身をくねらせ、精神をしばる鎖をきたえるエスイット教徒のほら穴で手だすけをしている。しかもシェリングはこうしたことをしておりながら、われわれをだまそうとする。「自分はむかしとすこしもかわらぬ明るい人間だ」と。シェリングは自分が光を否定していることを否定して、没落の恥辱にさらに卑怯な虚偽をかさねている!

 シェリングの没落は彼の肉体の弱まりからおこった われわれはいくら信心ぶかくても、またずるくても、つぎのことはかくしておけぬ、だまっているわけにはいかぬ。つまり、むかしはドイツでもっとも大たんに汎神論の宗教を述べた男、「自然を神とあがめて、人間に神の権利をふたたびあたえよ」と大声をはりあげて宣伝した男、そのおなじ男が自己自身の学説にそむき、みずから設けた祭壇を去って、むかしながらの信仰のうまやへ這いこみ、今ではりっぱなカトリック教徒になって、「世界をつくるという愚行をやってのけた」世界を超越し、人格をそなえた神の存在を説いているということである。昔ながらの信者は、シェリングのこの改宗を祝って鐘をつきならし、「主よ、あわれみたまえ!」と歌うがよかろう。――けれども、この改宗は古い信者の君たちの信仰の正しさを証明するものではない。ただ次のことを証明するだけだ。つまり人間は年よって、つかれてきて、肉体力も精神力もなくしてしまい、たのしむことも考えることもできなくなると、カトリック教が好きになるというのである。多くの自由主義者が死の床で改宗した。――しかしこれはカトリック教徒の自まんのたねにはならぬ。こうした改宗はせいぜい病理学の問題であって、カトリック教徒にはかえって不利な証拠となるだろう。つまりこの改宗は次のことを証明するだけだ。自由主義者は健康な感覚をもち、ひろびろとした大空の下をあるきまわって、自分の理性を十分にはたらかせているあいだは、改宗させられることはないというのである。

 シェリングの改宗はひとつの自然法則の結果である たしかにバランシュ君がこう云ったはずだ。「創意を発揮した仕事が完成されるやいなや、その創意を発揮した人はすぐさま死ぬというのは、ひとつの自然法則だ。」おお、バランシュ君、きみのこの言葉は一部分だけ正しい。私はむしろこう云いたい。「創意を発揮した仕事が完成されるやいなや、その創意を発揮した人はすぐさま死ぬか、それとも、その自分の仕事にそむくようになる。」こう云い変えるとげんざいのドイツの思想家がシェリング氏にくだしているあのきびしい判断をものしずかな同情に変えることができよう。シェリング氏が自分の学説にそむき去ったのは、自然法則の結果としてのみ説明することにしよう。つまりある思想を発表しあるいは実行するために全力をつくした人は、その思想を発表しあるいは実行したあとでは、つかれきってたおれてしまい、死のうでにか、あるいはむかしの敵のうでにだかれるという自然法則である。

 カントやフィヒテも多少とも没落した こう説明すれば、われわれドイツ人を今日、ふかく悲しませているもっと目立った現象も理解できよう。自分の意見のためにすべてをささげ、その意見のために戦いくるしんだ人たちが一たん勝利を得たのちに、ついにその意見をすて去って敵の陣営へ移っていったわけも、こう説明すれば理解できよう。さてこう説明してから、ヨーゼフ・シェリング氏だけではなくて、カントやフィヒテも多少とも没落の責めを負うべきことに御注意ねがいたい。フィヒテは自分の哲学にそむいたことにあまりにも目立たないまえに、ちょうどいい時に死んでしまった。カントは「実践理性批判」を書いて、すぐさま自分の「純粋理性批判」をうらぎった。だから「創意を発揮した人はすぐさま死ぬか、それとも、その自分の仕事にそむくようになる」のだ。

 シェリングの果したドイツ哲学史上の役割 なぜかは知らぬが、この自然法則をあらわす言葉で私の心は陰気くさくおさえつけられた。だから私はいま、今日のシェリング氏についてその他のきびしい真相を報告する気にはなれない。それよりもむしろ、むかしのシェリング氏、その思い出はドイツ思想史の花として忘れられることのない若き日のシェリング氏をほめたたえよう。むかしのシェリング氏はカントやフィヒテとまったくおなじようにドイツ哲学革命の偉大な段階のひとつをあらわしていた。このドイツの哲学革命の各段階を私は本書でフランスの政治革命のそれとくらべておいた。たしかにカントを暴力的人民公会と見なし、フィヒテをナポレオン帝国と見なすならば、シェリング氏はナポレオン帝国につづく王政復古と見なすべきだろう。けれどもこれはさいしょはフランスの王政復古よりもよい意味での復古であった。シェリング氏は自然にふたたびもとの正当な権利をあたえた。精神と自然とを和解させようとし、精神と自然とを永久の世界のたましいとして、ふたたび統一しようとした。シェリング氏はあの偉大な自然哲学を復活させた。その自然哲学は古代のギリシャ哲学に見いだされ、ソクラテスによってはじめて人間の情意そのもののうちにみちびきこまれ、その後に溶けて理想となったものである。シェリング氏はあの偉大な自然哲学を復活させた。その自然哲学はドイツ人の古来の汎神論的宗教からひそかに芽ばえて、パラツェルズスの時代にきわめてうつくしく花咲きかけたが、その後にドイツにもちこまれたデカルト哲学につぼみのままにおしつぶされたものである。ああ、けれどもシェリングはさいごに、わるい意味でフランスの王政復古とくらべられるようなものも復活させた。すると、社会の理性がもはやシェリング氏をゆるしておかなくなった。シェリング氏は思想界の玉座から不面目につきおとされた。シェリングの執権であったヘーゲルがシェリングの頭から王冠をうばって、その頭を剃ってしまった。廃位されたシェリングはそれ以来、あわれな修道僧のようにミュンヘン市に暮している。このミュンヘン市は名前からして坊主くさくて、ラテン語では「モナーコ・モナコールム」つまり「修道院の所在地」という意味である。ミュンヘン市で私はシェリング氏がれいの大きな、にぶい目をし、元気のないぼんやりした顔つきでゆうれいのようによろめきあるいているのを見たことがある。それこそおとろえた栄光のいたましい姿である。ヘーゲルはベルリンで即位式をあげた。もっともその即位式には残念ながら、多少は宗教くさい香油をぬってもらった。そして、それ以来、ドイツの哲学界に君臨している。

 ドイツの自然哲学とフランスの七月革命 わがドイツの哲学革命はおわった。ヘーゲルがこの革命の大きな循環を終結させた。それ以後はただ、自然哲学の学説が発展し完成するのを見るのみである。さきに述べたようにこの自然哲学はあらゆる科学に侵入して、そこできわめて非凡な、きわめて偉大なものをうみ出した。しかしまたさきに暗示したように、多くのおもしろからぬものも同時に当然、明るみに出た。これらの現象はきわめて多いので、それをのこらずかぞえあげてしるすだけでも一冊のまとまった本ができるだろう。それこそわがドイツ哲学史のほんとうにおもしろい、色どりゆたかな部分である。けれども、君たちフランス人はこの部分は知らない方がいいと私は確信している。というのはこの部分の報告は、君たちフランス人の頭をいっそう混乱させるかも知れぬからである。全体の関係からきりはなされた、自然哲学の個々の定理は、君たちフランス人に大きな不幸をもたらすかも知れぬ。とにかくもこれだけのことはたしかだ。もし君たちが四年前にドイツの自然哲学を知っていたら、あの七月革命はけっしてなしえなかったということである。革命をやるには思想と力の集中、気だかい偏狭、そしてフランスの従来の学派のみが認めるようなうぬぼれた軽率が必要である。せいぜい自分の合法性と、カトリック教のキリスト降臨説しか、弁護できないような不合理な哲学は君たちフランス人の感激をにぶらし、勇気をおとろえさせただろう。それゆえに、あのころドイツ哲学をフランスで説こうとしたあの偉大な折衷主義者もドイツの自然哲学をさっぱり理解しなかったのは世界史的に重大なことだと私は思う。あの折衷主義者が天意によってドイツの自然哲学を知らなかったのはフランスにも全人類にも有益なことであった。

 自然哲学の反動的一面 ああ、自然哲学は知識の多くの分野で、ことに本来の自然科学で、きわめてりっぱな結果をもたらしたが、他の分野ではきわめて危険な雑草もうみだした。一方ではドイツのもっとも天才的な思想家であり、もっとも偉大な市民のひとりでもあるオーケンが自分のあたらしい思想の世界を発見して、本来の人権と自由と平等を獲得せよと説いてドイツの青年をふるい立たせた。ああ、けれどもそれと同時にアダム・ミューラーは自然哲学の原理によって諸国の人民をうまやにいれて飼えと講義した。それと同時にゲレス氏は自然哲学の意見によって、中世をしたい、開化に反対する主義を説教した。つまり国家は一本の木である。したがって国家の有機的な組織にも幹と枝がなければならぬ。それらのものはすべて中世の国体の職階制度に見事な形で見いだされるというのである。それと同時にシュテフェンス氏は自然哲学の法則を発表した。その法則では農民と貴族との身分は次の点で区別される。つまり農民はたのしまないで働くように自然にきめられており、貴族は働かないでたのしむ資格があたえられているというのである。――いや、それどころか、ほんの数ヵ月まえにウェストファリアのある地方貴族の馬鹿者が、たしかにハクストハウゼンとかいう姓の男だったが、ある著述を発表したといわれている。その著書で、この馬鹿者はプロシャ王国の政府に要求した。自然哲学が宇宙という有機体で実証したあの精神と物質とのてってい的な平行状態を十分に参考にして、政治上の身分をもっときびしく分離せよと。自然界に火、風、水、土の四要素があるように、社会にもこれに似た四要素、つまり貴族、僧侶、市民、農民があるというのである。

 自然哲学の反動的一面にたいする不満 自然哲学からこうした悲しい馬鹿げた雑草が芽ばえ、それが伸びて、きわめて有害な花と咲くのを見ては、また一般にドイツの青年が形而上学的、抽象的な思索にふけって、時代の急務を忘れ、じっさい生活に役だたなくなるのを見ては、愛国者や自由主義者がこの自然哲学に不満を感ずるのは当然である。これらの愛国者や自由主義者のうちの数名の者は自然哲学に、ひま人の無用の空論としてすすんで死罪をいいわたした。

 来るべきドイツの政治革命への見通し われわれはこれらの不平家の云い分をまじめに反駁するようなばかなことはやらない。ドイツ哲学はひとつの重大な、人類全体の問題である。われわれがまずドイツ哲学を完成しておいてから、つづいてドイツの政治革命を成就するのが、ほめられるか咎められるかは、ごく後世の子孫がはじめて決定しうることだろう。私はこう思う。ドイツ人のような順序を重んずる国民はまず宗教改革からはじめなければならなかった。宗教改革ののちにはじめて哲学を研究しうるようになり、その哲学が完成したのちにはじめて政治革命にとりかかることができるのだと。この順序はまったく合理的だと思う。まえには哲学的な思索をした頭は、その後の革命には、いろんな都合で切りおとされてもいいわけだ。けれども、まえに起った革命で切りおとされた頭は、そののちに哲学的な思索をすることはけっしてできないからである。しかしドイツの共和党員諸君! 心ぱいしたもうな! カントの批判哲学、フィヒテの超験的観念論おまけに自然哲学が先行しているからといって、きたるべきドイツ革命がおだやかな、なまぬるい結果になるということはないんだから。これらの学説で展開してきた革命的勢力は、ほとばしり出て、全世界をびっくりさせ、感心させる日をまちうけている。その革命の日にカント哲学の信奉者らがあらわれてくるだろう。これらのカント主義者は現象界においても宗教をすこしもみとめず、剣と斧とでヨーロッパの人間生活の土台を無慈悲にほりくずし、過去の歴史の地盤を根こそぎにしてしまうだろう。またフィヒテ主義者は自分の意志を狂信しているので、おどかしても利得をもってさそっても、なだめられないだろう。これらのフィヒテ主義者は精神だけで生きていて、初期のキリスト教徒のように物質をあなどっているからである。初期のキリスト教徒も肉体の苦痛や肉体のたのしみなどでは抑制されなかった。しかし、これらの超験的観念論者は社会の変革にあたっては、初期のキリスト教徒よりもいっそう頑固なはずだ。というのは初期のキリスト教徒は天国の至福を得るために地上のくるしみをたえしのんだが、これらの超験的観念論者は地上の苦しみをもたんなるまぼろしと見て、手のつけられぬ思想のとりでにこもっているからである。けれどもカント主義者やフィヒテ主義者よりもいっそうおそろしいのは、自然哲学の信奉者である。これらの自然哲学者はドイツの政治革命に行動で参加し、みずからこの革命の破壊作業と一致しようとするだろう。カント主義者の心は伝統的な畏敬の念にうごかされないので、その手は力づよく、しっかりと打撃を加えるだろう。またフィヒテ主義者はどんな危険も現実には存在しないと信じているので、その危険に勇気にみちて立ちむかうだろう。ところが自然哲学者は次のようなわけでおそろしい。つまり、自然哲学者は自然の根本的な力とむすびつくし、古代ゲルマン民族の汎神論の魔力をよびよせることができるし、古代のドイツ人に見られるような、うちくだいたり勝つためではなくて、ただ戦わんがためにのみ戦う闘志をその胸にいだくからである。キリスト教はあのゲルマン民族のざんこくな闘志を多少はやわらげた。これこそキリスト教のたてたもっともりっぱな手柄であった。けれども、その闘志をうちくだいてしまうことはできなかった。だから、ゲルマン民族を馴らしていたお守りが、つまりキリスト教の十字架が、くだける日がくると、またもや古代の戦士のおたけびが、北ヨーロッパの詩人が歌ったり語ったりしている狂戦士ベルゼルカーの気ちがいじみた怒りの声がさわがしくひびきはじめる。あの十字架のお守りはくさってしまった。まもなくみじめにくだける日がくるだろう。すると石と化していた古代の神々がうずもれていた土砂のなかから立ちあがって、千年ものあいだにたまった埃を目からはらいおとすだろう。そしてついにゲルマン民族の嵐の神トールが大きな槌をもってとび出してきて、ゴシック式の大寺院をうちくだくだろう。そのときに叩いたりひびいたりする騒音をきかれたならば、おとなりの子のフランス人よ! 気をつけてくれ。われわれがうちのドイツで成しとげようとしている仕事に手を出さないでくれたまえ。手を出したら、つまらん目に会うぞ! その火をあおり立てたり、消そうとはしないでくれ。その火で指にやけどするかも知れんから。カント主義者、フィヒテ主義者、自然哲学者らに用心せよという私のこの忠告を、夢想家の忠告だとして笑うな! 思想界でおこった革命が現象の世界でもおこるだろうとまちうけている私を空想家だと云って笑うな! いなずまがかみなりに先だつように、思想は行動に先だってくる。もちろんドイツのかみなりはいかにもドイツ式で、さほどすばやくはなく、いくらかゆっくりとなりひびいてくる。けれども、きっとやってくる。君たちがいつか、これまでの世界史になかったようなものすごい騒音をきかれたならば、そのときこそドイツのかみなりがその目標についにたどりついたのだと思いたまえ。このさわぎがおこると、ドイツ帝国の紋章である鷲は空からおちて死ぬし、アフリカのごくとおくの砂漠にいる獅子はしっぽをまいて、その獅子王のほら穴へ這いこんでしまう。そののちにドイツで上演される芝居にくらべて見たら、フランスの革命は無邪気な牧歌としか思えないだろう。今のところではまだ、ずいぶん静かだ。ドイツでは二、三の人物が多少、活発な身振りをしている。しかし、それらの人物がほんものの大芝居をやる役者だと思ってはならぬ。これらの人物はひとのいない闘技場をはしりまわって、ほえあったり、かみつきあったりしている子犬だ。ついにはこの闘技場へ、生死をかけて戦う剣士の群れが到着する時が来る。

 来るべきドイツの政治革命にフランス人のとるべき態度 その時はきっと来る。半円形競技場の階段状の見物席にあつまる観衆のようにヨーロッパの諸国民はドイツのまわりにむれあつまって、その壮大な決闘を見物するだろう。フランス人の諸君よ、今から忠告しておくが、そのときにはしずかにしたまえ。けっして、拍手喝采などをしてはならぬ。そんなことをしようものなら、われわれドイツ人はえてして君らの真意を誤解して、ドイツ式の無作法で、いささか乱暴に「だまれ!」とどなりつけるかも知れないから。われわれはむかし卑屈な、不愉快な状態でいたときでも、時どき君らをうちまかすことができた。いわんや自由のよろこびに酔うておごりたかぶった気分になったときには、たやすく君らをうちまかすだろう。そうした気分になったときには、ずい分たいしたことができるというのは、君らもよく知っている。――しかし今では君らはそうした気分はなくしているんだ。とにかく注意したまえ。私は君らに好意をもっている。だから、きびしい真実をお話しよう。解放されたドイツは、クロアート人やコサック騎兵をふくめた神聖同盟そのものよりも、君らにはもっとおそろしいはずだ。というのは、まず第一に君たちフランス人はドイツ人に愛されていないのだ。君たちは大そうあいそがよくて、ドイツに来ているときには大そうほねおって、ドイツ人に、すくなくとも全ドイツ人のうちの上流のりっぱな半数の者に好かれようとしていた。だから、「君らはドイツ人に愛されていない」と云われても、さっぱりわけがわからんだろう。けれども、たとえドイツ人のうちのその半数の者が君らを愛しているとしても、その半数は武器をとる者ではない。だから、その半数の友情は君らにはほとんど役立たないのだ。ドイツ人が君らにどういうことを持ちだすかは私にも分らない。むかしあるときゲッチンゲンの酒場でアルサス・ロートリンゲンのうまれではないわかいドイツ人がこう云っている。「ナポリでフランス人に首をきられたコンラーディン・フォン・シュタウフェンのためにフランス人に仕返しをしてやるんだ!」コンラーディンのことなどは君らはとっくのむかしに忘れてしまったろう。けれども、ドイツ人は忘れるということはない。これでお分りだろう。われわれドイツ人は君らと喧嘩がしたくなったら、てきとうな喧嘩の種はいくらでもあるんだ。だから用心したまえとくれぐれも忠告しておく。ドイツではどんなことが起っても、プロシャ皇太子かヴィルト博士が主権をにぎっても、とにかく君らは武装して、武器を手にして、おちついて持ち場をかためていたまえ、私は君らに好意をもっている。だから君らの大臣がフランスの軍備を撤廃しようともくろんでいると近ごろ聞いたたきには、まったくおどろいちまった。

 知慧の女神は武装している 君たちフランス人は今ではローマン主義者だけれども、うまれつき古典主義者だ。だからギリシャ神話のオリンポス山のことはよく知っている。あの山で男女の神々がはだかのままで神のたべる酒や食物を酔いくらってたのしんでいるあいだにまじって、こうしたよろこびやたのしみのさなかにいながら、よろいを着、かぶとをかぶり、槍を手にしたひとりの女神を見かけるだろう。

 それこそ、知慧の女神である。


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