ディーツゲン・マルクス・エンゲルス『経済学・哲学草稿』>訳者解説

訳者解説


(一)テキストの成立事情と構成について

−p.293−

 一八四三年十月下旬、マルクスはパリに居を移し、パリ近郊サン・ジェルマンにA・ルーゲらと同居した。 以後、四五年二月初旬ブリュッセルへと移るまでの、いわゆる「パリ時代」に、マルクスは経済学の研究に着手し、それを精力的に進めるとともに、政治および国民経済学を批判する著書の準備をおこないつつあった。 その直接の成果とみなされるのが、九冊の経済学研究ノートと、ここに訳出した経済学と哲学とについての草稿とである。 断篇のかたちで保存されているこの草稿は四つに大別されるが、おそらく一つの意図のもとに統一的に書かれたものと推測される。 マルクス自身、序文のなかで語っているように、彼の意図は、法律、道徳、政治などの批判をそれぞれ独立のパンフレットのなかでおこない、そして最終的に、一つの特別の著作のなかで、ふたたび全体の連関や諸部分の関係をつけ、最後にヘーゲルによる素材の思弁的なとりあつかい方にたいする批判を加える、ということにあった。 現存している草稿は、この意図を実現するための第一歩として、国民経済学および国民経済のあり方を根本的に批判すると同時に、それとの連関においてヘーゲル弁証法と哲学とを批判しようとしたものと思われる。 マルクスは一八四五年二月一日、パリに滞在中のダルムシュタットの出版業者C・W・レスケと、『政治および国民経済学の批判』と題する二巻の著作を出版する契約を結んでいるが、おそらく彼は現存の草稿をこの著書の一部とする予定だったのであろう。 ただし政治批判の部分は保存されていない。 さらにマルクスは、一八四四年九月から十一月にかけてエンゲルスとの共著『神聖家族』を書いたが、そのさいに(その際に)、現存の草稿の一部分を用いていることが認められる。

 この草稿の全体がはじめて公開されたのは、一九三二年にモスクワのマルクス=エンゲルス研究所からアドラツキーの編集により出版された『マルクス=エンゲルス全集』第一部第三巻においてである。 そのさい(その際)この草稿は『経済学・哲学草稿』と題名をつけられ、個々の草稿の推定成立時期にもとづいて、第一から第三までの順序をつけられた。 ただし「序文」は一八四四年八月以後に、つまり第一、第二と、第三の大部分よりも後に書かれたものであるが、内容からいって先頭に置かれ、ヘーゲル弁証法と哲学について書かれた部分は、第三草稿のなかの三つの箇所に挿入されており、この草稿の経済学的な論述と同時に書かれたものであるが、「序文」によるとマルクスはこれを最後の章にするつもりであったと思われるので、まとめて最後に置かれた。 また第四草稿は、ヘーゲルの『精神現象学』の「絶対知」の章からの八ヶ条の抜き書きからなるノートなので、付録として収められた。 この配列は、凡例にあげた諸版のうち、クレーナー文庫版を除き、すべてに共通のものとなっている。

 ここで各草稿の状態を、MEGA 版の編集者の序言を参考としつつ紹介しておこう。

 第一草稿

(1) 九枚のフォリオ全紙、つまり三六ページの束からなり、マルクスによってローマ数字でページづけされている。 したがって第一草稿は<1>から<36>まであるわけであるが、実際に書かれているのは<27>までで、あとは白紙のまま残されている。

(2) 各ページは二本の縦線により三つの欄に分けられ、左欄には「労賃」、中欄には「資本の利潤」、右欄には「地代」という見出しの表題がつけられている。 マルクスは本文を書きだす前に、これらの表題をほとんどすべてのページにつけており、したがって彼は三つの主題につきほぼ同じ長さにわたり論ずるつもりであったことがわかる。 しかし実際は、「労賃」の欄は<15>まで、「資本の利潤」の欄は<16>まで、「地代」の欄は<21>まで書かれている。

(3) <22>からは三欄の書きわけと表題とは無視され、三欄にまたがって一つの内容をもつ論述がなされている。 その内容から〔疎外された労働〕と MEGA 版で表題をつけられたこの論述は、<27>まで続き、第一草稿はそこで終っている。

 第二草稿

(1) 全部で一枚のフォリオ全紙、つまり四ページ分しか残っていない。 <40>から<43>までのページづけがされている。

(2) <40>は文章の中途から始まっている。 したがって、前の部分が紛失してしまったことがわかる。 <43>の最後は覚え書のようになっており、直接この後に続く草稿はなかったと思われる。 したがって現存の草稿は、紛失してしまった一冊の終りの断片であると推定される。

(3) この現存の部分の内容から、MEGA 版では〔私有財産の関係〕という表題をつけられている。

 第三草稿

(1) 一七枚のフォリオ全紙、つまり六八ページ分の束からなる。 マルクスのページづけは<1>から始められているが、<22>と<25>とを抜かし、<43>に至っている。したがって実際に書かれているのは四一ページ分である。

(2) そのほか、明らかに後から縫いこまれたと思われる一枚のフォリオ全紙が含まれており、内容もことなる性質をもつので、それは一つの独立した草稿であると推定される。 したがってその四ページ分は第四草稿として独立させる。

(3) したがって、その残りの二三ページ分は白紙のままになっている。

(4) <1>の最初に「三六ページへの付論」と書いてあり、<3>には「三九ページへの付論」と書いてある。 しかし、それに対応する本文は保存されていない。 つまりこの草稿の初めの部分は、紛失してしまった本文への二つの付論からなる。 それらは MEGA 版において〔私有財産と労働〕〔私有財産と共産主義〕と表題をつけられている。

(5) 〔私有財産と共産主義〕の二つ目のパラグラフの最初に「同ページへの付論」と書かれ、その途中から箇条書きのかたちになっているが、その<6>にあたる部分(<1>の途中から<13>まで)、および〔欲求、生産、分業〕の途中二ヶ所(<17>の途中から<18>までと、<23>から<34>まで)にヘーゲルを批判した文章が書かれている。 MEGA 版ではこれら三つの文章はまとめて最後に置かれ、〔ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判〕と表題をつけられている。

(6) <39>から<40>には、内容からみて明らかに序文と思われる文章が書かれている。

(7) この序文に続いて<41>から<43>までは一つの独立した付論が書かれている。 MEGA 版では〔貨幣〕と表題をつけられている。

 第四草稿

(1) 前述のように第三草稿のなかに縫いこまれていた一枚のフォリオ全紙に書かれている。

(2) ヘーゲルの『精神現象学』からの八ヶ条の抜き書きからなる。 ただし、省略やマルクス自身の加筆した箇所がある。


 凡例にあげた諸版についてみると、アドラツキー版(MEGA 版)は前述のような配列で、マルクスによるページづけを本文中に挿入し、また校定のさいの覚え書を詳しく脚注に示している。 ディーツ版では凡例に示したように、経済学の部分と哲学の部分とが区分され別々に収められている。 配列は MEGA 版と同じであるが、第四草稿は省略され、マルクスのページづけ、校定覚え書も省略されている。 そのかわり、MEGA 版の解読をあらためた少数の箇所がある。 その主要なものは本訳書の訳注にあげてある。 ティアー版は MEGA 版にもとづき、第一草稿の〔疎外された労働〕以外の部分と第四草稿とを省略している。 クレーナー文庫版は、配列も MEGA 版と異なり、解読も大きく異なる。 まず序文を先頭に置き、つぎに第三草稿をヘーゲル批判の部分も草稿のままにして配し、その後に第二草稿を置き、最後に第四草稿を配している。 したがって第一草稿は全部収められていない。 ミリガンの英訳本は MEGA 版を底本とし、第四草稿を省略している。 訳者による用語ノートや脚注が加えられている。 ボットモアの英訳本も MEGA 版を底本とし、第一草稿の〔疎外された労働〕以外の部分と第四草稿とを省略している。


(二)マルクスの思想形成における『草稿』の位置について

−p.298, l.14−

 一九三二年に『草稿』が公開されて以来、そしてとくに第二次世界大戦後に、「疎外」ないし「自己疎外」の問題をめぐって、『草稿』はさまざまに論ぜられてきた。 また、『草稿』がマルクスの思想的展開のなかで果した役割についても、さまざまに論ぜられてきた。 それは往々にして論争をよびおこし、その論争は時として論争のための論争に堕することもあった。 すでに邦訳があるにもかかわらず、より正確に読みとれるかたちで本訳書を提供したいと考えた理由も、そこにある。 したがってここでは、論争的な姿勢から離れて、できる限り事実に即して、『草稿』の占めている位置を素描することにとどめたい。

 マルクスは、パリに居を移す直前の一八四三年九月から翌月にかけ、「ユダヤ人問題によせて」という論文を、『独仏年誌』 のために書いたが、この論文はユダヤ人問題についてのB・バウアーの二著作を批判しつつ、政治的解放と人間的解放との関係につき論じたものであった。 マルクスはここで、国家を宗教から政治的に解放しても、市民社会における現実的な人間が宗教から解放されたことにはならないことを明らかにし、一般に、近代の政治的革命は、全国民を――生まれや身分や教養や職業の区別なく――主権の平等の参与者とし、国家の見地からはそれらの区別を廃止することになったが、だからといって、それらの要素が実際に消滅したのではなく、かえって市民社会のなかで何ものにも妨げられず私有財産や教養や職業として勝手気ままに活動するようになったと論じている。 そこでは近代国家における抽象的普遍としての国家と、具体的特殊としての市民社会との分裂状態が鋭く指摘されているが、この見解は、一八四三年三月に読んだL・フォイエルバッハの「哲学改革のための暫定的提言」を直接の手びきとして、ヘーゲルの『法の哲学』を批判的に研究することにより獲得したものであった(三月から八月にかけ、マルクスは『法の哲学』第三部第三章「国家」の二六一節から三一三節までの各節の詳しい批判的評注を書いている)。

 「ユダヤ人問題によせて」でマルクスの到達した結論は、人間の政治的解放でなく人間的解放がなされなければならないということにあった。 それは具体的には、市民社会における現実的な個人が、国家へと抽象的なかたちで奪われている普遍性を奪回して、「類的存在」となること、政治的革命ではなく市民社会そのものの変革によって、ユダヤ教の基礎であると同時に市民社会の原理である「利己主義」から、私有財産の勝手な運動から、現実的人間を解放することを意味した。したがってパリに移ったマルクスの当面の課題は、この人間解放の実際の担い手、実現手段を具体的に追究することにあったといえる。

 パリに移って間もなく書いた「ヘーゲル法哲学批判、序説」では、マルクスは問題をドイツの現実の上におき、いっそう具体的に考察している。 まずマルクスは、「人間の自己疎外の神聖な姿が仮面をはがされた以上、神聖でない姿での自己疎外の仮面をはぐことが、歴史に奉仕する哲学の当面の課題である」とし、フォイエルバッハがキリスト教神学とヘーゲル哲学とを相手にして宗教・哲学の領域において遂行した仕事を、法や政治という現実的生活と直結する領域のなかで遂行するという自分の目標をはっきり示すのである。 そして目をドイツの現状へと向け、政治的、社会的に「歴史の水準以下」にあるドイツ、「旧制度の完成」でしかないドイツを確認する。 ドイツが近代諸国民と比肩しうるものは、法哲学と国家哲学だけなのである。 このようなドイツ、すなわち、一切の種類の隷属を打破しないかぎり、どんな種類の隷属も打破できないほど、がんじがらめになっているドイツでは、部分的な、たんに政治的な革命は空想におわらざるをえず、徹底的な、全面的な社会的革命こそ必須のものとなる。 この革命の担い手は、社会のあらゆる隷属と欠陥とを体現し、ドイツの国家制度に全面的に対立しているプロレタリアートにこそ求められるべきであり、哲学は彼らのための精神的武器とならなければならない。 こうしてマルクスは「ドイツ人の解放人間の解放である。 この解放の頭脳哲学であり、それの心臓プロレタリアートである」と結論するのである。

 いまやマルクスは、自らの進むべき方向をはっきり自覚するにいたった。 しかし、プロレタリアートによる徹底的社会革命という方向へとさらに前進するためには、マルクスは理論的領域において果さねばならない幾つかの課題をになっていた。 そしてこの幾つかの課題の解決のためにマルクスが全精力を注いだのが、ほかならぬ「パリ時代」だったのである。

 まず第一の課題は、「市民社会の解剖学」である経済学を研究することであった。 すでにみたように、「ユダヤ人問題によせて」のなかで、マルクスははっきりと、国家という抽象的、形式的場面においてではなく、現実の人間の活動場面である市民社会そのもののなかで、市民社会の弊害を克服する方法を追求していた。 そこにヘーゲルの『法の哲学』との決定的な相違がみられるのであるが、このマルクスが追求する場面である市民社会は、国家の政治的な制約から独立しており、経済的活動を中心として動くものであった。 「ヘーゲル法哲学批判、序説」において革命の担い手とされたプロレタリアートも、市民社会の経済的仕組、私有財産の運動によって生みだされた階層にほかならなかったのである。 したがってマルクスは、市民社会の構造と運動とを正確にとらえるため、経済学の研究を進めなければならなかったのである。 一八四四年二月に刊行された『独仏年誌』に掲載されたF・エンゲルスの「国民経済学批判大綱」から直接の刺激をうけ、マルクスは国民経済学の本格的な研究を開始したのであった。 そしてイギリスとフランスの経済学の成果を摂取するとともに、その基本的立場の限界を明らかにし、さらに国民経済学そのもののあり方へと批判の目を向けるのである。

 第二の課題は、フォイエルバッハの哲学的立場を発展させ、それを批判的にのり越えることであった。 すでにみたように、四三年三月にフォイエルバッハの「哲学改革のための暫定的提言」を読んだマルクスは、激しい共感をもってこの革命的見解を迎えた。 「人間の自己疎外」の克服というテーマは、その後この『草稿』にいたるまで一貫してマルクスの脳裏を離れていない。 本訳書の「序文」および「ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判」にみられるように、マルクスはフォイエルバッハに最大の賛辞を呈している。 しかし同時に、フォイエルバッハとマルクスとのあいだには、一種のずれがあったことを、見のがしてはならないだろう。 すでにマルクスは、四三年三月十三日付のルーゲあての手紙のなかで、「フォイエルバッハの短句集(アフォリズム)(「哲学改革のための暫定的提言」を指している)は、彼があまりにも多く自然を、あまりにも少なく政治を引きあいにだす点についてだけ、私にはただしくないように思われます」(MEGA, Erste, Abt., Bd. 1, Zweiter Halbband, S. 308)と述べ、フォイエルバッハとの関心方向の相違を明らかにしている。

 フォイエルバッハの関心は、終始一貫して宗教と哲学との領域に向けられていた。 彼が一八三十九年に『ハレ年報』 Hallische Jahbücher に発表した「ヘーゲル哲学批判のために」 Zur Kritik der Hegelschen Philosophie は、「感性的な個別的存在の実在性は、われわれにとって、われわれのをもって確証された真理である」(Sämtliche Werke, Bd. 11, S. 185)という立場からヘーゲル哲学の抽象性を鋭く批判したものであったが、このヘーゲル哲学批判は、『キリスト教の本質』(一八四一年刊)におけるキリスト教神学への批判とともに、またそれを媒介として、より徹底的、具体的に展開されたのであった。 「宗教の内容対象とが徹頭徹尾人間的なものであること、神学の秘密は人間学であり、神の本質の秘密は人間の本質であること」(S. W., Bd. VI, S. 325)を証明しようとする『キリスト教の本質』を貫いていたものは、「人間の自己疎外」という考え方であった。 これは後述するように、ヘーゲル哲学の核心をなしていた「外化」「疎外」という考え方を、感性的・現実的人間の立場に立ってフォイエルバッハ独特の考え方へと発展させたものであった。 『キリスト教の本質』は、現実的人間が、もともと自分のものである「類的本質」を、疎遠な対象的存在(人格)と見なし、それによって支配されるとき、キリスト教の神が現われると説き、この事実を隠蔽(いんぺい)する神学に大胆な批判を加えたのであるが、この批判の矢は、そのままヘーゲルへと向けられるのである。 すでにこの著書のなかでも、「こうして神の人格性とは、人間が自分自身の本質の規定と表象とを、他の本質――人間以外の本質――の規定と表象にするための手段である。 神の人格性はそれ自身、人間の外化され対象化された人格性にほかならない。 人間が神についてもっている意識神の自己意識とするヘーゲルの思弁的教説も、このような自己疎外の過程にもとづいている」(S. W., Bd. VI, S. 273)と述べ、ヘーゲル批判の姿勢をみせているが、「哲学改革のための暫定的提言」では、ヘーゲル哲学の疎外構造が全面的に究明され、批判の俎上(そじょう)にのせられるのである。

 「抽象するとは、自然の本質自然の外部へ、人間の本質人間の外部へ、思惟の本質思惟作用の外部へ定立することである。 ヘーゲル哲学は、その全体系をこれらの抽象作用にもとづけることによって、人間を自己自身から疎外した。 … ヘーゲル哲学には、直接の統一直接の確実性直接の真理が欠けている」(S. W., Bd. II, S. 227)。 人間が自分の思惟作用や活動を対象化し、人間にとって疎遠な存在と化したこの抽象の産物を、絶対的な実体であり主体であると見なすとき、ヘーゲルのいう「精神」「理念」が現われるのだ、とフォイエルバッハは論じ、感性によって直接に確実なもの、科学的に実証されるものを基礎とする新しい哲学をみずからの立場として主張したのである。

 このようなフォイエルバッハの関心は、宗教と哲学へと集中していたから、彼が「人間の自己疎外」というとき、それは思惟の上での、すなわち意識の内部での「疎外」を意味した。 それゆえ疎外の克服は、人間の外部に人間から独立していると思われているもの――思惟の産物である神や精神――が、じつはもともと人間のものであリ、人間の類的本質や諸活動の対象化であると認識すること、つまり意識の変革(宗教や哲学の改革)によって果されることになる。 したがってまた、人間が歴史的・社会的存在として把握されず、どこでも通用する普遍的本質をもつ人間、それゆえ自然との結びつきによって規定されるような人間(人間的自然――人間性)が基礎に据えられることになったのである。

 それに対し、マルクスの関心は、政治や経済と直接に結びついて市民社会のなかに現実的に活動している人間へと向けられていた。 したがって、フォイエルバッハによる「ヘーゲル哲学の逆転」、つまり感性的・現実的な人間の立場(「真の唯物論)に双手(もろて)をあげて賛成し、「人間の自己疎外」という考え方をみずからのものとしながらも、フォイエルバッハの立場に満足することはできなかった。 さしあたり、フォイエルバッハの原理を、人間の現実的活動の場面へ適用することが課題となるが、この適用はいやおうなしにその原理そのものの未完成・欠陥への反省をうながすことになる。 現実的活動は歴史的社会のなかにのみ存在する。 したがって、もはやどこにでも通用する自然的人間のみを基礎にして、現実的社会の疎外構造を批判することはできない。また、この場合、「人間の自己疎外」は、歴史的社会における人間活動(とくに労働)の自己疎外を意味し、その原因と結果とを社会的な現実、つまり社会組織とか労働生産物としてもっていることになる。 それゆえこの疎外の克服は、意識の変革だけではなく、社会的現実そのものの変革、すなわち革命によって、はじめて実現されるのである。

 この『草稿』には、こうしたフォイエルバッハとの原理的な相違を、はっきり論理化しようとするマルクスの意図が現われている。 フォイエルバッハの原理を社会的領域へと適用しつつあった者として、M・ヘスがいたが、彼の立場がフォイエルバッハの枠内を脱せず、存在を意識の内部で主体的なものするのにとどまったのに対し、マルクスは、一方ではフォイエルバッハの現実的人間の立場からヘーゲル哲学の抽象性と転倒とを批判し、それを克服しようとするとともに、他方ではヘーゲル弁証法の積極的な側面を生かして、そこからフォイエルバッハの「人間」の非歴史性、非活動性、非社会性を克服しようとするのである。 この試みは『草稿』ではまだ十分ととのったかたちには整理されておらず、『神聖家族』から『ドイッチュ・イデオロギー』にいたって、はじめて明確なかたちに結晶するのであるが、それだけにまた、この『草稿』では、生ま生ましい思索のあとがみられ、種々の方向へと思索をのばす可能性が示されているのである。

 第三の課題は、ヘーゲルの弁証法と哲学とに根本的に対決することであった。 前述したように、マルクスはすでに『法の哲学』をめぐってヘーゲルへの批判的立場を築きつつあったが、まだヘーゲル哲学一般にわたり、またその方法的核心である弁証法について、十分な批判的検討をおこなっていなかった。 そこでマルクスは、フォイエルバッハの現実的人間の立場を手がかりとして、「ヘーゲル哲学の真の誕生地でありその秘密である」『精神現象学』を批判の対象に据え、その積極的契機をすくいあげ摂取しつつ、ヘーゲル哲学への根本的批判を展開しようとするのである。

 「外化」および「疎外」という考え方は、ヘーゲル哲学において重要な役割を演じているが、とくに『精神現象学』では思想の中核をなすものとして現われている。 G・ルカーチが『若きヘーゲル』 Der Junge Hegel のなかで指摘しているように、もともとこの語は alienation を独訳したものであり、イギリス経済学では商品の「譲渡」という意味で用いられ、社会契約論では、国家成立の契約にあたって成員がその自然権を共同体に「譲渡」することを意味した(上掲書六八二ページ)。 J・G・フィヒテもこの語を用いたことがあるが、この語が内容豊かな概念として思想の中核に定着させられたのは、ヘーゲルにおいてにほかならない。 ヘーゲルによれば、絶対的理念・精神は、みずからの絶対性を現実のなかで確証するために、自己を外化して現実的な世界のなかに姿を現わす。 この世界は有限な対立的世界であるから、この姿は理念・精神と疎遠なものとなり、またこの世界の他のものと相互に疎遠に対立することになる。 たとえば主観と客観との対立が現われるのである。 しかしこの対立はふたたび克服され、絶対的な統一である理念・精神へと還帰する。 つまり理念・精神は、分裂を通じて自己展開するとともに、ふたたび自己へと還帰するのであり、「外化」および「疎外」は、その過程のなかに現われる一段階なのである。 そして「疎外」は「外化」されたものが、みずからの母体にたいし離反し反抗するというニュアンスをもつことになる。

 このように、ヘーゲルはこの「外化」および「疎外」の運動を描いたが、その場合、この運動の主体は、あくまでも抽象な精神であり、理念であった。 フォイエルバッハの批判はそこに向けられたのであり、彼はこの運動の主体を現実的人間に求めたのである。 しかしマルクスは、本書に詳しく述べているように、ヘーゲルのこの考え方は――疎外された形態においてであるが――労働の本質的なあり方を、そして歴史のあり方を、しっかり把握していると考え、その積極的契機を生かすことによって、フォイエルバッハの立場をのり越えようとしているのである。

 以上の三つの課題を、マルクスはこの『草稿』では完全に果しているとはいえない。 しかし、彼のその後の思想的発展を支える基本線は、ここにはっきり姿を現わしている。 その意味では、この『草稿』は彼の思想的発展にとって画期的な意義をもつといえるであろう。


(三)邦訳について

−p.308, l.7−

 ふり返ると、この邦訳には長い年月がかかったものである。 田中吉六氏の第一次訳稿を受取ったのはすでに四年前のことである。 それは原文に忠実な訳ではあったが、日本語として読みづらく、理解しにくいところもあったので、私が検討し、加筆することになった。 そして私の怠慢や留学・病気といった外的事情のために、また原文を読みとること自体の難しさのために、ついに四年もの年月を費やすことになったのである。 田中氏の訳稿に私が加筆したものを、今度は田中氏が見て、疑問や注意を提示して下さった。 私は氏のそうした疑問や注意を十分考慮して、私なりの決定を下した。 したがって誤りや問題点があるとすれば、最終的責任は私にある。 また、田中氏は訳注を最低限度にとどめておられたが、この『草稿』の内容からいって、詳しい訳注が必要と思われたので、いくぶん煩瑣(はんさ)になるのはやむをえないと考え、詳しい訳注をつけることにした。

 本文を検討するさいも、訳注をつけるさいも、英訳のほか、すでに刊行された邦訳から教えられるところが多かった。 とくに藤野 渉氏の訳書(国民文庫版)は、すでに本訳書の初校が出てから見ることができたのであるが、私の見解と一致する点が多く、教えられるところも多かった。ここであらためて感謝の意を表したい。

 訳語についてここで幾つかのお断りをしておこう。

 (1) まず本訳書の表題を『経済学・哲学草稿』とした理由は、これまでの「手稿」という訳語が普通あまり用いられない言葉であること(『広辞苑』にはない)、また「手稿」はニュアンスとして「覚え書」に近い語感があること(「序文」にもみられるようにマルクスに出版の意図があれば、たんに「覚え書」というより、「草稿」、つまり「原稿のした書き」という性質のものともいえる)である。

 (2) Eigentum, Privateigentum は「財産」「私有財産」と訳した。 〔私有財産と労働〕の最初のところでマルクス自身述べているように、国民経済学はすでに Privateigentum を人間の外にある状態とか対象的なものとしか考えるようなことをせず、主体的なものとしてとらえているのであるから、「所有」「私的所有」と訳した方がよいとも考えられる。 しかし、重金主義者や重商主義者が Privateigentum を対象的なものとしか考えない、といったマルクスの主張を理解しやすくするためにも、かえって「私有財産」と訳した方がよいと思う。 ただ、「私有財産」と訳してあっても、「私的所有」という性格を同時にもつというように読んでいただきたい。 ただし「土地所有」という訳語は用いてある。

 (3) Wessen の訳語は難しい。 ミリガンの英訳書についてのノートにも指摘してあるが、この後には大別して三つの意味がある。 第一に「本質」と訳すべき意味で、或るものをそのものたらしめている性質、つまり副次的、偶然的に付着している属性でなく、そのものの核心をなしている特質という意味である。 第二に、「存在」と訳すべき意味で、「本質」がいくぶんなりとも抽象的な性質をもつのに対して、はっきり現実のなかに存在しているものを指す。 したがって「もの」とか「あり方」と訳すべき場合も生じてくる。 Gattungswessen という場合も、本質ではあっても抽象的なものではないので、「類的存在」という訳語を採用することにした。 第三に、Zeitungswessen, Postwessen といった用例にみられるように、事物を複合体として、さまざまの連関の総体としてとらえる場合も、この語を用いる。 「本質」と訳したときでも、こうした総体的意味が含まれていることがあるから、注意して読んでいただきたい。

 (4) Aneignung は原則として「獲得」と訳したが、疎外を克服する運動または過程として重要な用語である。 疎外され、疎遠なものとして対立している対象をふたたび自分のものとすることであり、したがって〔わがものとする〕獲得というように補訳した箇所もある。

 (5) Entgegenständlichung は「対象剥離」、das im Denken sich überbietende Denken を「思惟において自分の力以上のことをしている思惟」と訳した。 その理由は〔ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判〕の訳注(24)と(34)とに述べておいた。

 (6) 藤野 渉氏は訳書の「訳者あとがき」で Schacher, verschachern および sondieren につき疑問を提出されているが、それらについては、「地代」の訳注(35)、〔欲求、生産、分業〕の訳注(34)、および〔ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判〕の訳注(13)で、私なりの解答をだしておいた。

 本書を訳するにあたっての目標は、できるだけ正確に読みとれる邦訳ということにあった。 しかしその目標にどこまで近づきえたか心もとない。 読者の理解を少しでも深めることができれば、訳者二人の心からの喜びである。

 本書の出版にさいし、いろいろお骨折りをいただいた岩波書店の栗田賢三氏と河辺岸三氏に、あらためてここにお礼申し上げる。

   一九六四年一月三十日

城 塚  登   


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