ディーツゲン・マルクス・エンゲルス『経済学・哲学草稿』>第三草稿〔五〕

ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判

−p.188−

 (6)(1) おそらくここは、ヘーゲル弁証法一般について、またとくに現象学と論理学とにおけるヘーゲル弁証法の詳しい記述について、そして最後に最近の批判的運動の〔ヘーゲル弁証法にたいする〕関係について、理解をもち、よりどころをもつために、いくらかの示唆をあたえるべき場所であろう。

 最近のドイツ人の批判は古代世界の内容に没頭しており、資料にとらわれた展開をしているのであるが、それはまったく強引なものだったので、そのため批判の方法については完全に無批判な態度をとることになり、われわれはヘーゲル弁証法にいったいどのような関わりをもつのかという部分的には形式的であっても実際には本質的な問題を、まったく意識していないという事態が生じた。ヘーゲル哲学一般、またとりわけ弁証法にたいする最近の批判の関係が意識されていないということは、まったくひどいもので、シュトラウス(2)ブルーノーバウアーのような批判家すら、まだ完全にヘーゲル論理学の枠にとらわれているほどである。シュトラウスは徹頭徹尾とらわれており、バウアーは彼の『共観福音史家』(3)(この著書で彼はシュトラウスに反対して「抽象的自然」という実体のかわりに抽象的人間たる「自己意識」をおいている(4))において、さらにまた『あばかれたキリスト教』(5)においてさえも、少なくとも傾向としてはまだ完全にヘーゲル論理学の枠にとらわれている。たとえば、『あばかれたキリスト教』では、こう語られている、「〔フランス唯物論者にあっては〕まるで自己意識は、それが世界を措定することによって区別を措定したり、自分の産出するもののなかで自己自身を産出したりする――というのは、自己意識はその産出されたものと自分自身との区別をふたたび止揚するからであり、またもっぱら産出することにおいてのみ、つまり運動においてのみ、自己自身であるのだから――まるで自己意識が、〔自己自身である〕この運動のなかで、自分の目的をもっていないかのようである(6)、」云々。あるいはまた「彼ら(フランスの唯物論者たち)は、宇宙の運動が自己意識の運動として、はじめて実際に対自的になったのであり、それ自身との統一へと到達したのだということを、まだ見とることができなかった(7)。」 これらの表現は、言葉づかいの上でさえもヘーゲルの見解との差異を少しも示していないし、むしろそれを一語一語くりかえしている(8)

−p.189, l.13− <12>

 批判の作業(バウアー『共観福音史家』)をおこなっているあいだに、ヘーゲル弁証法にたいする関係についての自覚がいかに希薄であったか、ということは、バウアーが彼の『自由の大義』(9)のなかで、「それでは論理学はどうするのか」というグルッペ氏(10)の口やかましい質問を、将来の批判家にきけ、といってはねつけていることで証明される。

 しかもいまや、フォイエルバッハが『アネクドータ』誌上の彼の「提言」(11)において、また詳しくは『将来の哲学』(12)において、古い弁証法と哲学とを萌芽的にくつがえしてしまった後でも、――それとは反対に、あの〔バウアーらの〕批判が、この仕事を遂行するすべを知らなかったのに、それにもかかわらずこの仕事が完遂されてしまったものと見なし、純粋な、決定的な、絶対的な、一点の疑いもない批判であるとふれまわった後でも、またその批判が、唯心論的な高慢さで、歴史の全運動を批判自身とその他の世間(この世間は批判に対立するものとして「大衆」という範疇にはいる)との関係に還元し、そして一切の独断的な諸対立を、批判自身の賢明と世間の愚鈍との対立、批判的キリストと人類との対立という一つの独断的対立へと「ひとからげ」に解消してしまった後でも、さらに批判が毎日毎時のように自分自身の優越性を大衆の知恵のなさをだしにして証明した後でも、そして最後に批判が、亡びつつある全人類が批判の前に群らがり集まり、批判によってグループごとに探査され、それぞれの特殊な群に貧困証明書〔testimonium paupertatis〕が交付される日が近づいているぞ、といったぐあいに、批判的な最後の審判を予告した後でも(13)、また批判は、世間を超越して高尚な孤独のうちに王座を占め、ただ時々その皮肉たっぷりな唇からオリュンポスの神々のような哄笑をひびかせるばかりなのであるが、世間や人間的感情にたいする自分のそうした超絶性を批判が活字に印刷させた後でも(14)、――こういうあらゆる滑稽なふるまいを、批判という形式のもとで死にかけている観念論(青年ヘーゲル派)がした後でも、この観念論は、いまこそ自分の生みの親であるヘーゲル弁証法と批判的に対決しなければならぬという予感をただの一度も表明しなかったし、それどころか、フォイエルバッハ的な弁証法にたいして批判的な態度をもつと自称することさえ知らなかった。自分自身にたいする完全な無批判的態度である。

 フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法にたいして真剣な批判的な態度をとって、この領域で真の発見をした唯一の人であり、一般的にいって古い哲学を真に克服した人である。この業績の偉大さと、フォイエルバッハがそれを世に問うた際のもの静かな素朴さとは、〔あの批判家たちの〕これと正反対の態度にたいして驚くべき対照をなしている。

 フォイエルバッハの偉業とは、つぎのようなものである。(1) 哲学は、思想のなかにもたらされ思惟によって遂行された宗教にほかならず、したがって、人間的本質の疎外のもう一つの形式、現存様式として〔宗教と〕同様に断罪されるべきだ、ということを証明したこと。

 (2) 真の唯物論実在的な科学とを基礎づけたこと。しかもこれをフォイエルバッハは「人間の人間にたいする」社会的な関係を同様に理論の根本原理とすることによっておこなったのである。

 (3) 彼は、絶対的に肯定的なものであると主張されている否定の否定にたいして、自分自身の上にやすらぎ、積極的に自分自身を根拠とする肯定的なものを対置することによって、〔上記の基礎づけを〕おこなったのである(15)

 フォイエルバッハはヘーゲルの弁証法をつぎのように説明する――(またそれによって、肯定的なものからの、感性的な=確実なものからの出発を基礎づけている)――

 ヘーゲルは疎外態(論理的には、無限なもの、抽象的な一般者)から、すなわち実体から(16)、絶対的な固定した抽象物から出発する。――すなわち、平易に表現すれば、彼は宗教と神学とから出発する。

 第二に、ヘーゲルは無限なものを止揚し、現実的なもの、感性的なもの、実在的なもの、有限なもの、特殊なものを措定する(哲学、すなわち〔それは〕宗教と神学との止揚)。

 第三に、ヘーゲルは肯定的なものをふたたび止揚し、抽象物、無限なものを再興する。宗教と神学の再興

 したがって、フォイエルバッハは、否定の否定を、もっぱら哲学の自己矛盾としてのみ把握している。すなわち、神学(超越者など)を否定した後でそれを肯定する哲学、したがって、自分自身に対立して肯定している哲学としてのみ、把握しているのだ。

 否定の否定のうちに存している肯定〔Position〕、あるいは自己肯定と自己確定は、まだ自己自身に確信のない肯定、それゆえ自分との対立物をになっている肯定、自分自身を疑っており、それゆえ証明を必要とする肯定であり、したがって自分の現存によって自分自身を証明してもいないし承認されもしない肯定であると解されている。それだから、そうした肯定にたいして、感性的に確実な肯定、自分自身のうえに基礎をもつ肯定が、直接にまた無媒介に対置されるのである(17)

−p.193, l.1− <13>

 だがヘーゲルは、否定の否定を、――そのうちに存している肯定的な関係からいえば、真実の唯一の肯定的なものとしてとらえ、――そのうちに存している否定的な関係からいえば、一切の存在の唯一の真なる行為および自己確証行為としてとらえたのであるが、そうすることによって彼は、たんに抽象的論理的思弁的な表現にすぎなかったが、歴史の運動にたいする表現を見つけだしたのであった。だがこの歴史はまだ、一つの前提された主体としての人間の現実的な歴史ではなく、ただやっと人間の産出行為発生史であるにすぎない。われわれは、この抽象的形式を解明するとともに、ヘーゲルにおけるこの〔歴史の〕運動が、最近の批判とは対照的に、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』における同じ過程にたいしてもっている相違を、というよりむしろ、ヘーゲルにおいてはまだ無批判的であったこの運動の批判的な形態を、解明することにしよう。――

 ヘーゲルの体系を簡単に見よう。われわれは、ヘーゲル哲学の真の誕生地であるヘーゲルの『現象学』から始めなければならない(18)。――

   現象学

 (A) 自己意識

I  意識

   (1) 感覚的確信、または「このもの」と「思いこみ

   (2) 知覚、または諸属性をもっている物と錯覚

   (3) 力と悟性、現実と超感覚的世界

II  自己意識

   (1) 自己意識の自立性と非自立性、主人と奴隷

   (2) 自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸な意識

III 理性、理性の確信と理性の真理

   (1) 観察する理性 自然と自己意識との観察

   (2) 理性的自己意識の自己自身による実現。快楽と必然性。心の法則と自負の妄想。徳と世俗

   (3) 即自的・対自的に実在的である個人。精神的な動物の国と欺瞞、または事そのもの。立法的理性。査法的理性。

 (B) 精神

I  真の精神、人倫

II  自己から疎外された精神、教養

III 自己自身を確信している精神、道徳性

 (C) 宗教、自然宗教芸術宗教啓示宗教

 (D) 絶対知

 ヘーゲルの『エンチュクロペディー(19)が論理学から、すなわち純粋で思弁的な思想から始まり、絶対知をもって、すなわち自己意識的な自己自身を把握する哲学的な精神をもって、いいかえれば絶対的な、すなわち超人間的な抽象的精神をもって終っているように、『エンチュクロペディー』全体は哲学的精神の(21)拡張されたもの、その自己対象化にほかならない。そして哲学的精神は、自己疎外の内部で思惟的に、すなわち抽象的に自己を把握している疎外された世界精神にほかならない。論理学――精神の貨幣、人間と自然との思弁的な価値、思想価値――は、あらゆる現実的規定性に対してまったく無頓着となったところの、それゆえ非現実的な、それら〔人間と自然と〕の本質であり――外化された思惟、したがって自然と現実的人間とを捨象している思惟、つまり抽象的思惟である。――この抽象的思惟の外在性……自然、それはこの抽象的思惟にたいしてあるような自然である。自然は、抽象的思惟にとって外的であり、この思惟の自己喪失である。そして哲学的精神は、自然をやはり外的に、抽象的な思想〔思惟の産物〕として、だが外化された抽象的思惟としてとらえるのである。――最後に精神、この自分自身の誕生地に帰ってくる思惟、それは、はじめのうちはまだ、人間学的な、現象学的な、心理学的な、人倫的な、芸術的−宗教的な精神としての自分を、自己自身であるとみなしているが、それも最後に、いまや絶対的なすなわち抽象的な精神のうちに絶対知としての自分を見いだし、自己関係し、その意識的な、自己にふさわしいあり方を確保するまでのことである。というのは、精神の現実的なあり方は抽象態だからである。

 ヘーゲルにおける二重の誤り。

 第一の誤りは、ヘーゲル哲学の誕生地としての現象学においてもっとも明瞭に現われている。ヘーゲルがたとえば富とか国家権力などを、人間的本質において疎外された存在としてとらえる場合、これはいつでもただそれらの思想形式のなかでおこなわれるだけなのである。……それらは思想のなかの存在〔Gedankenwesen〕である。――したがって、〔疎外といっても、それは〕たんに純粋な、つまり抽象的な哲学的思惟の疎外にすぎない。だから、運動の全体は絶対知をもって終るのである。これらの諸対象がそれから疎外されているもの、また諸対象が現実性をもつと自負してそれに対抗しているもの、それはまさしく抽象的思惟なのである。哲学者は自分を――したがってそれ自身疎外された人間の抽象的形態であるものを――疎外された世界の尺度としてあてがう。したがって、外化の歴史全体と外在態の奪回全体とは、抽象的すなわち絶対的な思惟(22)の、論理的で思弁的な思惟の産出史にほかならない。したがって、こうした外化とか外在態の止揚とかの本来の要点となっている疎外とは、即自対自との対立、意識自己意識との対立、客観主観との対立である。すなわち、抽象的思惟と感性的現実性ないし現実的感性との、思想そのものの内部での対立なのである。他のすべての諸対立とその諸対立の運動とは、この唯一の要点である対立の仮象外殻公開的な形態にすぎない。そしてこの唯一の要点である対立が、他の世俗的な諸対立に意味を与えているのである(23)。人間的本質が、みずからを非人間的に、自分自身との対立において対象化するということではなくて、人間的本質が、抽象的思惟からの区分において、またそれとの対立において、みずからを対象化するということが、措定された。そして止揚されるべき疎外の本質と見なされるのである。

−p.197, l.2− <18>

 したがって、諸対象に、しかも疎遠な諸対象になった人間の本質諸力を獲得するということは、第一に、意識のなかで純粋思惟のなかで、つまり抽象のなかでそれらを獲得するということにすぎず、これらの諸対象を思想および思想の運動として獲得するということにすぎない。それゆえ、すでに現象学のうちには――どこまでも否定的で批判的なその見かけにもかかわらず、また実際にそのなかにふくまれていて、しばしば後の発展をはるかに先取りしているような批判にもかかわらず、――すでに後期のヘーゲルの著作の批判的でない実証主義や同様に批判的でない観念論が――眼前にある経験のこうした哲学的な解消と再興が――潜在的に存しており、現に萌芽として、潜勢力として、一つの秘密として存在しているのである。第二に、対象的世界を人間のために返還請求すること――たとえば、感性的意識は、けっして抽象的に感性的な意識ではなく、人間的に感性的な意識だということの認識とか、また宗教や富その他は、人間的な対象化の、外へ製作物として産出された人間的な本質諸力の、疎外された現実にすぎないのであって、それゆえ真の人間的な現実にいたるにすぎないのだということの認識――このような獲得、あるいはこのような過程への洞察は、ヘーゲルにおいては、感性宗教、国家権力等々が精神的な存在であるというかたちで現われる。――なぜなら、ただ精神だけが人間のの本質であり、そして精神の真の形態は、思惟する精神、論理的で思弁的な精神だからである。自然の人間的性質(Menschlichkeit)、および歴史によって産みだされた自然すなわち人間の諸生産物の人間的性質は、それらが抽象的精神の産物であり、したがってその限りでは精神的な諸契機であり思想のなかの存在である、ということのなかに現われる。それゆえ現象学は、覆われた、自分自身にもまだはっきりしていない、神秘的な批判である。しかし、現象学が人間の疎外を――人間がただ精神という姿で現われているにすぎないとはいえ、――しっかりとつかんでいる限り、現象学のなかには批判のあらゆる契機が隠されており、しかもすでにしばしばヘーゲルの立場をはるかに超えた仕方で準備されまた仕上げられて横たわっている。「不幸な意識」とか「誠実な意識」とか「高貴な意識と下賎な意識」の闘争等々、これらの個々の節は、宗教、国家、市民生活などのような諸領域全体の批判的な要素を――とはいってもまだ疎外された形態においてではあるが――含んでいる。こうして、存在対象が思想のなかの存在としてあるように、主体はつねに意識ないし自己意識である。あるいはむしろ、対象はただ抽象的意識としてのみ現われ、人間はただ自己意識としてのみ現われる。それゆえ登場してくる疎外のいろいろ異なった形姿は、ただ意識や自己意識のいろいろな形姿であるにすぎない。即自的には抽象的な意識――対象は抽象的意識としてとらえられる――が自己意識の一区別契機にすぎないように、運動の成果としても、自己意識と意識との同一性、すなわち絶対知が登場してくる。すなわち、もはや外へではなく、やはりただ自分自身のなかだけへと進んでゆく抽象的意識の運動が、成果として登場するのである。いいかえれば、純粋思想の弁証法がその成果である。

−p.199, l.1− <23>

 ヘーゲルの『現象学』とその最終的成果とにおいて――運動し産出する原理としての否定性の弁証法において――偉大なるものは、なんといっても、ヘーゲルが人間の自己産出をひとつの過程としてとらえ、対象化〔Vergegenständlichung〕を対象剥離〔Entgegenständlichung〕(24)として、外化として、およびこの外化の止揚としてとらえているということ、こうして彼が労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的であるゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているということである。類的存在としての自己にたいする人間の現実的な活動的態度、あるいは一つの現実的な類的存在としての、すなわち人間的存在としての実を示す彼の活動は、ただ人間が実際に彼のあらゆる類的諸力を創りだし――このことはまた人間たちの働きの総体によってのみ、歴史の結果としてのみ可能なのであるが――この類的諸力にたいして対象にたいするようにふるまうことによってのみ可能なのである。だがこのことはさしあたり、またもや疎外の形態においてのみ可能なのであるが。

 さてわれわれはつぎに、ヘーゲルの一面性と限界とを、現象学の結びの章、絶対知――現象学の総括された精神、思弁的弁証法にたいする現象学の関係をふくむとともに、これら両者と両者の相互関係とについてのヘーゲルの意識をふくんでいる章――に即して立ちいって論ずることにしよう。

 なおあらかじめ、ヘーゲルは近代国民経済学の立場に立っている、ということだけは示しておこう。ヘーゲルは、労働を人間の本質として、自己を確証しつつある人間の本質としてとらえる。彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない。労働は、人間外化の内部で、つまり外化された人間として、対自的になること〔Fürsichwerden〕である。ヘーゲルがそれだけを知り承認している労働というものは、抽象的に精神的な労働である。こうして一般に哲学の本質をなしているもの、自己を知りつつある人間の外化、あるいは自己を思惟しつつある外化された学問(25)、こうしたものをヘーゲルは労働の本質としてとらえている。だから彼は、先行の哲学に対抗してそれの個々の契機を総括し、こうして自分の哲学を哲学そのものdie Philosophie〕として述べることができるのである。他の哲学者たちがおこなったこと――彼らが自然と人間生活との個々の契機を自己意識の諸契機として、とらえていること――これをヘーゲルは〔彼自身の〕哲学の行為(26)をもとにして知っている。だからこそ彼の学問は絶対的なのである。

 さて本題に移ることにしよう。

 絶対知。すなわち現象学の最終章

 主要なことは、意識の対象自己意識以外のなにものでもないということ、あるいは、対象とはただ対象化された自己意識、対象としての自己意識にすぎないということである。(人間の措定=自己意識)。

 それゆえ、意識の対象を克服することが肝要となる。対象性そのものは、人間的本質に、自己意識に相応していない疎外された人間の関係であるとみなされる。したがって、疎外という規定のもとで疎遠なものとして生みだされた人間の対象的本質をふたたび獲得するということは、たんに疎外を止揚するという意味だけではなく、対象性を止揚するという意味をも持っている。したがって人間は、対象的ではない唯心論的な存在と見なされるのである。

 ところでヘーゲルは、意識の対象を克服してゆく運動を、つぎのように書きしるしている。

 対象自己〔das Selbst〕へと還帰しつつあるものとして現われる(これはヘーゲルによると、あの運動についての一面的な――したがって一面しかとらえない――把握である)だけではない。人間は自己と等置される。しかしこの自己とは、抽象的にとらえられた、抽象によって生みだされた人間にすぎない。人間は自己的〔selbstisch〕である。彼の目、彼の耳等々は自己的である。人間のいかなる本質諸力も人間において自己性〔die Selbstigkeit〕という特性をもっている。しかし、だからといって、自己意識が目や耳や本質諸力をもっている、と言ったらまったくの誤りである。むしろ自己意識は、人間的自然の、つまり人間的な目等々の一つの質なのであって、人間的自然が自己意識の一つの質なのではない。

−p.201, l.17− <24>

 それだけ独立に抽象化され固定化された自己とは、抽象的なエゴイストとしての人間であり、思惟という純粋な抽象にまで昇華されたエゴイズムである。(この点には後でふたたび戻ってくる。)

 ヘーゲルにあっては、人間的本質人間は、自己意識に等しいと見なされる。したがって、人間的本質の一切の疎外は自己意識の疎外にほかならないのである。自己意識の疎外は、人間的本質の現実的な疎外の表現、その現実的な疎外が知識と思惟のうちに自分を写しだしている表現とはみなされていない。それどころか、実在的なものとして現われる現実的疎外は、そのもっとも奥深くにかくされた――そして哲学によってはじめて明るみにだされる――本質からすれば、現実的な人間的本質つまり自己意識の疎外の現象にほかならぬとされる。それゆえに上述のことを観念的に把握する学問は、現象学と名づけられるのである。したがって、疎外された対象的本質を自分のものとしつつある自己意識であるにすぎない。したがって、対象の自己への還帰が対象の再獲得であるということになる。

 意識が対象を克服するということは、あらゆる面にわたって表現されている。すなわち、

 (1) 対象そのものが意識にとって消え失せつつあるものとして示されていること。

 (2) 自己意識の外化が物性を措定するものであること。

 (3) この外化は否定的な意味をもつばかりではなく、肯定的な意味をももっていること。

 (4) その外化はこういう意味をわれわれにとって(27)、あるいは即自的にもつだけではなく、自己意識自身にとってももっていること。

 (5) 対象の否定的なもの、あるいは対象の自己止揚が、自己意識にとって肯定的な意味をもつのは、いいかえれば自己意識が対象のこのような虚無性を知るのは、自己意識が自己自身を外化することによってである。というのは、この外化において、自己意識は自己を対象として措定するからである。あるいは、対自存在〔対自有〕としての分離しえない統一のために、対象を自己自身として措定するからである。

 (6) 他方、ここには同時に、もう一つつぎのような契機がふくまれている。すなわち、自己意識がこのような外化と対象性とをまた同じように止揚し、自己のうちに取りもどしてしまっているという契機、したがって、自己意識は、それの他在そのもののうちにあって自己のもとにある、という契機である。

 (7) このようなものが意識の運動であって、それゆえにこの意識はその諸契機の総体性〔Totalität〕である。

 (8) 意識はまた同様に対象にたいしても、その諸規定の総体性にしたがって関係し、そして対象はそれらの規定の各々にしたがって、そのように〔総体的に〕とらえたはずである。対象の諸規定のこのような総体性が、対象を即自的には精神的な存在とならせるものである。そしてこのことが意識にとって真実において生じてくるのは、対象のこれらの規定のおのおのを自己〔Das Selbst〕として把握することによって、あるいは対象の諸規定にたいして、いま述べたような精神的態度をとることによってである(28)

 (1) について。対象そのものが意識にたいして消え失せてゆくものとして示されるということは、上に延べた対象の自己への還帰である。

 (2) について。自己意識の外化が物性を措定する。人間=自己意識であるから、人間の外化された対象的本質あるいは物性――(人間にとって対象であるところのもの、そして対象は、本当は人間にたいしてのみあり、人間にとって本質的な対象たるものであり、したがって人間の対象的本質たるものである。ところで現実的な人間が、それゆえまた自然が――人間は人間的な自然である――そのままで主体にされるのではなく、ただ人間の抽象態、自己意識だけが主体にされるのであるから、物性はただ外化された自己意識でしかありえないわけである)は、外化された自己意識と等しいことになる。そして物性はこうした外化によって措定されるのである。対象的すなわち物質的な本質諸力を装備され付与された生きた自然的な存在が、その本質の現実的な自然的な本質諸力をもっているとともに、それの自己外化が現実的な対象的世界を、ただし外在性という形式のもとでの、したがって自分の本質に属さないところの強大な対象的世界を措定することでもある、というのはまったく当然のことである。そこには理解できないものや謎めいたものは何ひとつない。むしろその反対であったら不思議であろう。しかし、自己意識は、すなわちその外化は、ただその物性だけを、つまりそれ自身抽象的でしかない物を、抽象化による物を措定できるだけであって、現実的な物はけっして措定することができない、ということは同様に明白である。さらにまた明らかなことは、それゆえ物性は、あくまでも自己意識にたいして自立的なものでも本質的なものでもなく、一つのたんなる被造物であり、自己意識によって措定されたものであるということ、そして措定されたものは、自己自身を確証してみせるのではなく、ただ措定するという行為を確証してみせるにすぎず、しかもこの行為が一瞬のあいだは自分のエネルギーを生産物として固定し、仮象としてそれに一つの自立的な現実的なものという役割を――ただしほんの一瞬のあいだにすぎないが――与えるということである。

−p.205, l.5− <26>

 (29)しっかりした、よく仕上がった大地の上に立ち、あらゆる自然力を呼吸している、現実的で肉体をもった人間が、彼の現実的で対象的な本質諸力を自分の外化を通じて疎遠な諸対象として措定するとしても、この措定が主体であるわけではない。この措定が対象的な本質諸力のもつ主体性であり、したがってこれら本質諸力の活動もまた一つの対象的なものであらざるをえない。対象的な本質は対象的に作用する。そしてもしそれの本質諸規定のうちに対象的なものが存しないとすれば、それは対象的には作用しないであろう。対象的な本質は、諸対象によって措定されているからこそ、その生まれからすれば自然であるからこそ、諸対象を創造し措定するのである。したがって、対象的な本質は、措定するという行為においてその〔純粋活動〕から対象創造へとはいりこむのではなくて、その対象的生産物がもっぱらそれの対象的な活動を、一つの対象的な自然的本質の活動としてのそれの活動を、確証するのである。

 ここにおいて、貫徹された自然主義あるいは人間主義が、観念論とも唯物論とも異なっていること、また同時にわれわれは、〔このような〕自然主義だけが世界史の行為を概念的に把握する能力をもつということも見いだすのである。

 (30)《人間は直接的には自然存在である。自然存在として、しかも生きている自然存在として、人間は一方では自然的な諸力を、生命諸力をそなえており、一つの活動的な自然存在である。これらの力は、人間のなかに諸々の素質、能力として、衝動として実存している。他方では、人間は自然的な人間的な感性的な本質として、動物や植物がそうであるように、一つの受苦している〔leidend〕、制約をうけ制限されている本質である。すなわち、人間の衝動の諸対象は、彼の外部に、彼から独立している諸対象として実存している。にもかかわらず、これらの対象は、人間の欲求の対象であって、彼の本質諸力が活動し自己を確証するためには欠くことのできない本質的な諸対象である。人間が肉体的で、自然力のある、生きた、現実的で感性的で対象的な存在であるということは、人間が現実的な感性的な諸対象を、自分の本質の対象として、自分の生命発現の対象としてもっているということ、あるいは、人間がただ現実的な感性的な諸対象によってのみ自分の生命を発展できるということを意味するのである。対象的、自然的、感性的であるということと、自分の外部に対象、自然、感性をもつということ、あるいは第三者にたいしてみずからが対象、自然、感性であるということは、同一のことである。》 飢えは自然的な欲求である。したがって、それを満足させ鎮めるためには、自分の外部にある自然、自分の外部にある対象を必要とする。飢えは、肉体の外にあって肉体の保全と本質発現のために不可欠である対象を求める、肉体の対象的な欲求である。太陽は植物の対象であり、植物には不可欠の、植物の生命を保証する対象である。同様にまた植物は、太陽のもつ生命をよびさます力の発現、太陽の対象的な本質力の発現として、太陽の対象なのである。

 自分の外部にその自然をもたない存在は、なんら自然的な存在ではなく、自然の存在に関与しない。自分の外部にいかなる対象をももたない存在は、けっして対象的な存在ではない。それ自身が第三者にとって対象ではない存在は、いかなる存在をも自分の対象としてもたない。すなわち、対象的にふるまわない。それの有〔Sein〕は、けっして対象的なものではないのである。

−p.207, l.8− <27>

 非対象的な存在とは一つの非存在である。

 自身が対象でもなく、また対象をもってもいない存在を措定してみるがよい。このような存在は、まず第一に、唯一の存在であろう。それの外部にはいかなる存在も実存しないであろう。それはただ独りそれだけで実存することであろう。なぜなら、私の外部に諸対象があるならば、私が独りでないならば、たちまち私は、私の外部にある対象とは別の一つのもの別の一つの現実、すなわち、それの対象である。それゆえ、他の存在の対象ではない存在というものは、いかなる対象的存在も実存していないということを前もって想定しているのである。私が対象を持つようになるやいなや、この対象は私を対象としてもつようになる。しかし、非対象的な存在とは、非現実的な、非感性的な、思惟されただけの、つまり想像されただけの存在であり、抽象化による存在である。感性的であるということ、すなわち現実的であるということは、感覚の対象であること、感性的な対象であることであり、したがって自分の外部に感性的な諸対象をもつこと、自分の感性の諸対象をもつことである。感性的であるということは、受苦的であるということである。

 それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔Leiden〕を感受する存在であるから、一つの情熱的〔leidenschaftich〕存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力を傾ける人間の本質力である。

 (31)《しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自分をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。したがって、人間的な諸対象は、直接的にあたえられたままの自然的諸対象ではないし、人間の感覚は、それが直接にあるがままで、つまり対象的にあるがままで、人間的感性、人間的対象性であるのでもない。自然は――客体的にも――主体的にも、直接に人間的本質に適合するように存在してはいない。》 そして、あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかし、この歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである(32)。歴史は人間の真の自然史である。――(これについてはあとでまた触れることにする。)

 第三に、物性のこうした措定そのものさえ一つの仮象にすぎず、純粋活動の本質と矛盾する行為なのであるから、この〔措定という〕行為はまたふたたび止揚されねばならず、物性は否認されねばならないのである。

 (33)(3)、(4)、(5)、(6) について。(3) 意識のこうした外化は否定的な意味をもつばかりでなく、肯定的な意味をももっている。そして (4) この肯定的な意味を、われわれにとって、あるいは即自的にもつばかりでなく、それに対しても、すなわち意識そのものに対してももっている。(5) 対象の否定的なもの、あるいは対象の自己止揚が、意識にとって肯定的な意味をもつのは、いいかえれば意識が対象のこのような虚無性を知るのは、意識が自己自身を外化することによってである。というのは、この外化において、意識は自己を対象として知り、あるいは対自存在としての分離しえない統一のゆえに、対象を自己自身として知るからである。(6) 他方、ここには同時に別の契機、すなわち、意識がこうした外化と対象性とをまた同じように止揚し、自己のうちに取りもどしてしまっているという契機、したがって意識がそれの他在そのもののうちにあって自己のもとにあるという契機が存しているのである。

 われわれはすでに見た。疎外された対象的本質をわがものとする獲得、あるいは疎外――それはどうでもよいような疎遠性から現実的な敵対的疎外にまで進まざるをえないのだが――の規定のもとでの対象性の止揚は、ヘーゲルにとっては、同時に、あるいはむしろ主として、対象性を止揚するという意味をもっている。というのは、自己意識にとって疎外における障害となるものは、対象の特定の性質ではなくて、その対象的な性質だからである。だから対象は、否定的なもの、自己自身を止揚しつつあるもの、虚無性なのである。対象のこの虚無性は、意識にとって否定的な意味をもつばかりではなく、肯定的な意味をももっている。というのは、対象のあのような虚無性こそ、対象そのものの非対象性の、抽象の自己確証だからである。意識はこの虚無性もしくは対象的本質をみずからの自己外化として知っているから、また意識は、この虚無性がみずからの自己外化によってのみあるということを知っているから、意識自身にとって対象の虚無性は肯定的な意味をもつのである…。

 意識が存在しているあり方、そして或るものが意識に対して存在しているあり方は、知識である。知識は意識の唯一の行為である。だから、或るものは、意識がこの或るものを知る限りにおいて、意識に対して生成するのだ。知ることが意識の唯一の対象的なふるまいなのである。――いまや意識は、対象の虚無性を、つまり対象が意識から区別されていないということを、意識に対する対象の非存在を知っているが――なにによってそれを知っているかというと、意識が対象をみずからの自己外化として知ることによってである。すなわち、意識が自己を――対象としての意識を――知ることによってである。なぜなら、対象とは対象の仮象に、ごまかしの幻影にすぎないが、しかし対象はその本質に従えば、自己に自己自身を対置させ、したがって虚無性つまり知識のほかには何らの対象性をもたない或るものを、自己に対置させている知識自身にほかならない、ということになるからである。いいかえれば、知識は、それが一つの対象に関係することによって、自己の外部にあるにすぎず、自己を外化しているにすぎないのだということ、また知識自身がただ対象として自己に現象しているのだということ、あるいは対象として知識に現象しているものが知識自身にすぎないのだということを、知識は知るのである。

 他方、ここには同時に別の契機、すなわち意識がこうした外化と対象性とを同じように止揚し、自己のうちに取りもどしてしまっているという契機、したがって意識がそれの他在そのもののうちにあって自己のもとにあるという契機が存する、とヘーゲルはいう。

 こうした説明のうちに、思弁のあらゆる幻想が集約されているのを、われわれは見いだす。

 第一に、意識、自己意識はそれの他在そのもののうちにあって自己のもとにある。だから、――いいかえれば、ここでわれわれがヘーゲル的な抽象を度外視し、自己意識の代りに人間の自己意識をおくならば――それはその他在そのもののうちにあって自己のもとにあるわけである。そこにはなによりもまず、意識――知識としての意識――思惟としての思惟が、直接に意識自身の他者であり、感性、現実性、生命であると詐称していることが含まれている。――それは思惟において自分の力以上のことをしている思惟(フォイエルバッハ)である(34)。たんなる意識としての意識が、疎外された対象性にではなく、対象性そのものにみずからの障害をもっているかぎり、このような側面がここに含まれるのである(35)

 第二に、ここにはつぎのことが存している。すなわち自己意識をもつ人間は、精神的世界を――あるいは彼の世界の精神的な一般的現存を――自己外化として認識し止揚していたのであるが、その限りにおいてなお彼は、この世界をこの外化された形姿でふたたび確認し、自分の真の現存だとし、この世界を再建し、それの他在そのもののうちにあって自己のもとにあると称するということであり、したがってたとえば宗教を止揚した後に、宗教を自己外化の一産物として認識した後で、しかもなお宗教としての宗教のうちに自己が確証されているのを見いだすということである。ここにヘーゲルのいつわりの実証主義の、あるいは彼の見かけだけの批判主義の根源があるのだ。これは、フォイエルバッハが宗教ないし神学の措定、否認、再興と名づけたものである(36)が――だが、これはもっと一般的に理解されるべきである。したがって理性は、非理性としての非理性において自己のもとにあるわけだ。法や政治などのなかで外化された生活を営んでいることを認識した人間は、こうした外化された生活そのものにおいて、彼の真の人間的生活を営むことになる。したがって、自己自身と矛盾しながらの、知識とも対象の本質とも矛盾しながらの自己肯定、自己確証が、真の知識であり、生活であるというわけだ。

 したがって、ヘーゲルが宗教や国家等々に妥協していることについては、もはやこれ以上少しも語る必要はない。というのは、こうした作りごとは彼が進歩〔的であるかによそおうため〕の作りごとだからである。

−p.212, l.17− <29>

 もし私が宗教を外化された人間的な自己意識であると知るならば、したがってそのとき私は宗教としての宗教において私の自己意識が確証されているのではなく、私の外化された自己意識がそこで確証されているのだということを知るのである。したがってその場合私は、自己自身につまり自分の本質に属している私の自己意識が、宗教においてではなく、むしろ破棄され止揚された宗教において確証されているのだということを知るのである。

 それだから、ヘーゲルにおいては、否定の否定は、まさに仮象本質を否定することによる真の本質の確証ではなくて、仮象本質、(37)または自己から疎外された本質を、それの否認において確証することである。すなわちこの仮象本質を、人間の外に住みそして人間から独立している対象的本質としては否認し、それを主体へと転化することである。

 それゆえ、一種独特の役割を演ずるのは、否認と保存すなわち肯定とがそこで結合されているところの止揚ということである。

 こうしてたとえば、ヘーゲルの法哲学では、止揚された私権道徳に等しく、止揚された道徳は家族に等しく、止揚された道徳は家族に等しく、止揚された家族は市民社会に等しく、止揚された市民社会は国家に等しく、止揚された国家は世界史に等しいとされる(38)現実においては、私権、道徳、家族、市民社会、国家等々は、あいかわらず存続している。ただそれらは諸契機になったにすぎない。すなわち、孤立しては通用しない、相互に解消しあったり産出しあったりするような、人間の諸々の現実存在と存在様式になったにすぎない、つまり運動の諸契機なのだ。

 (39)それらのものの現実的な存在のうちに、それらのもののこうした運動する本質はかくされている。その本質は、思惟において、哲学において、はじめて明るみに、啓示にもたらされるというわけである。そしてそれゆえに、私の真の宗教的現存は、私の宗教哲学的な現存であり、私の真の政治的現存は、私の法哲学的な現存であり、私の真の自然的現存は、私の自然哲学的な現存であり、私の真の芸術的現存は、私の芸術哲学的な現存であり、私の真の人間的現存は、私の哲学的な現存であるということになる。同様に、宗教、国家、自然、芸術の真の現実存在は、宗教哲学、自然哲学、国家哲学、芸術哲学なのである。だがもし宗教哲学等々だけが私にとって宗教〔等々〕の真の現存だとすれば、私もまた宗教哲学者としてのみ、真に宗教的なのだ、ということになり、こうして私は、現実的な宗教心と現実に宗教的な人間とを否認することになる。しかし同時に私は、一方ではそれら〔宗教、国家等々〕を、私自身の現存の内部で、あるいは私がそれらに対置した疎遠な現存〔たとえば宗教哲学的現存等々〕の内部で確認する。なぜなら、この疎遠な現存は、ただそれらのものの哲学的表現であるにすぎないから。他方では私は、それらのもの特有の始源的な形姿において確認する。なぜなら、それらは私にとって、それらのもの自身の真の現存の、すなわち私の哲学的な現存の、たんに見せかけだけの他在として、比喩として、感性的な外被のもとにかくされた形姿と見なされるからである。

 同様に、止揚されたに等しく、止揚された量は質量に等しく、止揚された質量は本質に等しく、止揚された本質は現象に等しく、止揚された現象は現実性に等しく、止揚された現実性は概念に等しく、止揚された概念は客観性に等しく、止揚された客観性は絶対的理念に等しく、止揚された絶対的理念は自然に等しく、止揚された自然は主観的精神に等しく、止揚された主観的精神は人倫的な客観的精神に等しく、止揚された人倫的精神は芸術に等しく、止揚された芸術は宗教に等しく、止揚された宗教は絶対知に等しい(40)

 一面では、こうした止揚は思惟された存在の止揚であり、したがって思惟された私有財産が道徳の思想のなかへと止揚されるのである。しかも、思惟は直接に自分自身の他者、感性的な現実であると空想し、したがって思惟にとって自分の行動もまた感性的で現実的な行動と思われるから、こうした思惟のうえでの止揚なるものは、その対象を現実のなかにほうっておきながら、対象を現実的に克服してしまったと信じこむ。他面では、対象はいまや思惟にとって思想契機となってしまっているのであるから、思惟にとって対象は、その現実性においてもまた、思惟自身の、自己意識の、抽象の、自己確証であると思われるのである。

−p.215, l.11− <30>

 それゆえ、一つの側面からすれば、ヘーゲルが哲学へと止揚する現存なるものは、現実的な宗教、国家、自然ではなくて、すでに知識の対象となった宗教そのもの、すなわち教義学であリ、おなじく法律学国家学自然学なのである。したがって一つの側面からいえば、ヘーゲルは現実的な存在と対立するとともに、直観的な非哲学的な学問とも、またはこの存在の非哲学的な概念とも対立しているわけだ。だからこそヘーゲルは、それらのよく通用する諸概念に反対するのである。

 他面では、宗教的等々の人間は、ヘーゲルにおいてその最後の確証を見いだすことができる。

 ところで、いまやヘーゲルの弁証法の積極的な諸契機――措定の規定の内部での――をとらえねばならない。

 (a) 外在態を自己のうちに取りもどす対象的な運動としての止揚。――(41)《これは対象的本質をその疎外の止揚によって獲得するということについての、疎外の内部で表現された洞察であり、人間の現実的な対象化への疎外された洞察である。すなわち、人間が対象的世界の疎外された規定を破棄し、対象的世界をその疎外された現存において止揚することによって、現実的にその対象的本質を獲得するということへの疎外された洞察である。それはちょうど、神の止揚としての無神論が理論的人間主義の生成であり、私有財産の止揚としての共産主義が、人間の財産としての現実的な人間的生活の返還請求であり、このことが実践的人間主義の生成であるのと同様である。いいかえれば、無神論は宗教の止揚によって、共産主義は私有財産の止揚によって、自己を媒介した人間主義である。この媒介の止揚――とはいってもこの媒介はひとつの必然的な前提なのであるが――によってはじめて、積極的に自己自身からはじめる人間主義、積極的人間主義が生成するのである。》

 しかし、無神論、共産主義は、人間によってつくりだされた対象的世界の、すなわち対象性をもつように生みだされた人間の本質諸力の、逃避でも抽象でも喪失でもけっしてなく、不自然で未発達な素朴へさと逆もどりする貧困でもけっしてないのだ。それどころか、それらは人間の本質の、しかもひとつの現実的なものとしての人間の本質の、現実的な生成であり、現実的に人間のために生成した表現である。

 したがってヘーゲルは、自己自身に関係させられた否定の肯定的な意味を――またしても疎外された仕方においてではあるが――とらえることによって、人間の自己疎外、本質外化、対象剥離、現実性剥奪を自己獲得、本質変化、対象化、現実化としてとらえている。(42)《要するに、ヘーゲルは――抽象の内部で――労働を人間の自己産出行為としてとらえ、疎遠な本質としての自己にたいするふるまいを、一つの疎遠な本質としての人間の活動を、生成しつつある類的意識および類的生命としてとらえている。》

 (b) しかしヘーゲルにおいては――すでに述べた転倒を度外視しても、あるいはむしろその転倒の帰結として――こうした〔人間の自己産出〕行為は、まず第一に、ただ形式的な行為としてのみ現われる。というのは、それが抽象的な行為として現われるからであり、人間的本質そのものが抽象的な思惟的な本質、自己意識としてしか見なされないからである。あるいは、

 第二に、把握が形式的抽象的であるから、そのために外化の止揚が外化の破綻となる。いいかえれば、ヘーゲルにとっては、自己外化および自己疎外としての自己産出自己対象化のあの運動は絶対的な、それゆえに究極的な、人間的生命発現、自己自身を目的とし、そして自己のうちに安んじており、自分の本質に到達した人間的生命発現なのである。

−p.217, l.16− <31>

 それだから弁証法としてのその抽象的形式におけるこの運動が、真に人間的な生命と見なされる。しかもなお、それは人間的な生命の一つの抽象、一つの疎外なのであるから、それは神的な過程、したがって人間の神的な過程――人間から区別されている抽象的な、純粋な、絶対的な人間の本質が、みずから通過する一過程と見なされるのである。

 第三に、この過程は一つの担い手、一つの主体をもたねばならない。しかし主体は成果としてはじめて生成してくる。それゆえ、こうした成果、すなわち自己を絶対的な自己意識として知っている主体は、であり、絶対精神であり、自己を知りつつ実証する理念であることになる。現実的人間と現実的自然とは、ただたんに、この秘められた非現実的人間とこの非現実的自然との述語、象徴となるにすぎない。したがって、主語と述語とは、互いに絶対的に転倒した関係、すなわち神秘的な主体客体の関係をもつことになる。いいかえれば客体を越えて包みこんでいる主体性を、一つの過程としての絶対的な主体を、すなわち自己を外化しそして外在態から自己へと還帰するが、しかしそのさい同時に外在態を自己のうちに取りもどす主体としての絶対的な主体を、しかもまたそういう過程としての主体をもつのである。自己のなかでの純粋な休みなき循環である。

 第一に〔あげた〕人間の自己産出行為あるいは自己対象化行為の形式的で抽象的な把握〔について〕。

 人間の疎外された対象、すなわち人間の疎外された本質の現実性は、――ヘーゲルは人間を自己意識と等しいとしているのであるから――意識以外のなにものでもなく、ただ疎外の思想にすぎず、疎外の抽象的な、それゆえ無内容で非現実的な表現、つまり否定にすぎない。したがって、外在態の止揚ということも同様に、あの無内容な抽象の抽象的で無内容な止揚、つまり否定の否定でしかない。こうして、内容豊かな、生き生きとした、感性的な、具体的な自己対象化の活動は、自己対象化のたんなる抽象、つまり絶対的否定性となる。すなわち、さらにまたこのようなものとして固定されて、一つの自立的な活動、活動そのものと考えられるような抽象となるのである。こうしたいわゆる否定性は、あの現実的な生きた行為の抽象的で無内容な形式にほかならないのであるから、その否定性の内容もまたたんに形式的な、あらゆる内容を抽象することによって生みだされた内容であるにすぎない。したがって、存在するものは、普遍的で抽象的な、またどのような内容にも所属し、それゆえまたあらゆる内容に対して没交渉であるとともに、まさしくそれゆえどのような内容に対してもあてはまるような抽象諸形式、思惟諸形式、論理的諸範疇であり、それらは現実的な精神と現実的な自然とから切り放されているのである。(われわれは絶対的否定性の論理的内容についてはあとでさらに展開しよう。)

 (43)ヘーゲルがここで――彼の思弁的な論理学のなかで――なしとげた積極的なものは、自然と精神とに対して自立している特定の諸概念、普遍的な固定した思惟諸形式が、人間的本質の、したがってまた人間的思惟の、一般的疎外の必然的な成果であるということ、またそれゆえヘーゲルがそれらを抽象過程の諸契機として叙述し総括したということである。たとえば、止揚された有は本質であり、止揚された本質は概念であり、止揚された概念は……絶対的理念である。しかし、それでは絶対的理念とはいったいなんであろうか。絶対的理念は、もしそれがふたたび抽象行為全部をはじめから閲歴しようとせず、そして諸抽象態の総体、あるいは自己を把握しつつある抽象であることに満足しようとしないならば、ふたたび自己自身を止揚する。しかし、自己を抽象として把握する抽象は、自己を無として知る。それは自己を、すなわち抽象を放棄しなければならない。こうしてそれは、まさに自分とは反対のものである一つの実在のもとに、自然のもとに到達することになる。そういうわけで、論理学全体は、抽象的思惟がそれだけでは無であること、自然がはじめて或るなにものかであること、の証明である。

−p.220, l.8− <32>

 絶対的理念、抽象的理念、それは「それの自己との統一から見れば直観である」(ヘーゲルの『エンチュクロペディー』第三版、二二二ページ)し、またそれは「自己自身の絶対的真理のなかで、それの特殊性の契機、あるいは最初の規定作用および他在の契機を、直接的理念を、自己の反照として、自己を自然として、自己のうちから自由に解放しよう決心する(44)(同上)のであるが、ヘーゲル派の人たちにとって恐ろしい頭痛の種となった、このように奇妙で風変わりなふるまいをするこの理念全体は、全くのところ抽象すなわち抽象的思想家以外のなにものでもない。そしてこの抽象〔抽象的思想家〕は、経験によって利口になり、自分の真理について啓発されて、さまざまの――虚偽の、そして自身なお抽象的な――諸条件のもとでこう決心する。すなわち自己を放棄し、そしてその自己のもとにあることや非存在やその普遍性やその無規定性の代りに、それの他在や特殊なものや規定されたものを措定しよう。そしてそれがたんに抽象として、思想物として自己のうちにかくしていた自然を、自己から自由に解放しよう、すなわち抽象をみすて去って、自分から自由になった自然をいちど見物しよう、と決心するのである。直接に直観となる抽象的理念とは、まったくのところ自己を放棄して直観となろうと決心する抽象的思惟にほかならない。論理学の自然哲学へのこうした移行全体は、抽象から直観への移行にほかならない。そうした移行は、抽象的思想家にとっては実行困難で、そのためそうした者によってはきわめて冒険的に描かれるのであるが。哲学者を抽象的思惟から直観へと駆りたてる神秘的な感情は倦怠であり、内容への憧憬である(45)

 (自己自身から疎外された人間は、また彼の本質から、すなわち自然的で人間的な本質から疎外された思想家でもある。それゆえ彼の諸々の思想は、自然と人間との外部に住んでいる固定した精霊どもである。ヘーゲルは彼の論理学のなかでこれらの固定した精霊をすべて集めて閉じこめ、それらの各精霊をまず否定として、すなわち人間的思惟の外在態としてとらえ、それから否定の否定として、すなわちこうした外在態の止揚として、人間的思惟の現実的な発現としてとらえたのである。しかし、それ自身なお疎外のうちにとらわれているので、――この否定の否定は、一方ではその疎外態において精霊どもを再興することであり、他方ではこれらの固定した精霊の真の現存としての究極の行為で満足すること、すなわち、そのような現存としての外在態のなかで自己を自己に関係させること〔das Sichaufsichbeziehen〕である。《すなわちヘーゲルは、あの固定した抽象の代りに抽象の自己内循環行為をおく。それによって彼はまず、そのもともとの日付からいえば個々の哲学に所属するこれらすべての怪しげな概念の誕生地を証明し、それらを総括し、特定の抽象態の代りに、それらの概念の全範囲を網羅しつくした抽象を批判の対象として創りだすという功績をあげたのである。)(なぜヘーゲルが思惟を主体から切りはなしたかということについてはあとで見ることにする。しかし、人間が存在しないとすれば、彼の本質の発現もまた人間的ではありえないこと、したがって思惟もまた、社会や世界や自然のなかで目、耳等々をそなえて生きている人間的で自然的な主体としての人間の、本質発現としてはとらえられなかったこと、こうしたことはすでにここでも明らかである。)》 さらにヘーゲルにあっては、この抽象が自己自身を把握し、自己自身について果てしない倦怠を感じているかぎりでは、目もなく耳もなくなにもかもない抽象的な思惟、思惟のなかでのみ運動する思惟を放棄することが、自然を実在として承認し直観にみずからを委ねようと決心することとして現われるのである。)

−p.222, l.12− <33>

 しかし、自然といえども、抽象的に受けとられ、それだけで人間から分離されて固定されるならば、人間にとっては無である。直観しようとみずから決心した抽象的な思想家が、自然を抽象的に直観するのは、自明のことである。自然はこの思想家によって、思想家自身にもかくされた形姿のなかで、絶対的理念として、思想物として閉じこめられていたが、同様に、思想家が自然を自己から解放したといっても、それによって真実のところただこの抽象的な自然を――とはいえ、それはいまや、思想の他在であり、現実的な直観された自然、抽象的思惟とは区別された自然である、という意味をもっている――ただ自然という思想物を、自己から解放したにとどまるのだ。あるいは、人間らしい言葉で述べるならば、抽象的な思想家がその自然直観に際して経験するのは、彼が神的な弁証法のなかで、自己自身のうちで動きまわってけっして現実へと眼を向けようとしない思惟の働きの純粋な生産物として、無から、純粋きわまる抽象から、創造したと思いこんでいた諸々のものが、自然諸規定からの抽象物にほかならないということである。したがって抽象的な思想家にとっては、自然全体は論理学的な諸抽象をただ感性的で外的な形式のなかで繰り返しているものにすぎない。――彼は自然やこれらの〔論理学的な〕抽象をふたたび分析する。したがって、彼の自然直観なるものは、彼が自然直観から抽象したものを確認する行為、彼によって意識的に繰り返された彼の抽象の産出過程にすぎない(46)。こうしてたとえば、時間は自己を自己に関係させる否定性に等しい(同上二三八ページ)。定有〔Dasein〕としての止揚された成〔Werden〕には、――自然的形式においては――物質としての止揚された運動が対応する。光は――自然的形式として――自己への反省である。および彗星という物体は、論理学によれば、一面では自己自身の上に安定している肯定的なもの、他面では自己自身の上に安定している否定的なものであるところの対立の――自然的形式――である。地球は、対立の否定的統一として、論理学上の根拠自然的形式である、等々(47)

 自然としての自然、すなわち、そのうちにかくされたあの秘密の意味からそれが感性的になお区別されているかぎりでの自然、これらの抽象から分離され区別されている自然は、であり、自己をとして証明する無であり、無意味である。または、すでに止揚されてしまった外在態という意味をもつにすぎない。

 「有限的−目的論的立場のなかには、自然はそれ自身のうちに絶対的目的を含んでいない、という正当な前提が見いだされる。」(二二五ページ(48)) 自然の目的は抽象の確認である。「自然は他在の形式における理念であることが判明した。理念はこのように自己自身の否定的なものとしてあり、あるいは自己に外的なものとして存在しているから、自然はこの理念に対してただ相対的にのみ外的であるのではなく、むしろ外在性こそが、理念を自然として存在せしめるところの規定を構成する。」(二二七ページ(49)

 外在性はここでは、自己を発現して光に、感性的人間に開示された感性として理解されるべきではない。この外在性は、ここでは外化の意味において、あってはならない欠陥、不具の意味において受けとられるべきなのである。というのは、真なるものは依然として理念だからである。自然は理念の他在の形式であるにすぎない。そして抽象的な思惟が本質なのであるから、思惟にとって外的なものは、その本質からいってたんなる外的なものにすぎないことになる。同時に、抽象的思想家は、感性が、すなわち自己のうちで動きまわっている思惟に対立する外在性が、自然の本質であることを承認する。しかし同時に、抽象的思想家はこの対立についてこう言明する。この自然の外在性は思惟にたいする自然の対立であり、自然の欠陥であり、そして自然は、それが抽象から区別されているかぎり、欠陥のある存在である、と。私にとってだけ、私の目からみてだけ、欠陥があるのではなく、それ自身において欠陥のある存在は、自分の外部に、自分に欠けているものをもっている。すなわち、それの本質は、それ自身とは別のものであるというわけだ。それゆえ自然は、抽象的思想家のために自分自身を止揚しなければならない。なぜなら、すでに自然は抽象的思想家によって潜勢からいえば止揚された本質として措定されているのだからである。

−p.225, l.6− <34>

 「精神はわれわれにとっては、自然をみずからの前提としているが、精神はこの自然の真理であり、またそのことによって自然の絶対的な端緒である。この真理においては自然は消滅してしまっている。そして精神はみずからの対自存在に到達した理念であること、そしてこの理念の客体も主体と同様に概念であることが判明した。この同一性は絶対的な否定性である。なぜなら、概念は自然にあってはその完全な外的客体性をもっているが、しかしこの自分の外在態を止揚してしまっており、そしてこの外在態において自己自身と同一となっているからである。それゆえ、概念は自然からの還帰としてのみ、この同一性である。」(三九二ページ(50)

 「啓示は、抽象的理念としては直接の移行であり、自然の生成であるが、自由である精神の啓示としては、精神の世界として自然を措定することである。この措定は、反省としては同時に自立的な自然としての世界を前提することでもある。概念における啓示は、自立的な自然を精神の有として創出することであり、この有において精神はその自由の是認真理性とをみずからに与える(51)。」 「絶対者は精神である。これが絶対者の最高の定義である(52)。」

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