ディーツゲン・マルクス・エンゲルス『経済学・哲学草稿』>第三草稿〔二〕

私有財産と共産主義

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 (1)しかし無所有所有との対立は、それが労働資本との対立として概念的に把握されないかぎり、まだ無差別な対立、その内面的関係との活動的な関連においてとらえられていない対立、まだ矛盾としてとらえられていない対立である。私有財産の発達した運動がなくとも、古代ローマにおいて、トルコ等々において〔みられるように〕、この対立はその最初の形態で現われることもできる。こうして〔その際の〕この対立は、まだ私有財産そのものによって定立されたものとしては現われない。しかし所有の排除としての私有財産の主体的本質である労働と、労働の排除としての客体的本質である資本とは、その発展した矛盾関係としての私有財産、したがって解消へとかりたてるエネルギッシュな関係としての私有財産である。


 (2)自己疎外の止揚は、自己疎外と同じ過程をたどっていく。最初に私有財産は、ただその客体的側面においてだけ――だがそれにもかかわらず労働は私有財産の本質として――考察される。それゆえ、私有財産の現存する形態は、〔資本〕〔そのものとして〕止揚されるべき資本である〔プルードン〕。あるいは労働の特殊な仕方――平均化された、細分化された、それゆえに不自由な労働としての労働――が、私有財産とその人間疎外的な現存とにそなわる有害性の源泉として、とらえられる――フーリエ(3)、彼は重農主義と対応して、またもや農耕労働を少なくとも優れたものとしてとらえるのだが、他方、サンシモンはそれと反対に産業労働そのものを本質であると言明し、そしてもっぱら産業家の単独の支配と労働者の状態の改善とを切望する。最後に、共産主義は止揚された私有財産の積極的表現であるが、さしあたりは普遍的な私有財産である。共産主義はこの関係をその普遍性においてとらえるので、共産主義は、(1) その最初の形態においては、私有財産の普遍化完成であるにすぎず、そのようなものとして共産主義は、二重の形態で姿を現わす。第一に、物的な所有の支配があまりにも大きくこの共産主義の前にたちはだかっているので、そのためこの共産主義は、私有財産として万人に占有されえないあらゆるものを否定しようとする。それは暴力的なやり方で、才能等々を無視しようとする(4)。この共産主義にとっては肉体的な直接的な占有が、生活や生存の唯一の目的とみなされる。労働者の仕事〔Leistung(5)〕は止揚されないで、万人のうえに拡大される。私有財産の関係は、物的世界にたいする共同体の関係としてそのまま残っている。最後に、私有財産にたいして普遍的な私有財産を対置しようとするこの運動は、結婚(それはたしかに排他的な私有財産一形態である)にたいして女性共有が、したがって女性が共同体的な共通の財産になるところの女性共有が、対置されるという動物的な形態でみずからを告白する。女性共有というこの思想こそ、まだまったく粗野で無思想なこの共産主義の告白された秘密だ、といえよう。女性が結婚から普遍的な売淫(6)へとすすむように、富の全世界、すなわち人間の対象的本質の全世界は、私的所有者との排他的な結婚の関係から、共同社会との普遍的な売淫の関係へとすすむのである。この共産主義は――人間の人格性をいたるところで否定するのだから――まさにこうした〔人間性の〕否定である私有財産の徹底的な表現であるにすぎない。普遍的な、また力として組織されている妬みこそ、所有欲がそこで再生され、そしてそれがただ別の仕方で満足させられているかくされた形態にすぎない。このようなものとしての一切の私有財産の思想は、少なくともより裕福な私有財産にたいしては、妬みと均分化の要求として立ちむかうのであって、その結果、それらは競争の本質をさえかたちづくることになる。粗野な共産主義者は、頭のなかで考えた最低限から出発して、こうした妬みやこうした均分化を完成したものにすぎない。彼は特定の限られた尺度をもっているのである。私有財産のこのような止揚がいかにわずかしか現実の獲得となっていないかということは、教養と文明の全世界が抽象的に否定されていることが、すなわち私有財産を超え出るどころかいまだかつて私有財産に到達したこともないような貧困で寡欲な人間の不自然な単純さへと還帰するものであることが、まさに証明している。

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 共同体はただ労働の共同体であるにすぎず、また共同体的資本、すなわち、普遍的な資本家としての共同体が、支払う給料の平等であるにすぎない。この関係の両側面は頭のなかで考えられた普遍性にまで高められている。すなわち、労働は各人がそのなかに置かれている定めとして、資本は共同体の公認された普遍性および力としてある。

 女性が共同体的な肉欲の餌食や下婢であるというような、女性にたいする関係のなかに、人間が自己自身にたいしてそのなかに実存している限りない堕落が語られている。というのは、この関係の秘密があいまいではなく、決定的に、公然と、むきだしに表現されるのは、男性女性にたいする関係のなかであり、また直接的な自然的な類関係がどのようにとらえられているかというその仕方のなかだからである。人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性女性にたいする関係である。この自然的な類関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間にたいする〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質となったかが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる(7)。それゆえ、この関係から、人間の全文化段階〔Bildungsstufe〕を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されている。また、どの程度まで人間の欲求人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在〔Gemeinwesen〕であるか、ということもこの関係のなかに示されているのである。

 したがって、私有財産の最初の積極的止揚である粗野な共産主義は、積極的な共同的存在として自分を定立しようとする私有財産の下劣さが現われる一つの現象形態であるにすぎない。

 (2) 共産主義、(a)民主的にせよ専制的にせよ、まだ政治的な性質をもっている共産主義、 (b)国家の止揚をともなうが、しかし同時にまだ不完全で、また相変らず私有財産すなわち人間の疎外に影響されている本質をもっている共産主義。両方の形態においてすでに共産主義は自分を、人間の自己への再統合または還帰として、人間の自己疎外の止揚として自覚しているが、しかしそれはまだ私有財産の積極的本質をとらえていないし、同様に欲求の人間的性質をほとんど理解していないので、やはりまだ私有財産にとらわれており感染されているのである。この共産主義はたしかに私有財産の概念をとらえてはいるが、しかしまだその本質をとらえてはいない。

 (3) 人間の自己疎外としての私有財産積極的止揚としての共産主義、それゆえにまた人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得としての共産主義。それゆえに、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に生まれてきた、またいままでの発展の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義。この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である。それは人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である。それは歴史の謎が解かれたものであり、自分をこの解決として自覚している。

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 それゆえ、歴史の全運動は、共産主義を現実的に生みだす行為――その経験的現存を産出する行為――であるとともに、共産主義の思考する意識にとっては、共産主義の生成を概念的に把握し意識する運動でもある。ところが他方、あのまだ未完成な共産主義は、〔歴史の〕運動から個々の契機を(カペー、ヴィルガルデル等々はとりわけこの馬にまたがるのだが)ひきはなし、それらを自分の歴史的純血性の証明として固定することによって、私有財産に対立する個個の歴史的諸形態から自分のために一つの歴史的な証拠を、すなわち既存のもの自体のなかに一つの証拠をさがし求めている。だが、そのことによってまさにこの共産主義は、この〔歴史の〕運動のはるかに大きな部分が、自分の諸主張と矛盾していること、またこの共産主義がかつて存在したとしても、まさにその過去の存在が、本質であるかに僭称することを否定している、ということを確証しているのである。

 全革命運動がその経験的基礎をも理論的基礎をも、私有財産の運動のなかに、まさに経済の運動のなかに、見いだすということ、このことの必然性はたやすく洞察される。

 物質的な、直接に感性的なこの私有財産は、疎外された人間的生活の物質的な感性的な表現である。私有財産の運動――生産と消費――は、従来のすべての生産の運動についての、すなわち、人間の現実化あるいは現実性の運動についての感性的な啓示である。宗教、家族、国家、法律、道徳、科学、芸術等々は、生産の特殊なあり方にすぎず、生産の一般的法則に服する。だから私有財産の積極的止揚は、人間的生活の獲得として、あらゆる疎外の積極的止揚であり、したがって人間が宗教、家族、国家等々からその人間的な、すなわち社会的な現存へと還帰することである。宗教的疎外それ自体は、ただ人間の内面の意識の領域でだけ生ずるが、しかし経済的疎外は現実的生活の疎外である、――だからその止揚は〔意識と現実という〕両側面をふくんでいる。この〔止揚の〕運動が、さまざまの民族において、どのような最初の出発をするかは、この民族の一般に認められている本来の生活が意識内と外的支配とのどちらでより多くおこなわれているか、その生活がより多く観念的であるか実在的であるか、にしたがってきまることは、おのずから明らかである。共産主義は無神論とともにただちに〔オーウェン〕はじまるが、あの無神論がむしろまだ一つの抽象であるように、無神論は最初のうちまだ共産主義であることから遠くはなれている(10)。―― ――

 無神論の人間愛〔Philanthoropie〕は、だから最初は哲学的な抽象的人間愛にすぎないが、共産主義の人間愛はそのまますぐに実在的であり、ただちに活動しようと緊張している。―― ――

 これまでわれわれがみてきたのは、積極的に止揚された私有財産という前提のもとで、どのようにして人間が人間を、自己自身と他の人間を生産するか、また人間の個性の直接的な実証である対象が、どのようにして同時に他の人間すなわち他人の現存であるか、ということである。しかし労働の素材も主体としての人間も、まったく同様に、運動の結果であるとともに出発点でもある(そしてそれらが運動の出発点でなければならないということ、まさにこの点に私有財産の歴史的必然性が存するのだ)。したがって社会的性格が、この全運動の一般的性格である。社会そのものが人間人間として生産するのと同じように、社会は人間によって生産されている。活動と享受(11)とは、その内容からみても現存仕方(12)からみても社会的であり、社会的活動および社会的享受である。自然の人間的本質は、社会的人間にとってはじめて現存する。なぜなら、ここにはじめて自然は、人間にとって、人間との紐帯(ちゅうたい)として、他の人間にたいする彼の現存として、また彼にたいする他の人間の現存として、同様に人間的現実の生活基盤として、現存するからであり、ここにはじめて自然は人間自身の自然的なあり方の基礎として現存するからである(13)。ここにはじめて人間の自然的なあり方が、彼の人間的なあり方となっており、自然が彼にとって人間となっているのである。それゆえ、社会は、人間と自然との完成された本質統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、自然の貫徹された人間主義である。

−p.133, l.17− <6>

 社会的活動や社会的享受は、けっして直接的に共同体的な活動や直接的に共同体的な享受といった形態でだけ存在しているものではない。とはいっても、共同体的な活動や直接的に共同体的な享受、すなわち、、直接に他の人間との現実的な社会的結合のなかで自分を発現し確証する活動と享受とは、社会性のあの直接的な表現がこの活動の内容の本質において基礎づけられ、この享受の性質に適合しているところでは、どこでも現われるであろうが。

 しかし私が科学的等々の活動をする――これは私がめったに他人との直接的共同のもとに遂行できない活動なのであるが(14)――その場合でも、私は人間として活動しているがゆえに、社会的である。私の活動の素材が私に――思想家の活動がそこでおこなわれる言語でさえそうであるように――社会的産物として与えられているばかりでなく、私自身の現存が社会的活動なのである。だから、私が自分からなにかをつくるにしても、それを私は社会のために自分からつくるのであり、しかも社会的存在としての私の意識をもってつくるのである。

 現今では、普遍的意識は現実的生活からの一つの抽象であり、そのようなものとして現実的生活に敵対的に対抗しているが、他方、私の普遍的意識は、、実在的な共同体、社会的存在を自分の生きた形姿としているものの理論的な形姿であるにすぎない。

 「社会」をふたたび抽象物として個人に対立させて固定することは、なによりもまず避けるべきである。個人は社会的存在である。だから彼の生命の発現は――たとえそれが共同体的な、すなわち個人とともに同時に遂行された生命の発現という直接的形姿で現われないとしても――社会的生命の発現であり、確認なのである。たとえ個人的生活の現存様式が、類的生活の多分に特殊な様式であったり多分に普遍的な様式であったりする――そしてこのことは必然的なのであるが――としても、あるいはさらに類的生活が多分に特殊な、または多分に普遍的な個人的生活であるとしても、人間の個人的生活と類的生活とは、別個のものではない。

 類的意識として人間は、彼の実在的な社会生活を確認し、そしてただ彼の現実的な現存を思惟のなかで反復するにすぎない。ちょうど逆に類的存在は、類的意識において自己を確認し、そしてそれの普遍性のなかで、思惟する存在として対自的になるのである。

 したがって人間は、たとえ彼がどれほど特殊な個人であるにせよ、――そしてまさに彼の特殊性が彼を個人とし、そして現実的な個体的共同存在とするとしても――同じ程度にまた彼は思惟され感受された社会そのものの総体性、観念的総体性、主観的な現存であり、同様にまた現実においても、彼は社会的現存の直観や現実的享受として、ならびに人間的な生命の発現の総体として現存するのである。

 こうして思惟と存在とは、たしかに区別されてはいるが、しかし同時に、相互の統一のなかにある。

 は〔特定の〕個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、そして両者の統一に矛盾するようにみえる。しかし特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。

 《(4)(15) 私有財産は、人間が〔主体であると〕同時に自己にたいして対象的となり、そして同時にむしろ疎遠な非人間的な対象としての自己になるということ。人間の生命の発現がその生命の外化〔放棄〕であり、人間の現実化がその現実性剥奪、すなわち一つの疎遠な現実性であるということの感性的表現にすぎないが、それと同様に、私有財産の積極的止揚は、すなわち、人間的な本質と生命、対象的な人間、人間的な制作物を、人間のために人間によって感性的に自分のものとする獲得は、たんに直接的な一面的な享受という意味でだけとらえられてはならない。すなわち、たんに占有する〔Besitzen〕という意味、所有する〔Haben〕という意味でだけとらえられてはならないのである。人間は彼の全面的な本質を、全面的な仕方で、したがって一個の全体的人間〔ein totaler Mensch〕として自分のものとする。世界にたいする人間的諸関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思惟する、直観する、感じとる、意欲する、活動する、愛すること、要するに人間の個性のすべての諸器官は、その形態の上で直接に共同体的諸器官として存在する諸器官と同様に、それらの対象的な態度において、あるいは対象にたいするそれらの態度において、対象〔をわがものとする〕獲得なのである。人間的現実性の獲得、対象にたいするそれらの諸器官の態度は、人間的現実性(16)の確証行為である。すなわち、人間的な能動性〔Wirksamkeit〕と人間的な受動的苦悩〔Leiden(17)〕とである。なぜなら、受動的苦悩は、人間的に解すれば、人間の一つの自己享受だからである。

−p.136, l.17− <7>

 私有財産はわれわれをひどく愚かにし、一面的にしてしまったので、われわれが対象を所有するときにはじめて、したがって〔対象が〕資本としてわれわれにたいして実存するか、あるいはわれわれによって直接に占有され、食べられ、飲まれ、われわれの身につけられ、われわれによって住まわれる等々、要するに使用されるときにはじめて、対象はわれわれのものである、というようになっている。とはいっても、私有財産は占有そのもののこれらすべての直接的な諸実現を、ふたたびたんに生活手段としてのみとらえるのだけれども、そしてこれらの実現が手段として奉仕する生活とは、私有財産生活であり、労働および資本化である。

 だからすべての肉体的・精神的感覚〔Sinn〕にかわって、そうしたすべての感覚の単純な疎外、所有〔についての〕感覚が現われてきた。人間的存在は、彼の内面的な富を自分の外に生みだすためには、このような絶対的な貧困にまで還元されねばならなかったのである。(所有という範疇については『二一ボーゲン』誌のなかのヘス〔の論文〕を参照せよ(18)。)

 それゆえ、私有財産の止揚は、すべての人間的な感覚や特性の完全な解放である。しかし、私有財産の止揚がこうした解放であるのは、これらの感覚や特性が主体的にも客体的にも人間的になっているという、まさにそのことによってなのである。目の対象が社会的な、人間的な対象、すなわ人間から起こっている人間のための対象となっているように、目は人間的な目となっている。だから諸感覚は、それらの実践において直接に理論家となっている。諸感覚は事物のために、事物にたいしてふるまう。しかし事物そのものは、自己自身にたいする、また人間にたいする(19)対象的で人間的なふるまいなのであり、またその逆でもある。だから、効用が人間的な効用となったことによって、欲求あるいは享受はそれらの利己的な性質を失い、そして自然はそのむきだしの効用性を失ったのである。

 同様に、他の人間の感覚や精神も、私自身が〔わがものとする〕獲得となっている。それゆえ、これらの直接的な諸器官のほかに、社会という形態のなかで、社会的な諸器官が形成される。したがってたとえば、他人と直接に共同してなされる活動などは、私の生命の発現の一つの器官となっており、人間的生命を獲得する一つの仕方となっている。

 すでにわれわれがみたように、対象が人間にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となる場合にだけ、人間は彼の対象のなかで自己を失うことがない。〔ところで〕このことはただ、社会がこの対象のなかで人間のための存在として生成することによってのみ可能である。

 だからどこでも、一方では、社会のなかにある人間にとって、対象的な現実が人間的な本質諸力〔Wesenskräfte〕の現実として、人間的な現実として、またそれゆえに人間固有の本質諸力の現実として生成することによって、あらゆる対象が人間にとって人間自身の対象化として、人間の個性を確証し実現している諸対象として、人間の諸対象として生成する。すなわち、人間自身が対象となるのである。どのようにして諸対象が人間にとって人間の諸対象として生成するかは、対象性質この性質に対応している本質力の性質とに依存している。なぜなら、この関係の規定性こそまさに、肯定の特殊な現実的な仕方を形づくるからである。一つの対象がにとってはにとってとはちがったものとなり、また目の対象はの対象とはちがったものなのである それぞれの本質力の特質は、まさにその本質力の独特な本質であり、したがってまた本質力の対象化の独特な仕方、本質力という対象的で現実的な、生きた存在の独特なあり方でもある。だから人間は、たんに思惟のなかでばかりでなく、すべての感覚をもって、対象的世界において肯定されるのである(20)

−p.139, l.9− <8>

 他方、主体的にとらえるならば、音楽がはじめて人間の音楽的感覚をよびおこすのと同様に、また非音楽的な耳にとってはどんなに美しい音楽もなんらの意味ももたず、〈なんらの〉対象でもない(21)。 なぜなら、私の対象はただ私の本質諸力の一つの確証でしかありえず、したがって、私の対象は、私の本質諸力が主体的能力として対自的にあるようにしか、ありえないからであり、また、私にとって或る対象の意味は(〔対象は〕対象に適応している感覚にとっての意味しかもたない)私の感覚の達するちょうどその範囲までしか及ばないからである。それだから社会的人間の諸感覚は、非社会的人間のそれとは別の諸感覚なのである。同様に、人間的本質の対象的に展開された富を通じてはじめて、主体的な人間的感性の富が、音楽的な耳が、形態の美にたいする目が、要するに、人間的な享受をする能力のある諸感覚が、すなわち人間的本質諸力として確証される諸感覚が、はじめて完成されたり、はじめて生みだされたりするのである。なぜなら、たんに五感だけではなく、いわゆる精神的諸感覚、実践的諸感覚(意志、愛など)、一言でいえば、人間的感覚、諸感覚の人間性は、感覚の対象の現存によって、人間化された自然によって、はじめて生成するからである。五感の形成は今までの全世界史のひとつの労作である。粗野な実際的な欲求にとらわれている感覚は、また偏狭な感覚しかもっていない。》 餓死しかけている人間にとって、食物の人間的形態がではなく、ただその食物としての抽象的現存だけが実存する。すなわち、食物がどんなに粗末な形態をとっていても、まったく構わないのであって、この営養をとる活動が動物的な営養をとる活動と、どの点で区別されるか、いうことができない。心配の多い窮乏した人間は、どんなにすばらしい演劇にたいしてもまったく感受性をもたない。鉱物商人は鉱物の商業上の価値をみるだけで、鉱物の美しさや独特の性質をみない。彼はまったく鉱物学的感覚をもたないのである。したがって人間的本質の対象化は、理論的見地からいっても、人間の感覚を人間的にするためにも、人間的および自然的な存在の富全体に適応する人間的感覚を創造するためにも、必要である。

 《生成しつつある社会が私有財産とその富および貧困との――あるいは物質的、および積極的な富と貧困との――運動を通じて、この〔人間的感覚の〕形成のためにすべての素材を見いだすように、生成しおわった社会は、人間の本質のこうした富全体における人間を、すなわちゆたかなそしてあらゆる感覚を十分にそなえた人間を、その社会の変ることのない現実として生産する(22)。――》

 主観主義と客観主義、唯心論と唯物論、〔能動的〕活動と〔受動的〕苦悩とは、社会的状態のなかではじめて、それらが対立を、それとともにこのような対立としてのそれらのあり方を失うことは明らかである。(23)《理論的な諸対立の解決でさえも、ただ実践的な仕方でのみ、人間の実践的エネルギーによってのみ可能であり、だから、その解決はけっしてたんに認識の課題であるのではなく、現実的な、生活の課題であること、しかも哲学はそれをただ理論的な課題としてだけとらえたからこそ、それを解決できなかったということも、明らかである。―― ――》

−p.141, l.8− <9>

 《産業の歴史と産業の生成しおわった対象的現存とが、人間的な本質諸力開かれた書物であり、感性的に提示されている人間的な心理学であることは、明らかである。だがこの心理学は、これまで人間の本質との連関においてではなく、つねにただ外面的な有用性の関係においてだけとらえられてきた。なぜなら、ひとは――疎外の内部で動きながら――人間の一般的な現存だけを、つまり宗教を、あるいは歴史を、その抽象的=一般的本質において、政治、芸術、文学等々として人間的本質諸力の現実として、また人間的な類的行為としてとらえることしか知らなかった(24)からである。通常の物質的な産業(――これをあの一般的運動の一部分としてとらえることもできれば、同様にまたこの一般的運動そのものを産業の特殊な一部分としてとらえることもできる。というのは、すべての人間的活動はこれまで労働であり、したがって産業〔勤労(25)〕であり、自己自身から疎外された活動だったからである――)において、われわれは感性的な疎遠な諸対象という形態のもとで、疎外という形態のもとで、人間の対象化された本質諸力を見いだすのである。〔あの〕心理学にとってはこの書物が、したがってまさに歴史のうちでも感性的にもっとも身近で近づきやすい部分が閉じられているのだが、そのような心理学は、現実的な、内容豊かな、実在的な科学となることはできない(26)。》 科学ではあっても、人間的労働のこの偉大な部分をお上品に捨象する科学、人間的活動のこのように広汎に展開された富が、「必要」「凡俗な必要」などと一言でかたづけられること以外なにごともこの科学に語りかけない限り、自分自身のうちに自分の不完全さを感じない科学について(27)、いったいわれわれはなんと考えるべきであろうか。

 自然諸科学は途方もなく大きい活動を展開し、たえず増大する材料をわがものとしてきた。自然諸科学が哲学に疎遠なままにとどまっているのと同様に、哲学はその間、自然諸科学に疎遠なままにとどまってきた。〔哲学と自然科学との〕一時的な結合もたんなる空想的な幻影にすぎなかった。意志は現にあったのだが、しかし能力が欠けていた。歴史叙述でさえも自然科学にたいしては、啓蒙の、有用性の、個別的な大発見の契機として、ただついでに顧慮するだけなのである。しかし、自然科学は産業を介してますます実践的に人間生活のなかに入り込み、それを改造し、そして人間的解放を準備したのであるが、それだけますます直接的には自然科学は、非人間化を完成させずにはやまなかった。産業は、人間にたいする自然の、したがって自然科学の現実的な歴史的関係である。だから、もし産業が人間的な本質諸力の公開的な露出としてとらえられるならば、自然の人間的本質あるいは人間の自然的本質もまた理解されるであろうし、したがって自然科学は、その抽象的に物質的な、あるいはむしろ観念的な傾向を失って、それが現在すでに――たとえ疎外された形態においてであれ――実際の人間生活の基礎となっているように、人間的な科学の基礎となるであろう。そして、生活のためのそれ以外の基礎とか、科学のためのそれ以外の基礎とかは、そもそものはじめから嘘なのである。《人間の歴史――人間社会の成立行為――のなかで成長してゆく自然は、人間の現実的な自然であり、それゆえ、たとえ疎外された形態においてであれ、産業を通じて生成する自然は、真の人間学的自然である(28)。》

 感性〔フォイエルバッハをみよ〕は、あらゆる科学の基礎でなければならない。ただ科学が感性的意識感性的欲求という二重の形態において感性から出発する場合にのみ――だから科学が自然から出発する場合にのみ――それは現実的な科学である。すべての歴史は、「人間」が感性的意識の対象となり、そして「人間としての人間」の欲求が〔普通の〕欲求となるための準備の歴史(29)である。歴史そのものが自然史の人間への自然の生成の、現実的な一部分である。人間についての科学が自然科学を自分のうちに包みこむのと同様に、自然科学は後には人間についての科学を包みこむであろう。すなわち一つの科学が存在することになるであろう。

−p.143, l.16− <10>

 人間は自然科学の直接的な対象である。なぜなら、人間にとっての直接的な感性的自然は、直接には人間的感性(同一のことを示す表現だが)であり、直接には彼にとって感性的に現存する他の人間として存在するからである。すなわち彼自身の感性は、他の人間を通じてはじめて、彼自身にとっての人間的感性として存在するからである。しかし〔他方〕、自然は、人間についての科学の直接的対象であり、人間の第一の対象――人間――は自然、感性である。そして特殊な人間的な感性的本質諸力は、自然的な諸対象のなかでのみみずからの対象的実現を見いだすことができるように、ただ自然存在一般の科学のなかでのみ、みずからの自己認識を見いだすことができる。思惟そのものの基盤、思想が生命発現する基盤、すなわち言語は感性的な性質のものである。自然の社会的現実と人間的な自然科学あるいは人間についての自然科学とは、同一のことを示す表現である。

 《〔私有財産の積極的に止揚された段階では〕国民経済的な貧困とにかわって、ゆたかな人間とゆたかな人間的欲求とが現われることをわれわれは見いだす。ゆたかな人間は、同時に人間的な生命発現の総体を必要としている人間である。すなわち、自分自身の実現ということが内的必然性として、必須のもの〔Not〕として彼のうちに存する人間である。人間のだけでなく、欠乏もまた――社会主義を前提するならば――人間的な、それゆえ社会的な意義をひとしく獲得するのである。欠乏は、人間にとって最大の富であるの人間を、欲求として感じさせる受動的な紐帯である。私のなかでの対象的存在の支配、私の本質的活動の感性的な発動は熱情であるが、それがここ〔社会主義の前提のもと〕では同時にまた私の本質の活動となるのである(30)。》

 (5) ある存在が自分の足で立つようになるやいなや、それははじめて自立的なものとみなされる。そしてそれが自分の現存を自己自身に負うようになるやいなや、はじめて自分の足で立つようになる。他人の恩恵によって生活している人間は、自分を従属的な存在だと認める。ところで、私が他人のおかげで私の生活を維持するばかりでなく、なおそのうえ他人が私の生活創造したとすれば、つまり他人が私の生活の源泉であるとすれば、私は完全に他人の恩恵によって生活しているわけであり、そして私の生活が私自身の創造でないとすれば、私の生活は必然的に自己の外にそのような根拠をもつことになる(31)。だから〔天地の〕創造ということは、民衆の意識から排除することがきわめてむずかしい表象なのである。自然および人間の自己自身による存在というものは、民衆の意識には理解しがたい。というのはこのような存在は実際の生活のすべての手近に理解できることと矛盾しているからである。

 大地の創造ということは地質学〔Geognosie(32)〕によって、すなわち、地球の形成、地球の生成をひとつの過程、自己産出として叙述する科学によって、強力な打撃をうけた。自然発生説〔generatio aequivoca(33)〕は創造説にたいする唯一の実践的反論である。

 さて、アリストテレスがすでに語ったことを個々人に語るのは、もちろん容易である。すなわち、君は君の父と君の母とによって産みだされた。だから二人の人間の性行為が、したがって人間の類行為が、君において人間を生産したのである。そうすると、人間はまた肉体的にもその現存を人間に負うているということが、君にはわかるだろう。ところで君は、たんにこの側面にだけ、すなわち君がさらにだれが私の父を産み、だれが私の母を産んだのか、などと問いつづけていくような無限の進行にだけ注目してはならない。すなわちそれにしたがえば人間が生殖において自己自身を反復するところの、したがって人間がつねに主体としてふみとどまるところの循環運動をも、しっかりつかまなければならない。しかし君はこう答えるだろう、君のいう循環運動は認めるが、それならば、君は私のいう進行を認めるがよい。つまり、だれが最初の人間をまた一般に自然を産みだしたのかと私が問うまで、先へ先へと私を駆りたてる進行を認めるがよい、と。私は君にこう答えられるだけだ。君の問いはそれ自身、抽象の産物だ、と。どのようにして君はあの問いをするにいたったのか、それを自問してみたまえ。君の問いは一つの見地から、すなわちそれが背理なものであるがゆえに私には答えられない見地から生じていないかどうかを、自問してみたまえ(34)。あの進行そのものが理性的思惟にとって実存するかどうかを、自問してみたまえ。君が自然と人間との創造について問う場合、君は人間と自然とを捨象しているのだ。君はそれらを存在しないものとして措定しておきながら、しかもそれらを存在するものとして私が君に証明することを君は要求しているのだ。そこで私は君にこう言おう、君の捨象をやめたまえ、そうすれば、君はまた君の問いをもやめるだろう。それとも君が君の捨象に固執しようとするなら、首尾一貫したまえ。そして君は人間と自然とを存在しないものとして考えながら、考えを進めるのなら、君もまたやはり自然であり人間であるのだから、君自身を存在しないものと考えたまえ。考えるなかれ、私に問うなかれ、なぜなら、君が考え、そして問うやいなや、君がしている自然と人間との存在についての捨象は無意味となるからだ。それとも君は、すべてを無として措定し、しかも自分は存在しようとする、そんなエゴイストなのか。

−p.147, l.4− <11>

 君は私にこう答弁することができる。私は自然等々の無を措定しようというのではない。私が解剖学者に骨格について質問したりするのと同様に、私は君に自然の発生行為について問うているのだ、と。

 しかし社会主義的人間にとって、いわゆる世界史の全体は、人間的労働による人間の産出、人間のための自然の生成以外のなにものでもないのであるから、したがって彼は、自己自身による自己の出生について、自己の発生過程について直観的な、反対できない証明をもっているのである。人間および自然が本質をそなえていること〔Wesenhaftigkeit〕、すなわち人間が人間にとって自然の現存として、また自然が人間にとって人間の現存として、実践的、感性的、直観的となったことによって、疎遠な一本質についての、告白をふくんでいる問い――は、実践的に不可能となった。こうした非本質性の否認としての無神論は、もはやなんの意味ももっていない。なぜなら、無神論は、神の否定であり、そしてこの否定を介して人間の現存を措定するからである。しかし社会主義としての社会主義は、もはやこのような媒介を必要としない。それは本質としての人間および自然の、理論的にも実践的にも感性的な意識から出発する。現実的生活が、もはや私有財産の止揚つまり共産主義によって媒介されない、積極的な人間の現実性であるように、社会主義としての社会主義は、もはや宗教の止揚によって媒介されない、積極的な人間の自己意識である。共産主義は否定の否定としての肯定であり、それゆえに人間的な解放と回復との、つぎの歴史的発展にとって必然的な、現実的契機である。共産主義はもっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理〔das energische Prinzip〕である。しかし共産主義は、そのようなものとして、人間的発展の到達目標――人間的な社会の形姿――ではない(36)

  >ディーツゲン・マルクス・エンゲルス『経済学・哲学草稿』このページのトップへ