ディーツゲン・マルクス・エンゲルス『経済学・哲学草稿』>第一草稿〔一〕

〔一〕労 賃

−p.17−

 労賃は資本家と労働者との敵対的な闘争を通じて決定される。〔その闘争で〕資本家が勝つ必然性〔はどこにあるか〕。資本家は、労働者が資本家なしで生活できるよりも長期間、労働者なしで生活することができる。資本家たちのあいだの団結は慣習となっており、効果のあるものだが、労働者たちの団結は禁止されており、労働者たちにとって悪い結果をもたらす(1)。その上また、地主と資本家とは、かれらの収入(2)に産業上の利益をつけ加えることができる(3)が、労働者は自分の勤労による所得(4)に、地代も資本利子もつけ加えることができない。それゆえ、労働者たちのあいだの競争はきわめて激しい。このようにして、もっぱら労働者にとってのみ、資本と土地所有と労働との分離は、必然的な、本質的な、しかも有害な分離なのである。資本と土地所有とは、こうした抽象的分離のなかにとどめておかれる必要はないのだが、まして労働者の労働は、なおさらそんなわけにはゆかないのだ。

 したがって、労働者にとっては、資本と地代と労働との分離は致命的である。

 労賃にとって最低の、どうしても必要な水準(5)は、労働者の労働期間中の生活を維持できるという線であり、そしてせいぜい労働者が家族を扶養することができ、労働者という種族が死滅しないですむという線である。スミスによれば、通常の労賃は、最低の労賃、つまりむきだしの人間性〔die simple humanité〕すなわち動物的生存にふさわしい労賃である(6)

 あらゆる他の商品の場合と同様に、人間にたいする需要が、必然的に人間の生産を規制する(7)供給が需要よりはるかに大きいとき、労働者の一部は乞食の状態か餓死におちいる。こうして、労働者の生存は、他のすべての商品の存立の条件のもとへと引きさげられている。労働者は一個の商品となっており、しかももし自分を売りさばくことができれば、それは彼にとって幸運なのである。そして労働者の生活を左右する需要というものは、富者と資本家の気まぐれによって左右される(8)。供給の量が需要を超〈過〉するとき、価格を構〈成する〉諸部分、すなわち利潤、地代、労賃のうちの一つがその〔自然率である〕価格以下に支払われ、したがって〈これら〉諸給付のうちの〈一部分〉は、そうした〔利益のない仕事への〕使用から撤回されることになり、こうして市場価格は中心点としての自然価格へとひきよせられる(9)。しかし、(1)分業が高度におこなわれている場合は、労働者にとって自分の労働を他の部面へ向けることはきわめて困難であり、(2)資本家にたいする労働者の隷属関係のもとにあっては、まず損失をこうむるのは労働者なのである。

 したがって、市場価格が自然価格へひきよせられるさいに、もっとも多く、また無条件に損をするのは労働者である。そしてまさに自分の資本を他の部面に向けうるという資本家の能力こそが、一定の労働部門のなかに拘束されている労働者をして、失業させるか、さもなければ、この資本家のどのような要求にも屈伏せざるをえなくさせるのである。

 市場価格の偶然的・突発的な変動におそわれる度合についていえば、価格のうち利潤と給料とに分解される部分よりも、地代のほうがより小さいが(10)、しかし、労賃にくらべれば利潤の方がより小さい。ある労賃が上昇したとしても、それに応じてたいてい停滞しつづける労賃が現われるし、低下する労賃すら現われる。

 労働〈者〉は、資本家が儲けるさいには、必然的に儲けるとはかぎらないが、しかし資本家が損をするさいには、必然的に損をする。こうして、資本家が製造業上の、または商業上の秘密によって、独占とか彼の土地の有利な状態とかによって、市場価格を自然価格以上にたもつ場合にも(11)、労働者は何らの利益もえないのだ。

 さらにまた、労働の価格は生活資料の価格よりはるかに不変である。しばしば両者は逆比例の関係になる(12)。物価の高い年には、労賃は需要の減少のために低下するが、生活資料の値上がりのために上昇する。こうしてバランスがとられる。いずれにせよ、労働者の一定数はパンを奪われた状態におかれるのだ。物価の安い年には、労賃は需要の増大のために上昇し、生活資料の〔低〕価格のために低下する。こうしてバランスがとられるのだ。

 労働者のもう一つの不利。

 さまざまな種類の労働者の労働の諸価格は、自然が投下されるさまざまな部門の諸利得よりも、はるかに大きな差異をもっている。労働にあたっては、個人的活動の自然的、精神的、社会的なあらゆる差異が現われてくるし、またそのため、差別のある労賃が支払われるが、他方、死せる資本は、つねに同じ歩調ですすみ、そして現実的な個人的活動にたいしては無関心である。

 一般に注目されるべきことは、労働者と資本家とが同じように苦しむとしても、その場合、労働者は自分の生存のために苦しみ、資本家は自分の死せる〔財産の神〕マンモンの獲得のために苦しむということだ。

 労働者は、たんに自分の肉体的な生活手段をうるために争わねばならないばかりでなく、労働(13)を獲得するためには、すなわち彼の活動を実現できる可能性をうるために、つまりその手段をうるために争わねばならない。われわれは、社会のありうる三つの主要な状態をとりあげ、そのなかで労働者の状態を考察してみよう(14)

 (1) 社会の富が衰退しつつある場合、労働者はもっともひどく苦しむ。なぜなら、労働者階級は、幸福な社会状態において有産者階級ほど多くの利益をえられないが、にもかかわらず、社会の衰退によって労働者階級ほどひどく苦しむものはない(15)からである

 (2) ではつぎに、富が増進しつつある社会をとりあげよう。この状態は労働者にとって唯一の有利な状態である。ここでは資本家たちのあいだの競争がおこる。労働者たちにたいする需要はその供給をうわまわる。しかし、

 第一に、労賃の上昇は労働者たちのあいだに過重労働をひきおこす。彼らはより多くかせごうとすればするほど、ますます多く自分の時間を犠牲にし、一切の自由を完全に放棄して貪欲に奉仕するための奴隷労働をやりとげねばならない。そうすることによって、彼らはそこで自分の生涯を短縮するのだ。労働者の寿命がこのように短縮されることは、労働者階級全体にとっては有利な状態である。というのは、このことによって、つねに新たな供給が必要となるからである。この階級は、完全に滅亡してしまわないためには、彼ら自身の一部分をつねに犠牲にしなければならないのだ。

 さらに、どのようなとき、社会は富を増進させているのであろうか。一国の資本と収入が増大しているときである。しかし、このことが可能なのは、もっぱら (イ)多くの労働が集積されることによってである。なぜなら、資本は蓄積された労働なのだから。したがって、それは労働者の生産物のますます多くの部分が彼の手から奪いとられること、労働者自身の労働が他人の所有物としてますます彼に対抗するようになること、そして労働者の生存と活動とのための諸手段が、ますます資本家の手中に集中されることによってのみ可能なのだ。 (ロ)資本の集積は分業を拡大させ、分業は労働者の数を増大させる。また逆に、労働者の数は分業を拡大させ、同様に分業は資本の集積を増進させる。一方でのこの分業と他方での資本の集積とともに、労働者はますます一途に労働に、しかも特定の、きわめて一面的な、機械的な労働に、依存するようになる。こうして労働者は、精神的にも肉体的にも機械にまで下落させられ、ひとりの人間から一個の抽象的活動および一個の胃袋となるが、それに応じて彼はまた、市場価格のあらゆる動機や資本の投下や富者の気まぐれに、ますます左右されるようになる。まったく同様に、ただ労働だけする人間の階級の増加は、労働者の競争を激化させ、こうして彼らの価格を低下させる。労働者のこのような立場は、工場制度においてその絶頂に達する。

 (ハ)繁栄を増しつつある社会では、ますます、もっとも富める者だけしか金利で生活できなくなる。その他のすべての者は、彼らの資本で事業を営むとか、その資本を商業に投ずるとかしなければならない。したがって、それによって諸資本のあいだの競争は激しさを増す。資本の集中はより大きくなり(16)、大資本家は小資本家を破滅させ、そしてかつての資本家たちの一部は労働者階級に転落するが、この〔新しい労働者の〕供給の結果、労働者階級はふたたび一部の賃金を切りさげられ、少数の大資本家にさらにいっそう強く隷属するようになる。資本家の数が減少したために、労働者についての資本家たちの競争は、もはやほとんどなくなり、また労働者の数が増加したために、労働者自身のあいだの競争はますます激しくなり、ますます不自然にますます暴力的になる。それゆえ、中産的資本家の一部が労働者階級に転落するのとまったく同様に、労働者階級の一部は、必然的に乞食状態か飢餓状態かに転落する。

 

 

 

  >ディーツゲン・マルクス・エンゲルス『経済学・哲学草稿』このページのトップへ