エンゲルス『ルートヴィッヒ=フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』
松村一人訳/岩波文庫(昭和35年5月5日)
原著 Ludwich Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie
著者 Friedrich Engels
強調部分は訳書では傍点。
−p.9−
『経済学批判』〔一八五九年、ベルリン〕の序文のなかでカール・マルクスは、われわれ二人が一八四五年にブリュッセルで「ドイツの哲学のイデオロギー的見解に対立するわれわれの見解(すなわち、主としてマルクスによってつくりあげられた唯物史観)を共同でまとめあげるという仕事、実はわれわれの以前の哲学的良心を清算する仕事」にとりかかったことについて語っている。マルクスはつづいてこう言っている。「この計画はヘーゲル以後の哲学の批判という形でおこなわれた。二冊の厚い八折り判からなる原稿(注一)をヴェストファーレンの出版所に送りとどけてからずいぶんたって、われわれは、事情が変ったので出版ができなくなったという通知を受取った。われわれはすでに自己了解というわれわれの主な目的を達成していたので、喜んでこの原稿をねずみたちのかじる批判にまかせたのであった。」
(注一)『ドイツ・イデオロギー』をさす。
それ以来、われわれのうちのいずれもこの題目にたち帰る機会がないままに、四〇年以上の歳月がながれ、そしてマルクスは死んでしまった。ヘーゲルとわれわれとの関係について、われわれはあちこちで考えを述べたが、しかしどこでも包括的な連関では述べたことがなかった。フォイエルバッハは、なんといっても多くの点でヘーゲルの哲学とわれわれの見解との中間項をなしているが、このフォイエルバッハには一度もたち帰ることがなかった。
その間にマルクスの世界観は、遠くドイツおよびヨーロッパの境界を越えて代表者を見いだし、また世界のすべての進んだ国の言葉に翻訳されるようになった。他方では、ドイツの古典哲学が外国で、とくにイギリスとスカンジナヴィアで、ある種の復活を経験しており、ドイツ自身においてさえ人々は、諸大学で哲学のもとに提供されている折衷的な雑炊には飽きてきたように見える。
このような事情のもとで、ヘーゲル哲学とわれわれとの関係について、すなわち、われわれがどのようにしてヘーゲル哲学から出発し、どのようにしてそれから離れたかについて、かんたんで、まとまった叙述がますます必要となってきているようにわたしには思われていた。同じようにまたわたしには、われわれの疾風怒涛(しっぷうどとう)時代に、ヘーゲル以後の他のどの哲学者にもましてフォイエルバッハがわれわれに与えた影響を十分に承認することは、まだ返却されていない信用借りであるように思われていた。だからわたしは、『新時代(ノイエ・ツァイト)』の編集部がフォイエルバッハにかんするシュタルケ〔一八五八−一九二六、デンマークの哲学者、社会学者〕の本の批評をすることをわたしに頼んできたとき、喜んでその機会をとらえた。わたしの論文は同誌の一八八六年の第四号と第五号に発表されたが、それを校定してここに単行本として出版する。
これを印刷にまわす前に、わたしは一八四五年から四六年にかけてマルクスとわたしが書いた古い原稿をもう一度さがしだして目をとおした。フォイエルバッハにかんする章は完成されていない。できあがっている部分は唯物史観の叙述であるが、それは、経済史についてのわれわれの当時の知識がまだどんなに不完全なものだったかを証明しているにすぎない。フォイエルバッハの学説そのものの批判はそこには欠けており、したがって当面の目的にはまったく役だたなかった。それにひきかえ、わたしは、マルクスの古い一冊のノートのなかに、フォイエルバッハにかんする一一のテーゼ(注一)――本書に付録として収録されている――を見いだした。それは後で仕あげるための覚え書きであり、急いで書きくだされたものであって、印刷のつもりで書かれたものではけっしてないが、しかし新しい世界観の天才的な萌芽が記録されている最初の文書として、はかりしれぬほど貴重なものである。
(注一)エンゲルスは付録として発表するばあい、表現をわかりやすくするために、いくらかマルクスの文章を書きあらためている。マルクスの原文の訳は、岩波文庫『ドイツ・イデオロギー』のうちにある。
ロンドンにて、一八八八年二月二一日
フリードリヒ・エンゲルス