マルクス『経済学批判』
武田隆夫・遠藤湘吉・大内 力・加藤俊彦訳
岩波文庫(昭和31年5月25日)
原著 Zur Kritik der politischen Ökonomie
著者 Karl Marx
強調部分は訳書では傍点。
第一篇 資本一般
第一章 商品
A 商品分析のための史的考察
第二章 貨幣または単純流通
一 価値の尺度
B 貨幣の度量単位についての諸学説
二 流通手段
a 商品の変態
b 貨幣の通流
c 鋳貨。価値表章
三 貨幣
a 貨幣蓄蔵
b 支払手段
c 世界貨幣
四 貴金属
C 流通手段と貨幣についての諸学説
附録 一「カール・マルクス著 経済学批判」(フリードリヒ・エンゲルス)
「経済学批判」についての手紙(カール・マルクス)
経済学批判序説(カール・マルクス)
附録 二−p.11−
わたくしはブルジョア経済の体制をつぎの順序で考察する。すなわち、資本、土地所有、賃労働、国家、外国貿易、世界市場。はじめの三項目では、わたくしは近代ブルジョア社会がわかれている三大階級の経済的生活諸条件を研究する。あとの三項目の連関は一見してあきらかである。資本をとりあつかう第一巻の第一部は、つぎの諸章からなる。(一)商品、(二)貨幣または単純流通、(三)資本一般。そのはじめの二章が本書の内容をなしている。すべての材料は独立論文のかたちでわたくしの手もとにあるが、それらは、出版するためにではなく、自分自身にはっきりさせるために、それぞれかなりの期間をおいて書きおろされたものである、そしてそれらを右の計画にしたがってまとまったものにしあげられるかどうかは、外部の諸事情によるであろう。
ざっと書きおえた一般的序説*を、わたくしはさしひかえることにする。というのは、よく考えてみると、これから証明していこうとする結論を先廻りして述べるようなことは何でも邪魔になるように思われるし、それに、いやしくもわたくしについてこようとする読者は、個別的なものから一般的なものへとよじのぼってゆく覚悟をきめなければならないからである。これに反して、ここでわたくし自身の経済学研究の経過について二三のことを簡単に述べておくことは、おそらく当をえたことではなかろうかと思う。
* この序説は、この版の附録におさめられている。――編集者。
わたくしの専攻学科は法律学であった。だがわたくしは、哲学と歴史とを研究するかたわら、副次的な学科としてそれをおさめたにすぎなかった。一八四二年から四三年のあいだに、「ライン新聞」の主筆として、わたくしは、いわゆる物質的な利害関係に口をださないわけにはいかなくなって、はじめて困惑を感じた。森林盗伐と土地所有の分割についてのライン州議会の討議、当時のライン州知事フォン・シャーペル氏がモーゼル農民の状態について「ライン新聞」にたいしておこした公の論争、最後に、自由貿易と保護関税とに関する議論、これらのものがわたくしの経済問題にたずさわる最初の動機となった。他方では、当時は「さらに進もう」というさかんな意志が専門的知識よりいく倍も重きをなしていた時期であって、フランスの社会主義や共産主義の淡い哲学色をおびた反響が「ライン新聞」のなかでもきかれるようになっていた。わたくしはこの未熟な思想にたいして反対を表明した。だが同時にまた「アルゲマイネ・アウクスブルク新聞」とのある論争で、わたくしのこれまでの研究では、フランスのこれらの思潮の内容そのものについてなんらかの判断をくだす力のないことを率直にみとめた。そこでわたくしは、紙面の調子をやわらげれば「ライン新聞」にくだされた死刑の宣告をとりけしてもらえるものと信じていた同紙の経営者たちの幻想をむしろ進んでとらえて、公の舞台から書斎にしりぞいたのであった。
わたくしをなやませた疑問を解決するために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であった。この仕事の序説は、一八四四年にパリで発行された『独仏年誌』にあらわれた。わたくしの研究が到達した結論は、法的諸関係および国家諸形態は、それ自身で理解されるものでもなければ、またいわゆる人間精神の一般的発展から理解されるものでもなく、むしろ物質的な生活諸関係、その諸関係の総体をヘーゲルは一八世紀のイギリス人やフランス人の先例にならって「ブルジョア社会」という名のもとに総括しているが、そういう諸関係にねざしている、ということ、しかもブルジョア社会の解剖は、これを経済学にもとめなければならない、ということであった。この経済学の研究をわたくしはパリではじめたが、ギゾー氏の追放命令によってブリュッセルにうつったので、そこでさらに研究をつづけた。わたくしにとってあきらかになり、そしてひとたびこれをえてからはわたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる。
人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。
一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。
大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。
フリードリヒ・エンゲルスとわたくしは、経済学的諸カテゴリーを批判したかれの天才的小論が(『独仏年誌』に)あらわれて以来、たえず手紙で思想の交換をつづけてきたが、かれは別の途をとおって(かれの『イギリスにおける労働者階級の状態』を参照)わたくしと同じ結論に到達していた。そして一八四五年の春、かれもまたブリュッセルに落着いたとき、われわれは、ドイツ哲学の観念論的見解に対立するわれわれの反対意見を共同でしあげること、実際にはわれわれ以前の哲学的意識を清算することを決心したのであった。この計画はヘーゲル以後の哲学の批判という形で遂行された。二冊の厚い八つ折版の原稿*をヴェストファーレンの出版所に送り届けてからだいぶんあとで、われわれは、情勢がかわったので出版できかねるとの報せをうけとった。われわれはすでに自分にはっきりさせるというおもな目的をたっしていたので、それだけに気前よくその原稿をねずみどもがかじって批判するのにまかせたのであった。その当時、あれこれの面からわれわれの見解を公衆に示したばらばらの著作のうちで、わたしはここにエンゲルスとわたくしとの共著である『共産党宣言』と、わたくしが発表した『自由貿易論**』とだけをあげるにとどめよう。われわれの見解の決定的な諸論点は、論争の形式でではあるが、一八四七年に出版され、プルードンにたいしてむけられたわたくしの著書『哲学の貧困』のなかで、はじめて科学的に示された。「賃労働」についてドイツ語で書かれた一論文〔「賃労働と資本」〕は、わたくしがこの問題についてブリュッセルのドイツ人労働者協会でおこなった講演をまとめたものであったが、その印刷は、二月革命と、その結果わたくしがベルギーからむりやりに退去させられたこととにより中断した。
* マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』をさす。――編集者。
** 一八四八年一月九日ブリュッセルの民主主義協会でおこなわれた自由貿易問題についての講演。――編集者。
一八四八年と一八四九年の「新ライン新聞」の発行と、その後におこったさまざまの出来事とのために、わたくしの経済学の研究は中断させられ、ようやく一八五〇年になってロンドンでふたたびとりかかることができた。大英博物館に堆積されている経済学の歴史についての厖大(ぼうだい)な資料、ブルジョア社会の観察にとってロンドンがもつ有利な位置、最後に、カリフォルニアやオーストラリアの金の発見とともにブルジョア社会が到達したようにみえた新たな発展段階、これらのためにわたくしは、すっかりはじめからやりなおし、新しい資料によって批判的に仕事をしとげようという決心をかためた。このような研究のあるものは、しぜんと、一見まったく関係のないような諸学科に手をつけさせ、わたくしはその勉強に多かれ少かれ時間をついやさなければならなかった。だがとりわけ、わたくしの自由になる時間は、生計の資をえるというやむをえない必要のためにけずられた。一流の英米新聞である「ニューヨーク・トリビューン」への、これまで八年にもなるわたくしの寄稿は、本格的な新聞通信を、ただ余分な仕事としてやるわけだから、わたくしの研究をはなはだしく分裂させずにはおかなかった。けれどもイギリスや大陸での顕著な経済上の出来事についての論説が、わたくしの寄稿のかなり重要な部分を占めていたので、わたくしは本来の経済学の学問的領域外にある実際上の詳細にも精通しないわけにはいかないことになった。
経済学の領域におけるわたくしの研究の経過についてのこの簡単な叙述は、わたくしの見解がどのように評価されようとも、また支配諸階級の利己的な偏見とどれほど一致しにくくとも、それが長年月にわたる良心的な研究の成果であることだけは、はっきりと示してくれるはずである。だが、科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。
ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。
臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ*。
* ダンテ『神曲』
一八五九年一月
ロンドンにて カール・マルクス