付録 フォイエルバッハにかんするテーゼ(カール・マルクス)

−p.86−

     

 これまでのすべての唯物論――フォイエルバッハのも含めて――の主要な欠陥は、対象、現実性、感性がただ客体あるいは直観の形式のもとでのみとらえられていて、人間の感性的な活動実践としてとらえられず、主体的にとらえられていないことにある。したがって活動的な側面は、唯物論とは反対に、観念論によって展開されるようになった。しかしこれはただ抽象的におこなわれたにすぎない。というのは、観念論はもちろん本来の意味での現実的な、感性的な活動を知らないからである。フォイエルバッハは、思想的客体とは現実に区別される、感性的な客体を欲している。しかしかれは人間の活動そのものを対象的な活動としてとらえない。だからかれは『キリスト教の本質』のなかで、理論的な態度だけを真に人間的態度と見なし、実践はそのきたならしい、ユダヤ人的な現象形態においてのみえられ、固定されている。したがってかれは、「革命的な」活動、実践による批判的な活動を理解しない。

     

 人間の思考に対象的な真理が属するかどうかという問題は、理論の問題ではなくて、実践の問題である。実践のうちで人間はその思考の真理を、言いかえれば、その思考の現実性と力、此岸性を証明しなければならない。実践から遊離している思考が現実的であるか非現実的であるかという論争は、まったくスコラ的な問題である。

     

 人間は環境と教育の所産であり、したがって人間の変化は環境の相異と教育の変化との所産であるという唯物鈴的学説は、まさに人間が環境を変えるのであり、また教育者自身が教育されなければならない、ということを忘れている。したがってこの学説は、必然的に、社会を二つの部分にわけ、その内の一つは社会よりも優越しているとするようになる(たとえばロバート・オーウェンのばあい)。

 環境の変更と人間の活動との合致は、ただ変革的実践としてのみ把握されかつ合理的に理解される。

     

 フォイエルバッハは、宗教的自己疎外の事実、世界が宗教的、空想的世界と現実の世界とへ二重化されているという事実から出発する。かれの仕事は、宗教的な世界をその現実的な基礎に解消させることにある。かれは、この仕事がなしとげられてからも、なお主なことがしのこされているということを見おとしている。というのは、現世的な基礎が自分自身から浮きあがって、一つの独立の王国を雲のなかに確立するという事実は、まさにこの現世的基礎の自己分裂と自己矛盾とからのみ説明されなければならないし、次にこの矛盾をとりのぞくことによって実践的に変革されなければならない。だから、例えば、地上の家族が聖家族の秘密であることが発見されたら、今度は地上の家族そのものが理論的に批判されかつ実践的に変革されなければならない。

     

 フォイエルバッハは、抽象的な思考に満足せず、感性的な直観に訴える。しかしかれは感性を実践的活動、すなわち人間の感性的活動としてとらえない。

     

 フォイエルバッハは宗教の本質を人間の本質に解消する。しかし人間の本質は、個々の個人に内在する、抽象物ではない。人間の本質とは、現実には、社会的諸関係の総和である。

 フォイエルバッハは、こうした現実的な本質にたちいらないから、

 (一)歴史の過程を無視して、宗教的心情をそれだけで固定し、そして抽象的な――孤立した――人間的個体を前提せざるをえない。

 (二)だからかれのばあい、人間の本質は、ただ「顔」として、すなわち、多くの個人をたんに自然的に結びつける、内的な、無言の一般性としかとらえられない。

     

 したがってフォイエルバッハは、「宗教的心情」そのものが一つの社会的産物であるということ、かれが分析する抽象的個人が現実には特定の社会形態に属しているということを見ない。

     

 社会的生活は本質的に実践的である。理論を神秘主義に誘い込むすべての神秘は、その合理的解決を人間の実践およびこの実践の把握のうちに見いだす。

     

 直観的な唯物論、すなわち、感性を実践的な活動としてとらえない唯物論が達成する最高の地点は、「市民社会」における個々の個人の直観である。

     一〇

 古い唯物論の立場は「市民」社会であり、新しい唯物論の立場は、人間的社会あるいは社会化された人間である。

     一一

 哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない。大切なことはしかしそれを変えることである。