解 説


松 村 一 人   

−p.91−

 エンゲルスの『フォイエルバッハ論』は、エンゲルス自身がその序文で述べているように、シュタルケというデンマークの哲学者・社会学者がフォイエルバッハについて書いた本の批評を『ノイエ・ツァイト』の編集部から求められたのが直接のきっかけとなって書かれたものであるが、シュタルケの本は文字どおりきっかけとなったにすぎず、その内容は同じくエンゲルスが序文で書いているように、マルクス主義の直接の哲学的先行者であるヘーゲルとフォイエルバッハの世界観および歴史観における生きたものと死んだものをあきらかにし、このことと結びついて積極的にマルクス主義の世界観および歴史観を要約的に述べたものである。

 エンゲルスがその『フォイエルバッハ論』を書いたのは、一八八八年、すなわちかれが六八歳のときである。このことは、エンゲルスがすでにマルクスとの密接な協力のもとになされた数十年の研究と実践、およびその成果を背後にもっていることを意味する。つまりわれわれは本書のうちに、マルクス主義の創始者の一人によって、十分の研究の上に立って書かれたマルクス主義の世界観および歴史観の要約をもつのである。一般に概説書というものは、真の研究を経ずに、ただ遠くからながめた物分りで書かれたばあいには、味気なくつまらないものであるが、それが十分の基礎の上で書かれるとき、非常に大きな意義をもつ。本書が出版されてからすでに七十年以上たつが、それが今なおマルクス主義の世界観および歴史観を内的連関をもって要約したものとして中心的な意義をもちつづけているのは、このためである。われわれは本書のうちでマルクス主義の哲学にその古典的源泉において、またその生気あふれる形で接することができる。一般に、すべての理論は(理論にかぎらないが)、その最良の形のうちで接してのみ、本当にその核心にふれることができるということができるとすれば、マルクス主義もその例外ではない。

 このような一般論以外に、今日のわれわれにとって、マルクス主義をその古典のうちで再認識するということが、かつてなく必要なこととなっていると思われる。われわれがマルクス主義だと思っていたものが、はたして完全にマルクス主義であったであろうか。それは、多かれ少なかれ自分流儀に理解したマルクス主義ではなかったであろうか。また、安易にマルクス主義を批判したり、修正しようとするばあい、人は批判し修正すべきものが、実はマルクス主義そのものではなくて、実は自分勝手に解釈したマルクス主義ではないかどうかをまじめに検討してみるべきではなかろうか。そしてこのことは、当然マルクス主義の古典のうちでのみなされなければならないであろう。

 もちろん、エンゲルスと現代とをへだてる時代の変遷は大きい。世界の様相は実に大きく変ったし、諸自然科学もエンゲルス以後画期的な発展をした。エンゲルスが本書自身のなかで言っているところによっても、自然科学の領域で画期的な発展がおこなわれるだけでも、そのたびに唯物論はその形態を変えなければならない。しかし、新しいものへの偏見のない態度は、同時に既存の理論の偏見のない理解とむすびつかなければならない。

 本書でマルクス主義の世界観と歴史観がどのように述べられているかについては、ここではふれない。ただわたしは、若いころから今まで何度も『フォイエルバッハ論』をよみかえしたが、そのたびに、本書が、たえずそこへ帰っていくべき座右の書であることを感じてきた。今度、最初本書を読んでから三十年以上を経て、自分でその翻訳をしてみて、いまさら新しくそのことを感じている。もちろん本書は、『資本論』のような研究の本ではなく、概説の本である。しかし、それは実に生き生きとした精神をもって書かれており、その含蓄の広さと深さにおいて無類の本の一つである。人は本書のなかに、マルクス主義の世界観と歴史観の理論的叙述を見いだすだけでなく、人類のこれまでの生活と、現存する資本主義社会の諸現象にたいするエンゲルスの生きた心の反応を見いだすであろう。例えばエンゲルスが「唯物論という名前にたいする俗物的偏見」を理論的に反駁しているところでも、そこには同時に、現存社会を支配している偽善にたいする痛烈な指摘が全体をいっそう生気あるものとしている。唯物論といえば牛飲馬食や金銭欲や取引所詐欺などと思っている偏見を訂正しながら、エンゲルスはこれらの悪徳について、「一口に言えば、かれ自身がひそかにそれにふけっているあらゆるみにくい悪徳」という指摘を忘れていない。

 本書に述べられているヘーゲル哲学とその弁証法についての評価について言えば、わたしはそれが古典的意義をもつことを疑わない。かつての日本にヘーゲルの神秘的側面の悪用があったとすれば、戦後の今日では実証主義的諸流派からするヘーゲルへの極度の軽視がおこなわれている。ちょうどマルクスが『資本論』第二版への後書きで言っているように、かつてはヘーゲルはその神秘的形態で流行し、今では「死んだ犬」のようにとりあつかわれている。そしてこの二つの評価は、いずれも不合理性をのみヘーゲル弁証法に帰する点で、同じ誤謬の上に立っているのである。もちろんヘーゲル研究についてまだなさるべきことは多いが、エンゲルスが本書のうちであたえている根本的な指摘は、わたしは実に正しいと思う。

 ヘーゲルにくらべると、フォイエルバッハは、戦後の日本では、その評価は高まっている。このこと自身は正しく、よろこぶべきことであろう。フォイエルバッハは、少くともドイツ哲学において、すべての超越的なものをしりぞけ、はじめて自然と人間に帰った。かれはたんにマルクス主義の生成の歴史の参考書としてのみよまるべき人ではない多かれ少かれ、旧天皇制下の神秘主義と精神主義の影響下にあるわれわれは、フォイエルバッハの人間性の洗礼をうける必要があるといえよう。そしてそれは、マルクス主義の正しい姿を理解するためにも、大きく役だつであろう。しかし、今日フォイエルバッハについて語るばあい、エンゲルスが本書で指摘しているフォイエルバッハの「人間」の抽象性を見ないのは、盲目というべきであろう。エンゲルスは言う。「フォイエルバッハの……核心をなしていた抽象的人間の礼拝は、現実の人間およびその歴史的発展の科学によっておきかえられなければならなかった」と。この方向の画期的異議を認めることのないフォイエルバッハの評価は、致命的なものをもつといわなければならない。そしてわれわれはまた、フォイエルバッハの抽象的人間にたいするエンゲルスの批判が、多くの既存の人生論、人間論の欠陥の核心にふれることを知るであろう。

 終りに、『フォイエルバッハ論』への直接の関係文献として、マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)をあげておく。

  一九六〇年二月十五日