ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』

 

ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』 他一篇

小松攝郎訳/岩波文庫(1952年11月5日)

原著 Das Wesen der menschllichen Kopfarbeit

著者 Joseph Dietzgen, 1828-1888

(1)訳書の傍点は「下線」で表した。
(2)旧字体は新字体に改めた。
(3)難読漢字と思われるものには適宜「(ルビ)」を振った。
(4)長い段落は字下げをせずに改行し、小段落に分けた。

 
   まえがき
   一 序論
   二 純粋理性或は一般的思惟能力
   三 事物の本質
   四 自然的科学における理性の実践
    (a) 原因と結果
    (b) 精神と物質
    (c) 力と質量
   五 「実践理性」或は道徳
    (a) 賢いもの、理性的なもの
    (b) 道徳的正
    (c) 神聖なもの
   論理学に関する手紙
   訳者註
   解 説


まえがき

−p.9−

 この著書と著者との個人的関係について、好意ある読者と好意のない批評家とに対し、ここで若干説明しておくことは許されるであろう。私が予想する差当たっての非難は学識の欠如ということである。それは、直接に著作そのものにおいてよりも、むしろ間接に文章の行間にあらわれるであろう。私は自問する。お前の有名な先輩たちすべての著書にまだ精通していないのに、学問の英雄たち、特にアリストテレスカントフィヒテヘーゲル等によって扱われた問題に関する著作を公にすることはいかにしてお前に許されるであろうか。お前はせいぜいとっくに成しとげられたことを繰返すだけではないか。

 私は答える。哲学が科学の土地に播いた種子は、とっくに生育して実を結んでいる。歴史が生みだすものは、歴史的に発生し、発芽し、成長し、そして新しい形で永久に行き続けるために消失する。はじめの行為、もとの仕事は、それを産み出した時代の諸々の状態および関連との接触においてのみ実り多いものである。しかし、その仕事もその核心を歴史に引渡してしまうと、ついには空虚な殻になる。過去の科学が産み出した積極的なものは、もはやその著者の文字の中には生きておらず、現在の科学のうちでその精神以上のもの、その血となり肉となっている。たとえば、物理学の成果を知り、それに加えて新しいものを産み出そうとするためには、予めこの科学の歴史を研究し、従来発見された諸法則をその源泉から調べてかかる必要はない。むしろ反対に、集中された力は分割された力より必ずヨリ多くのことを成しとげるものであるから、歴史的研究は一定の物理学の課題の解決のためには妨げになるだけかもしれない。このような意味で、その他の知識の欠けていることは私にとっては有利であると思う。というのは、それだからこそ私の特殊の問題に徹底的に自分を捧げることができるからである。この問題を研究し、それについて現在知られているすべてのことを学ぶために、私は熱心に努力を重ねた。

私は幼少のころから緻密な、体系的な世界観に対する要求から思索しはじめ、そしてついに人間の思惟能力の帰納的認識において満足を見いだしたと思っているので、その限りにおいて哲学の歴史は私の一身において繰返されたと云ってもよい。

 さて、私を満足させたもの、そして私が述べようとしているものは、思惟能力の多様な現象でもなく、多彩な様式でもなくそのごく一般的な形式、普遍的な本質である。従って私の問題は極めて単純かつ特殊であり、絶対に単一であるので、それをさまざまに叙述することは私にとって困難であり、屡々(しばしば)同じことを繰返すのも殆(ほと)んど避けえないことであった。同時に、精神の本質に関する問いは通俗的な問題であり、専門の哲学者達によってだけではなく、科学一般によっても研究されているものである。またそれ故、科学の歴史がこの問題に寄与したところのものは、一般に現代の科学的観念の中に生きている筈(はず)である。それで私はこの源泉で満足していいであろう。

 次に私は、この著作の著者であるにも拘らず、哲学の教授ではなく、本職は職人であることを告白しておきたい。それ故、「靴屋よ、お前の分際(ぶんざい)を守れ」という古い訓戒を私に与えたい人々には、私はカール・マルクスと共に次のように答える。「時計商のワットが蒸気機関を、理髪師のアークライトが紡績機械を、宝石細工師のフルトンが蒸気船を発明した瞬間から、諸君の至上の(nec plus ultra)手工業的な智慧は恐るべく馬鹿げたものとなった(1)。」私をこれらの偉大な人達の中に加えようとは思わないが、しかしこれらの先例は私が見習ってもいいものであろう。更にまた、私の問題の性質は、私がそれに属することを、名誉とはしないまでも、満足を感ずるところの階級と特別に関係がある。

 私はこの著書において、思惟(しい・しゆい)能力を一般者の器官として論ずる。支配階級がその特殊の階級的利害のために一般者を承認することを妨げられている限りにおいて、苦しんでいる第四階級即ち労働階級がはじめてこの器官の真の担い手である。この制限は先ず何よりも人間関係の世界に関連するであろう。しかし、この関係が一般的な人間関係ではなく、階級関係である限りにおいて、事物に対する見解もまたこの制限された立場から制約を受けざるをえない。客観的認識は主体が理論的自由を持つことを前提とする。コペルニクスは、地球が運動し太陽が静止しているのを見る前に、自分の地上の立場を度外視しなければならなかった。さて、思惟能力はすべての関係をその対象とするものであるから、自己自身を純粋に或(あるい)は真実に捉(とら)えるためには、すべてを度外視しなければならない。我々はすべてを思惟によってのみ把握するのであるから、純粋思惟、一般的思惟を認識するためには、我々はすべてを度外視しなければならない。

人間が一つの制限された階級的立場に縛(しば)られている限り、この課題はあまりに困難であった。歴史的発展が、支配と隷属(れいぞく)との最後の対立を解消するため努力しうるに至ってはじめて、偏見から解放され、一般者における判断、認識能力、頭脳活動を真実に或は赤裸々に捉えることができる。大衆の直接的な一般的自由を眺めうる歴史的発展――この発展には歴史的前提があり、その問題については誤解が非常に多いであろうが――がはじめて、すなわち第四階級の新しい時代がはじめて、幽霊の信仰を無くし、あらゆるお化けの最後の創造者、純粋精神の正体を暴露することができる。第四階級の人間こそはついに「純粋の」人間である。彼の利害はもはや階級的利害ではなく、大衆の利害、人類の利害である。すべての時代において大衆の利益は支配階級の利害に結びつけられていたという事実、更に大衆がユダヤの長老、アジアの征服者、古代の奴隷所有者、封建貴族、同業組合の親方によって、特に近代の資本家たちによって、更にその上資本主義的なケーザル達によって、絶えず抑圧されていたにも拘(かかわ)らず、というよりも抑圧されていたからこそ、人類は絶えず「進歩した」という事実――この事実はその終局に近づきつつある。過去の階級関係は必然的に一般的発展を促(うなが)すことになった。今日ではこの発展は大衆が自己を意識する段階にまで到達している。これまでの人類は階級対立によって発展して来た。今や人類は直接自分で自己を発展させようとするところまで来た。階級対立は人類の現象であった。労働階級はこの階級対立を止揚し、人類を一つの真理たらしめようとしている。

 宗教改革が一六世紀の現実の状況によって制約され、電信機の発明もまた然りであるように、我々の人間の頭脳活動に関する理論の探究も一九世紀の現実の状況によって制約されている。そういう意味でのこの小著の内容も決して個人的な労作ではなく、歴史的な産物である。それで私は――神秘的な文句を許されるならば――自分は理念の器官であるにすぎないと感じている。叙述は私のものであるから、好意をもって大目に見られることをここでお願いしておく。読者はその暗黙の或は声高の異議を、欠陥の多い形式、私の物の言い方に対してではなく、私の言おうとしている内容へ向けられることをお願いする。私を故意に文字の間で誤解することなく、精神において、一般的なものにおいて、理解されるようお願いする。私がこの理念を発展させるのに成功しなかったにしても、従ってまた私の声が書物の氾濫している我々の市場で窒息させられようとも、真実はヨリ有能な代表者を見出すであろうことを私は確信している。

一八六九年五月一五日         

ジークブルクにおいて      

製靴工 ヨーゼフ・ディーツゲン