I フォイエルバハ




唯物論的な見かたと観念論的な見かたとの対立

−p.19−

  ドイツのイデオローク(3)たちの報道によると、ドイツはこの数年間に比類のない変革をとげたという。シュトラウスにはじまったヘーゲル体系の腐朽過程は一つの世界動乱にまで発展して、このなかへすべて『過去の権力』(Mächte der Vergangenheit)がひきずりこまれている。この全般的な混沌のなかで強大な諸王国ができあがったとおもえば、やがてまたほろびさり、英雄たちがほんのしばらく姿をあらわしたかとおもえば、より大胆なより有力な競争者たちによってふたたび暗黒のなかへなげもどされた。それは一つの革命だった。これにくらべればフランス革命も児戯にひとしい。それは一つの世界闘争だった。これのまえにはディアドコスたち(4)の闘争もつまらないものにみえる。これまでにないあわただしさで諸原理がおしのけあい、思想の英雄たちがひしめきあった。そして一八四二年から四五年までの三年間にドイツでは、いつもの三世紀間よりも一層おおくのものがかたづけられた。

  すべてこれらのことは純粋思想のなかでおこったことになっている。

  問題となっているのはたしかに一つの興味ある事件、すなわち絶対精神の腐敗過程ということである。生命の最後の火花がきえたのち、この残骸のいろいろな成分は分解し、新しい化合をし、そして新しい物質をつくった。哲学的産業家たちは、これまでは絶対精神を搾取してくらしてきたが、いまやあたらしい化合に熱中した。だれもみな自分の手におちたわけまえの売りさばきをできるだけ勤勉にいとなんだ。これが競争なしにすむわけはなかった。競争ははじめはかなり地味に手がたくおこなわれた。あとになってドイツ市場があふれだし、どんなに骨をおっても商品が世界市場でさばけなくなると。商売はいつものドイツ流儀にしたがって工場式の生産および見せかけの生産、品質の劣悪化、原料のごまかし、商標の偽造、空取引、空手形の使用、なんの現実的基礎もない信用制度によってそこなわれてしまった。競争はついには苛烈な闘争になった。そしてこの闘争がいまわれわれに世界史的な変動として、またもっともすばらしい成果と収穫をうみだすものとしてはやしたてられ、つくりあげられているのである。

  実直なドイツ市民の胸のうちにさえありがたい愛国心をよびおこすこの哲学的な山師口上をただしく評価するためには、またこの青年ヘーゲル派の運動全体のつまらなさと地方的なせまくるしさを、とくにこれら英雄たちのほんとうの業績とこれらの業績についての幻想との悲喜劇的な対照をはっきりさせるためには、この全光景をひとまずドイツのそとにある立場からながめておくことが必要である。

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A イデオロギー一般、ことにドイツの

−p.21−

  ドイツ的批判はその最近の努力にいたるまでの哲学の地盤をはなれなかった。その一般的・哲学的な諸前提をしらべるどころか、まさにそのあらゆる問題が一定の哲学体系すなわちヘーゲル体系の地盤のうえに成長したのである。たんにその解答のうちばかりでなく、すでに問題そのもののうちに一つの神秘化がひそんでいた。ヘーゲルへのこのような依存こそ、これら最近の批判家たちがいずれもヘーゲルを超克していると主張しながら、だれもヘーゲル体系の包括的な批判をこころみすらしなかった理由なのである。ヘーゲルにたいするかれらの論争およびかれら相互の論争は、それぞれのものがヘーゲル体系の一側面をぬきだして、これを全体系ならびに他の者たちがぬきだした諸側面につきつけることにかぎられている。しかもはじめは実体や自己意識というような純粋な、にせものでないヘーゲル的カテゴリー(5)がぬきだされていたが、あとではこれらのカテゴリーも類、唯一者、人間などという一層世俗的な名によって世俗化されるようになった。

  シュトラウスからシュティルナーまでのドイツの哲学的批判はすべて宗教的表象の批判にかぎられている。出発点になったのは現実の宗教および本来の神学だった。宗教的意識、宗教的表象とはなにかということは、その後の経過のうちでいろいろに規定された。進歩のあった点は、支配的だという形而上学的、政治的、法律的、道徳的およびその他の表象をも宗教的あるいは神学的表象の領域に包摂したこと、おなじくまた政治的、法律的、道徳的意識を宗教的あるいは神学的意識であると宣言し、政治的、法律的、道徳的人間、結局において『人間』(der Mensch)を宗教的であると宣言したことにある。宗教の支配は前提されていたのだ。つぎつぎにあらゆる支配的な関係が宗教の関係であると宣言され、そして礼拝に、法の礼拝、国家の礼拝などにかえられてしまった。いたるところで教条と教条への信仰とだけが問題とされた。世界はいよいよ広い範囲にわたって聖列にくわえられ、ついに尊敬すべき聖マクスは世界をひとまとめにして聖列にくわえ、きっぱりとそれをかたづけてしまうことができた。

  旧ヘーゲル派(6)はあらゆるものを、これがヘーゲルの論理的カテゴリーに帰着させられると、すぐに理解した(begreifen)。青年ヘーゲル派はあらゆるものを、宗教的表象とすりかえるか神学的であると宣言するかによって批判した。青年ヘーゲル派も現存の世界における宗教の、概念の、一般者の支配にたいする信仰にかけては旧ヘーゲル派と一致する。ただ一方がこの支配を正当として祝福するのに、他方はそれを横奪として攻撃するにすぎない。

  これら青年ヘーゲル派では観念、思想、概念、一般にかれらが独立化させた意識の産物が人間の本来の桎梏(しつこく)とみなされているが、ちょうどこのことは、それらが旧ヘーゲル派で人間社会の真の紐帯(ちゅうたい)であると宣言されているのとおなじである。だから青年ヘーゲル派はただ意識のこれらの幻想にたいしてたたかいさえすればよいことになるのは、いうまでもない。かれらの空想からいえば人間の関係、その全行動、その桎梏と制限はその意識の産物なのだから、青年ヘーゲル派が当然にも人間に課する道徳的な要請は、人間の現在の意識を人間的な、批判的な意識あるいは主我的な意識ととりかえ、それによって人間の制限をとりのぞけということになる。意識をかえよというこの要求は、つまり現存するものに別の解釈をせよ、すなわちそれを別の解釈によって承認せよという要求になる。青年ヘーゲル派のイデオロークたちはかれらのいわゆる『世界をゆるがす』(welterschütternd)言辞にもかかわらず最大の保守主義者なのだ。かれらのうちのもっとも新進の人々がただ『言辞』(Phrasen)にたいしてたたかうと主張しているのは、かれらの活動をあらわす正しい表現をみつけたわけである。ただかれらがわすれているのは、自分たち自身もこれらの言辞にやはり言辞以外のなんにも対置していないということ、そしてこの世界の言辞を攻撃するだけではけっして現実的な現存世界を攻撃することにはならないということである。この哲学的批判が達成することのできた唯一の成果は、キリスト教についてのいくらかの、しかも一面的な宗教史上の解明だった。そのほかのそれの主張はみな、このつまらぬ解明によって世界史的な発見を提供したというそれの公言を、さらにかざりたてるものにすぎない。

  これらの哲学者たちのうちのだれも、ドイツの哲学とドイツの現実とのつながり、それの批判とのそれ自身の物質的循環とのつながりを問題とすることにはおもいおよばなかった。

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−p.23−

  われわれが出発する前提はなんら任意のもの、なんら教条ではない。それは、ただ想像のうちでのみ捨象されうるところの現実的な前提である。それは現実的な諸個人、かれらの行動であり、そして眼の前にみいだされもすれば自分自身の行動によってつくりだされもするところのかれらの物質的な生活条件である。したがってこれらの前提は純粋に経験的なやりかたで確認されうるのである。

  すべての人間史の第一の前提はもちろん生きた人間的個体の生存である。したがって確認されうる第一の事態はこれら個人の身体的組織と、そしてこれによってあたえられるところの、その他の自然へのかれらの関係とである。われわれはここではもちろん人間自身の肉体的性状にも、また人間の眼のまえにみいだされる自然条件すなわち地質学的、地理学的、風土的その他の諸関係にもたちいるわけにはいかない。すべての歴史記述はこれら自然的な基礎と、歴史の行程での人間の行動によるこれらのものの変更とから出発しなければならない。

  人間は意識によって、宗教によってそのほか任意なものによって動物から区別されることができる。しかし人間自身は、かれらがかれらの生活手段を生産し(produzieren)はじめるやいなや、自分を動物から区別しはじめる。この一歩は、かれらの肉体的組織によって制約されているものである。人間は、かれらの生活手段を生産することによって、間接に彼等の物質的生活そのものを生産する。

  人間が彼らの生活手段を生産する方式は、まず第一に、眼の前にみいだされそして再生産さるべき生活手段そのものの性状にかかっている。生産のこの方式は、たんにこれが諸個人の肉体的生存の再生産であるという面からだけ考察されてはならない。それはむしろすでにこれら個人の活動の一定の仕方であり、かれらの生活を表出する一定の仕方であり、彼らの一定の生活様式(Lebensweise)である。諸個人がかれらの生活を表出する仕方は、すなわちかれらが存在する仕方である。したがって、かれらがなんであるかはかれらの生産に、すなわちかれらがなにを生産するか、ならびにまたいかに生産するかに合致する。したがって諸個人がなんであるかは、かれらの生産の物質的条件にかかっている。

  この生産は人口増加とともにはじめてあらわれる。人口の増加はそれ自身また諸個人相互のあいだの交通(Verkehr)を前提する。この交通の形態はまた生産によって制約されている。

  種々の国民相互の関係は、どの程度までこれら諸国民のそれぞれがその生産力、分業、内部交通を発展させているかにかかっている。この命題は一般に認められている。しかしながらたんに他国民への一民族の関係ばかりでなく、この国民そのものの内部編成全体もまたその生産とその内部および外部の交通との発展段階にかかっている。どの程度まで一国民の生産力が発展しているかは、分業が発展している程度によってもっとも明白に示される。どんなあたらしい生産力でも、これがいままですでに知られた生産力のたんに量的な拡張(たとえば所有地の開墾)でないかぎり、分業のあたらしい発達を結果としてともなうのである。

−p.25, l.14−

  一国民の内部での分業は、まず農耕の労働からの産業および商業の労働の分離を、そしてそれとともに都市農村との分離および両者の利害の対立をもたらす。さらに分業の一層の発展は産業労働からの商業労働の分離をみちびく。それと同時にまた、これら種々の部門の内部での分業によって、さらに一定の労働に協働する諸個人のあいだにも種々の部門が発展してくる。これら個々の部門の相互の地位は農耕労働、産業労働、商業労働の経営様式(家父長制、奴隷制、諸身分、諸階級)によって制約されている。これと同じ関係が、交通が一層発展すれば種々の民族の相互の関係にあらわれてくる。

  分業の種々の発展段階は、とりもなおさず所有の種々の形態にほかならない。すなわち分業のその都度の段階は、労働の材料や用具や生産物への関係からみての個人相互の関係をも規定するのである。

  所有の第一の形態は種族所有である。これは、一民族(Volk)が狩猟と漁獲で、また牧畜またはせいぜい農耕でくらすところの生産の未発達な段階に照応する。ただしこの最後のばあいにはそれは大量の未開墾地を前提する。分業はこの段階ではまだ非常にわずかしか発展していず、そしてそれは家族のなかにあたえられた自然成長的な分業の一層拡張されたものにとどまっている。したがって社会的編成も家族の拡張されたものにとどまっている。すなわち家父長的な種族首長、これらのもとに種族員、最後に奴隷というふうになっている。家族のなかに潜在する奴隷制は、人口と欲望のとの増加につれて、そしてまた外部との交通の拡張すなわち戦争ならびに交易の拡張につれて、はじめて次第に発展してゆく。

  第二の形態は古代的な共同体所有・国家所有である。これはとくに契約または征服によっていくつかの種族が一つの都市へ合体することからうまれるのであって、この場合にも奴隷制はやはり存続する。共同体所有とならんですでに動産所有、そして後にはまた不動産私有が発展するが、しかしそれは共同体私有に従属した変則的な形態としてである。国家公民はただかれらの共同体のうちでだけかれらの労働奴隷にたいする勢力をもっており、そのためにもすでに共同体所有の形態にしばられている。共同体所有は活動的な国家公民たちの共同体の私有なのであって、かれらは奴隷への対立からどうしてもこのような自然成長的な連合様式にとどまらざるをえない。だからこれを基礎とする社会の全編成、そしてこれとともに民族の勢力は、とくに不動産私有が発展するのとおなじ程度でくずれてゆく。分業はすでに一層発展している。われわれはすでに都市と農村との対立を、のちには諸国家間すなわち都市の利害を代表する国家と農村の利害を代表する国家とのあいだの対立を、そして諸都市そのものの内部にも産業と海上貿易との対立をみいだす。市民と奴隷とのあいだの対立をみいだす。市民と奴隷とのあいだの階級関係は完全に発達している。

  この歴史観全体に征服という事実は矛盾するようにみえる。今までは暴力、戦争、掠奪、強盗殺人などが歴史の推進力とされてきた。われわれはここでは主要な点だけをのべさえすればよかろう。したがってわれわれはただあのいちじるしい例、すなわち蛮族による古代文明の破壊およびこれにつづけて最初からやりはじめられたあたらしい社会編成の形成だけをとりあげよう(ローマと蛮人、封建制とガリア人、東ローマ帝国とトルコ人)。征服する蛮族のばあいには、すでにうえにふれておいたように、戦争そのものがまだひとつの正常な交通形態である。そして生産様式がかれらにとって唯一可能な伝来の粗野なものであるときに人口の増加があたらしい生産手段の必要をつくりだせばつくりだすだけ、この交通形態はますます熱心に利用されるようになる。イタリアではこれに反して土地所有の集中(これは買いしめや負債によるほかなお相続によってもひきおこされた、なぜなら淫風がはなはだしくて結婚がまれだったために旧家がだんだんに死にたえて、その領地が少数の人々の手に帰したから)および牧場へのそれの転化(これは今日もなお作用している普通の経済学的諸原因によるほか、掠奪した穀物や貢納される穀物の輸入と、そこからおこってきたイタリア産の穀物にたいする消費者の欠乏とによってひきおこされた)によって、自由民はほとんど姿をけし、奴隷そのものもたえまなく死にたえていって、いつもあたらしい奴隷によっておぎなわれねばならなかった。奴隷制はやはり全生産の基礎だったのである。平民は、自由民と奴隷とのあいだにあって、ルンペン・プロレタリアート以上のものにはなれなかった。一般にローマは決して都市以上のものにはならず、諸地方とはほとんどただ政治的なつながりをたもっていた。そしてもちろんこのつながりもやはりまた政治的な諸事件によって中断されえたのであった。――

  私有の発展につれて、ここにはじめて、われわれが近代的な私有のばあいに――ただし一層拡大された規模で――ふたたび見いだすようになるものとおなじ関係があらわれてくる。一方では私有の集中がそれである。これはローまでは非常にはやくからはじまり(その証拠はリキニウスの耕地法(7)である)、内乱以来そしてとくに帝政のもとで非常に急速にすすんだ。他方ではこれに、関連してプロレタリアートへの平民的小農の転化がそれである。ただしこのプロレタリアートは、有産市民と奴隷とのあいだにたつその中途半端な地位のために、なんら独立な発展をするにいたらなかった。

  第三の形態は封建的あるいは身分的所有である。古代が都市およびその小領域から出発したとすれば、中世は農村から出発した。広い地面に分散していた既存のまばらな人口は、征服者たちによってなんらおおきな増加をうけなかったが、それが出発点のこのような変化の条件となった。だからギリシアやローマとは反対に封建的発展は、ローマによる征服と当初これにむすびついてなされた農業の拡大とによって用意されたところの、はるかに広大な地域ではじまっている。ほろびつつあるローマ帝国の最後の数世紀と蛮族自身による征服とは大量の生産力を破壊した。農耕はさがり、産業は販路不足のためにおとろえ、商業はすたれあるいは強引にうちきられており、農村および都市の人口は減少していた。これら既存の関係とこれによって制約された征服の組織様式とが、ゲルマン人の軍制の影響のもとに封建的所有を発展させたのである。この封建的所有もまた、種族所有および共同体所有とおなじように、一つの共同体にもとづいている。しかしこの共同体に直接の生産階級として対立するのは、古代的な共同体のばあいのように奴隷ではなく、農奴的な小農である。封建制の完全な発達と同時に、さらに都市にたいする対立がつけくわわる。土地所有の位階制的編成およびこれにつながる武装した家臣団は、農奴にたいする勢力を貴族にあたえた。この封建的編成は、あたかも古代的な共同体所有とおなじように、支配される生産階級にたいする一つの連合だった。ただ連合の形態と直接の生産者たちへの関係とがちがっていたにすぎない。なぜなら、ちがった生産条件がそこにはあったからである。

−p.30 l.1−

  土地所有のこの封建的編成に対応して都市には組合的所有、すなわち手工業の封建的組織があった。所有はここではおもに各個人の労働に存した。連合した掠奪貴族にたいする連合の必要、産業家が同時に商人でもあった時代における共同の市場店舗の必要、さかえつつある都市へながれこむ逃散農奴たちの競争の増大、全土の封建的編成は同業組合(Zünfte)を生まれさせた。個々の手工業者たちの小資本が次第にたくわえられたこと、そして人口の増大にもかかわらずかれらの数が安定していたことは、職人・徒弟の関係を隷属させた。そしてこの関係は農村のばあいに似た位階制を都市にも成立させたのであった。

  したがって封建時代においては主要な所有は、一方では土地所有およびこれにしばりつけられた農奴労働に存し、そして他方では職人の労働を支配する小資本をともなう自己の労働に存した。両者の編成は狭い生産関係――僅少かつ粗野な土地耕作および手工業的な産業――によって制約されていた。分業は封建制の開花期にはあまりおこなわれなかった。どの国も自分のなかに都市と農村との対立をもっており、身分編成は非常にあざやかにうちだされてはいたが、しかし農村での王侯、貴族、僧侶および農民の差別、そして都市での親方、職人、徒弟およびやがてまた日雇賎民の差別のほかにはなんら重要な分割はおこらなかった。農耕においては分業は零細な耕作によって困難にされ、これとならんで農民自身の家内工業がおこってきたし、産業においては分業は個々の手工業そのもののうちでは全然おこなわれてはおらず、これら手工業のあいだでもごくわずかしかおこなわれなかった。産業と商業との分割は旧都市にはすでに存在していたが、新都市では、のちに諸都市がたがいに関係をむすぶようになってから、はじめて発展した。

  比較的おおきな国々を封建的王国にまとめることは、土地貴族にとっても都市にとっても必要なことだった。だから支配階級すなわち貴族の組織はどこでもひとりの君主を頭にいだいていた。

−p.31, l.5−

  したがって事実はこうなる。すなわち、一定の様式で生産的に活動している一定の個人たちは、これら一定の社会的および政治的関係をとりむすぶ。経験的な観察は、それぞれ個々の場合において社会的および政治的編成と生産とのつながりを、経験的に、そして少しの神秘化や思弁もまじえずに呈示しなければならない。社会的編成と国家はたえず一定の個人たちの生活過程からうまれる。ただしこれらの個人というのは、かれら自身のあるいは他人の表象にあらわれるかもしれないような個人ではなく、現実にあるがままの、すなわち活動し物質的に生産しているままの個人であり、したがって一定の物質的な、そして彼らの恣意から独立な制限、前提および条件のもとで活動しているままの個人である。

  観念、表象、意識の生産はまず第一に人間の物質的活動および物質的交通のうちに、現実的生活の言語のうちに直接におりこまれている。人間の表象作用、思考作用、精神的交通はここではまだかれらの物質的行動の直接の流出としてあらわれる。一つの民族の政治、法律、道徳、宗教、形而上学などの言語にしめされるような精神的生産についても、おなじことがいえる。人間はかれらの表象、観念などの生産者である。ただしこの人間というのは、かれらの生産力とそしてこれら生産力に対応する交通(その末端の形成体まで含めての)との一定の発展によって制約されているような、現実的な、活動しつつある人間である。意識(Bewusstsein)とは決して意識的存在(das bewusste Sein)以外のものではありえず、そして人間の存在とはかれらの現実的な生活過程である。イデオロギー全体のなかで人間およびかれらの関係があたかも暗箱(8)のなかでのようにさかだちしてあらわれるにしても、この現象は、あたかも網膜上の対象のさかだちがかれらの直接の肉体的な生活過程からうまれるのとおなじように、かれらの歴史的な生活過程からうまれるのである。

  天上から地上へおりるドイツ哲学とはまったく反対に、ここでは地上から天上へのぼる。すなわち、人間がかたり、想像し、表象するところのものから出発し、あるいはまたかたられ、思考され、想像され、表象される人間から出発して、ここから具体的な人間にたどりつくのではない。現実的に活動している人間から出発し、かれらの現実的な生活過程からこの生活過程のイデオロギー的な反射および反響の発展をも叙述するのである。人間の頭のなかのもやもやした形成物もまた、かれらの物質的な、経験的に確認できる、そして物質的前提にむすびついた生活過程の必然的な昇華物である。かくて道徳、宗教、形而上学その他のイデオロギーおよびそれらに対応する意識形態は、もはや独立性のみせかけをたもたなくなる。それらはなんら歴史をもたず、なんら発展をもたない。むしろ、かれらの物質的生産とかれらの物質的交通とを発展させつつある人間が、かれらのこの現実とともにかれらの思考およびかれらの思考の生産物をもかえてゆくのだ。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。第一の見かたでは生きた個人としての意識から出発するが、第二の、現実的生活に対応した見かたでは現実的な生きた諸個人そのものから出発し、そして意識をただかれらの意識としてのみ考察する。

  この見かたは無前提ではない。それは現実的な前提から出発し、一瞬間もこれをはなれない。それの前提は、なにか空想的な封鎖と固定化のうちにある人間ではなく、一定の条件のもとでのかれらの現実的な、経験的に直観されうる発展過程のうちにある人間である。この活動的な生活過程が叙述されるやいなや、歴史は、みずからもまだ抽象的にとどまる経験論者たちのばあいのような死んだ事実のよせあつめであることをやめ、あるいはまた観念論者たちのばあいのような想像された主体の想像された行動であることをやめる。

  かくて思弁のやむところ、現実的な生活において、現実的な実証的な科学がはじまる。すなわち人間の実践的な活動の、実践的な発展過程の叙述がはじまる。意識についての言辞はやみ、現実的な知識がそれにかわらねばならない。独立的な哲学は現実の叙述がはじまるとともにその存在の媒質をうしなう。それにかわりうるものは、たかだか、人間の歴史的発展の考察から抽象されうるところのもっとも一般的な諸成果の集約にすぎない。これらの抽象は、それだけとして現実的な歴史からきりはなせば、なんの価値をももたない。それらはただ歴史的資料の整理をたやすくし、それの個々の層の序列を示唆するのに役だちうるだけである。しかしそれらは決して哲学のように処方箋や図式をあたえて、これにしたがって歴史の諸時代を整理できるようにするのではない。困難さはむしろ反対に、ある過去の時代のものにせよ現代のものにせよ資料の考察と整理に、すなわち現実的な叙述にとりかかるとき、はじめておこってくる。これらの困難をとりのぞくことはいろいろな前提によって制約されているが、これらの前提はけっしてここではあたえられることができず、各時代の諸個人の現実的な生活過程および行動の研究によってはじめてあきらかとなる。われわれはここでは、われわれがイデオロギーにむかってもちいるところのこれら抽象のうちのいくつかをとりだし、それらを歴史上の実例について解明してみよう。

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 〔1〕 歴  史

−p.34, l.9−

  *無前提的であるドイツ人のもとでは、われわれはあらゆる人間的存在の、したがってまたあらゆる歴史の第一の前提を確認することからはじめなければならない。すなわち人間は、『歴史をつくり』(Geschichte machen)うるためには、生きてゆくことができなければならぬという前提である。**ところで生きるのに必要なのはなによりもまず食うことと飲むこと、住むこと、着ること、そのほかなおいくつかのことである。

したがって第一の歴史的行程はこれらの欲望をみたすための手段の産出、すなわち物質的生活そのものの生産である。しかもこれは、ただ人間の命をつなぐためにも、今日なお数千年まえとおなじく日々刻々やりとげられねばならない歴史的行為であり、あらゆる歴史の根本条件なのである。たとえ感性が聖ブルーノのばあいのように一本の杖という最小限のものにひきさげられていても、その感性はこの杖の生産という活動を前提する。

したがってあらゆる歴史的理解にさいしての第一の点は、この根本事実をその全意義とその全範囲とにわたって観察し、それに当然の地位をみとめることである。周知のとおりこのことをドイツ人は決してしなかった。だからかれらはまだ歴史のための地上の土台をもったことがなく、したがってまたひとりの歴史家をももったことがない。フランス人とイギリス人は、たとえこの事実といわゆる歴史とのつながりをきわめて一面的にとらえたにすぎず、ことに政治的イデオロギーにとらわれていたあいだはそうであったにしても、しかも市民社会の歴史、商業および産業の歴史をはじめて書くことによって、とにかくも歴史叙述に唯物論的な土台をあたえる最初のこころみをなしたのである。

――第二の点は、満足された最初の欲望そのもの、満足させる行動、および満足のためのすでに手にいれた道具があたらしい欲望へみちびくということであり、――そしてあたらしい欲望のこの産出こそ第一の歴史的行為なのである。ドイツ人の偉大な歴史的智恵がどんなたちのものかということも、ここからみればすぐにわかる。すなわちかれらは、実証的な資料がつきてしまって、神学的な愚論も政治的な愚論もならべられないところでは、まったく歴史を出現させずに『前史時代』(vorgeschichtiche Zeit)を出現させ、しかもどうして『前史』(Vorgeschichte)というこの愚論から本来の歴史へはいるかについては、われわれに説明しない――それなのに他方ではかれらの歴史的思弁は特別にこの『前史』に身をいれている。というのは、思弁がそこでは『なまの事実』(rohes Faktum)の干渉をうける心配がないと信じているからであり、同時にまたここではその思弁的衝動を存分にかりたてて仮説を幾千でもつくったり、くつがえしたりすることができるからである。

――ここにはじめからただちに歴史的発展のうちへいりこんでくるところの第三の関係は、自分自身の生活を日々あらたにつくる人間が他の人間をつくりはじめること、すなわち繁殖しはじめることであり――夫と妻との、親と子との関係、すなわち家族(Familie)である。この家族は、はじめは唯一の社会的関係であるが、あとになって欲望の増加があたらしい社会的関係をうみだし、そして人口の増加があたらしい欲望をうみだすようになると、ひとつの従属的な関係となる(ドイツでは例外)。そしてそのときには家族は、ドイツにおいてよくなされるように『家族の概念』(Begriff Familie)にしたがってではなく、存在する経験的な資料にしたがって処理され、展開されなければならない。〔原註〕 ただし社会的活動のこれら三つのちがった段階としてとらえらるべきではなく、まさにただ、歴史の端初以来そして最初の人間以来同時に存在してきて今日なお歴史のうちに有力にはたらいているところの三つの面、すなわちドイツ人にわかるように書けば三つの『契機』(Momente)としてのみとらえられるべきである。

――ところで生活の生産は労働における自己の生産も生殖における他人の生産も、そのまますぐに二重の関係として――一方では自然的な、他方では社会的な関係として――あらわれる。ここに社会的というのは、どんな条件のもとにしても、どんな様式によるにしても、またどんな目的のためにしても、幾人かの、個人の協働という意味である。ここからつぎのことがあきらかになる。すなわち、一定の生産様式あるいは産業段階はいつも一定の協働様式あるいは社会的段階とむすびついており、この協働様式がそれ自身一つの『生産力』(Produktivkraft)であるということ、そして人間の達しうる生産諸力の量は社会的状態を制約し、したがって『人類の歴史』(Geschichte der Menschheit)はいつも産業および交換の歴史とのつながりにおいて研究され論究されねばならないということである。

ところでそのような歴史を書くことがドイツでは不可能であるということも、またあきらかである。なぜなら、ドイツ人にはそのための理解力と資料だけではなく、『感性的確知』(sinnliche Gewissheit)もまた欠けているからであり、そしてラインのむこうがわではもはやなんら歴史が進行していないため、そこではこれらの事物についてなにも経験をすることができないからである。

したがってすでにはじめからわかるように、人間相互のあいだには一つの唯物論的なつながりがあって、これは欲望と生産の様式によって制約され、そして人間そのものとおなじようにふるいのである――このつながりは、人間をことさらにつなぎあわせるようななにか政治的あるいは宗教的な愚論が存在しなくても、いつもあたらしい諸形態をとり、したがってまた『歴史』を提供する。

――すでに根源的な歴史的諸関係の四つの契機、四つの面を考察したいま、はじめてわれわれははじめて人間が『意識』(Bewusstsein)をももっていることをみいだす***。しかしこれもはじめから『純粋な』(rein)意識としてではない。『精神』(Geist)は物質に『つかれて』(behaftet)いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は運動する空気層すなわち音響の、つまり言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。ひとつの関係が存在するばあいには、それは私にとって存在する。動物はなにものにも『関係する』(sich verhalten)ことなく、また一般に関係しない。動物にとっては他のものへのその関係は、関係としては存在しない。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。

《われわれは人間が「意識」をももっていることをことを見いだす。しかしこれもそもそもはじめから、「純粋な」意識としてあったのではない。「精神」には物質が「憑きもの」だという呪いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気層、音、約言すれば言語の形式において現われる。言語は意識と同じほど古い。――言語は実践的な意識であり、他の人間たちにたいしても現存するところの、したがって私自身にとってもそれでこそはじめて現存するところの、現実的な意識であり、そして言語は意識と同じく他の人間たちとの交通の必要、必須ということからこそ成立する。なんらかの間柄が現存する場合、それは私にとって現存するのであり、動物はなにものにたいしてもなんらかの「間柄をもつ」ということがなく、そこにはおよそ間柄というものがない。動物にとっては他のものにたいする間柄は間柄としては現存しない。したがって、意識はそもそものはじめからすでに一つの社会的産物なのであり、およそ人間たちが存在するかぎり、社会的産物であることをやめない。(『マルクス=エンゲルス全集 3』大月書店 p.26)。》

《言語は意識と同じ年である。言語は実践的な、他の人間たちにたいしても現存する【がゆえにはじめてまた私自身にたいしても現存する】現実的意識である。〈言語〉は、意識と同様に〈交通〉他の人間たちとの交通への欲求【と必要】からはじめて生じる。【〈私を取り囲んでいるものにたいする私の関係が私の意識である。〉ある関係が現存するところには、その関係は私にたいして現存する〔Wo ein Verhältnis existiert es für mich〕。動物は〈対自的にはしない〉なんにしても関係行為〔sich verhalten〕せず、一般に関係行為しない。動物にたいしては他のものへの動物の関係は関係としては現存しない】」(『ドイツ・イデオロギー』(廣松渉訳)二八頁。【 】内はのちに挿入加筆、〈 〉内は削除部分、ゴシック体=強調部分はマルクスの筆跡)

意識はもちろん最初はたんに身ぢかな感性的環境についての意識にすぎず、また意識的になりつつある個人のそとにある他の人物および事物とのかぎられたつながりの意識にすぎない。それは同時に自然の意識でありそして自然ははじめ人間にむかってまったくよそよそしい全能かつ不可侵な力としてあらわれ、人間はそれにたいして純粋に動物的に関係し、かれらは禽獣のようにそれに威圧される。したがってそれは自然について純粋に動物的な意識である(自然宗教)。

――ここですぐにわかるであろう。この自然宗教あるいは自然へのこの一定の関係は社会形態によって制約されており、またその逆でもあるのだ。どこでもそうであるように、ここでもまた自然と人間との同一性がはっきりあらわれて、自然にたいする人間のかぎられた関係がかれら相互のかぎられた関係を制約している。というのは、まさに自然がまだほとんど歴史的に変更されていないからである。しかも他方ではまわりの諸個人と結合すべき必然性の意識、かれがとにかくひとつの社会に生活するということについての意識の端初があらわれる。この端初はこの段階の社会生活そのものとおなじように動物的であり、それはたんなる群居意識である。そしてここで人間が羊から区別される点はただ、かれの意識がかれには本能のかわりをするということ、すなわちかれの本能が意識的なものであるということにすぎない。

この羊意識あるいは種族意識は生産性の上昇、欲望の増加、およびこの両者の根底によこたわる人口増加によってなお一層の発展と発達をとげてゆく。それとともに分業が発展するが****、これはもともとは性行為における分業にほかならず、つぎには自然的な素質(たとえば体力)、欲望、偶然などなどによってひとりでに、すなわち『自然成長的』(naturwüchsig)にできあがる分業であった。

分業は、物質的労働と精神的労働との分割があらわれる瞬間から、はじめて現実的に分業となる。*****この瞬間から意識は、現存する実践の意識とはなにか別なものであるかのように、またなにか現実的なものを表象もしないのに現実的になにかを表象するかのように、現実的に想像しうるようになる――この瞬間から意識は世界からときはなたれて『純粋』理論、神学、哲学、道徳などの形成へうつってゆくことができるようになる。しかしながらこの理論、神学、哲学、道徳などが現存の諸関係と矛盾におちいるばあいでさえ、このことはただ、現存の社会的諸関係が現存の生産力と矛盾におちいっているということによってのみおこりうるのである――ただしこのようなことはまた、特定の国民的範囲の諸関係においては別な理由でもおこることがある。というのは、矛盾がこの国民的範囲の諸関係のうちにはうまれずに、この国民的意識と他の諸国民の実践とのあいだに、******すなわち一国民の国民的意識と一般的意識とのあいだにうまれるときである。

――しかしながら意識がひとりでなにをはじめようと、それはまったくどうでもいい。われわれがこの汚物全体のなかからとりだすのは、ただつぎのような一つの結論だけである。すなわち生産力、社会的状態および意識というこれら三つの契機がたがいに矛盾におちいることがあり、またおちいらざるをえないのは、分業とともに、精神的活動と物質的活動が――享受と労働が、生産と消費が別々な個人の仕事になる可能性、いな現実性があたえられるからだということ、そしてそれらが矛盾におちいらずにすむ可能性はただ分業がふたたびやめられることのうちにのみ存するということである。それにしても『幽霊』(Geitster)、『紐帯 (ちゅうたい)』(Bande)、『高次の本質』(höheres Wesen)、『概念』(Begriff)、『観念』(Bedenklichkeit)がたんに観念論的な僧侶的な表現、みせかけの孤立した個人の表象にすぎず、また生活の生産様式とこれにつながる交通形態との運動にくわえられているところのきわめて経験的な桎梏や制限についての表象にすぎないことは、いまさらいうまでもない。

〔原註〕

家屋の建造。遊牧民のばあいにそれぞれの家族の別々な天幕があるように、未開人のばあいにもそれぞれの家族が自分の穴または小屋をもっていることは、いうまでもない。この分立した家内経済は私有がさらに発展すればするほどいよいよ必要になるばかりである。農耕民族のばあいには共同の家内経済は共同の土地耕作とおなじように不可能である。おおきな進歩となったのは都市の建設だった。しかしながらいままでのあらゆる時期においては、私有の廃止からきりはなせない分立した経済の廃止は、このための物質的条件が存在しなかったという理由からもすでに不可能だった。共同の家内経済の設立は機械装置の発展、自然力利用その他おおくの生産力――たとえば水道、ガス照明、蒸気暖房などの発展を、また都市と農村との〔対立の〕廃止を前提する。これらの条件がなかったなら、共同の家内経済はそれ自身また一つのあたらしい生産力ではなく、あらゆる物質的な土台をもたず、たんに理論的な基礎にもとづくことになるだろう。すなわち、たんなる幻想であって、修道院経済にしかならないだろう。――なにが可能だったかは、都市への密集と個々の特定目的のための共同家屋(監獄、兵舎など)の建造とにしめされている。分立した経済の廃止が家族の廃止からきりはなせないことは、いうまでもない。

* ここからはじまって消されていない原文の高さの右の欄にマルクスは見だしをつけた――

歴史

** この文章の高さの欄にマルクスは記入した――

ヘーゲル
地質学的、水理学的などの諸関係。
人間の肉体。欲望、労働。

*** この高さの欄にマルクスは書いた――

人間が歴史をもつのは、かれらがかれらの生活を生産しなければならないから、しかも一定の様式でそうしなければならないからである。このことはかれらの身体的組織によってあたえられなければならない。かれらの意識とおなじように。

**** この高さの欄にマルクスはつぎのように記入した。ただし、かれはまたすべてを消してしまったため、この記入には挿入符号はつけられていない――

人間はかれらの<そのような>…発展させる
意識は現実的な歴史的発展の内部で<発展する>分業によってあらわれ

***** この高さの欄にマルクスは挿入符号をつけずに書いた――

イデオロークたち、僧侶たち、の最初の形態は合致する。

****** この文章の高さの欄にマルクスは書いた――

宗教
つぎにつけくわえて――
イデオロギーそのものをもつ。
つぎに「宗教」を枠にいれてつぎの文字からきりはなし、そして書きいれた――
ドイツ人
だから記入はつまりつぎのようになる――
宗教イデオロギーそのものをもつドイツ人。

−p.42, l.15−

  分業のうちにはこれらすべての矛盾があたえられており、そして分業そのものはまた家族における自然成長的な分業と、たがいに対立する個々の家族への社会的活動の分裂とにもとづいている――さてこの分業(Teilung der Arbeit)と同時にまた分配(Verteilung)が、しかも労働とその生産物との量的にも質的にも不平等な分配、したがって所有があたえられる。この所有は、妻や子供たちが夫の奴隷であるところの家族のうちにすでにその芽ばえ、その最初の形態をもっているのである。家族におけるこの奴隷制は、まだきわめて粗野な潜在的ものではあるが、最初の所有である。しかもこれはここでもすでに、所有をば他人の労働力にたいする自由処分だとする近代の経済学者たちの定義にぴったりとあっている。とにかく分業とはおなじ表現であり――おなじことが前者では活動についていいあらわされ、後者では活動の生産物についていいあらわされているのである。

――さらに分業と同時に、個々の個人または個々の家族の利害と、たがいに交通するすべての個人の共同利害との矛盾があたえられる。しかもこの共同の利害はたんに観念のなかに『一般的なもの』(Allgemeines)として存在などするのではなく、分業がおこなわれている諸個人のあいだの相互的な依存としてまず現実のなかに存在する。そして最後に分業はただちにつぎのことの最初の実例をわれわれに提供する。すなわち、人間が自然成長的な社会のうちに存在するかぎり、したがって特殊利益と共通利害との分裂が存在するかぎり、したがってまた活動が自由意志的にではなく自然成長的に分割されているかぎり、人間自身の行為はかれにとって一つのよそよそしい対立的な力となり、そしてかれがこれを支配するのではなく、これがかれを抑圧するということの実例である。すなわち労働が分配されはじめるやいなや、各人は一定の専属の活動範囲をもち、これはかれにおしつけられて、かれはこれからぬけだすことができない。

かれは猟師、漁夫か牧人か批判的批判家であり、そしてもしかれが生活の手段をうしなうまいとすれば、どこまでもそれでいなければならない――これにたいして共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修行をつむことができ、社会が全般の生産を規制する。そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気のむくままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をできるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。

社会的活動のこのような定着化、われわれをおさえる物的な協力へのわれわれ自身の生産物のこのような固定化こそ(この強力はもはやわれわれの手におえず、われわれの期待をだしぬき、われわれの目算を水の泡にする)、いままでの歴史的発展における主要契機の一つである。そしてまさに特殊利益と共同利害とのこの矛盾にもとづいて、共同利害は、個別および全体の現実的な利害からきりはなされて国家として一つの独立なすがたをとる。そしてそれは同時にまた幻想的な共同性としてである。

しかしいつでもそれが実在的な土台としているのは、あらゆる家族集合体および種族集合体のうちに存在する紐帯、たとえば血肉、言語、比較的に大規模な分業およびその他の諸利害であり――そしてとくに、われわれがあとで展開するように分業によってすでに制約されている諸階級、すなわちあらゆるそのような人間集団のなかでたがいに分立しそしてその一つが他のすべてを支配するところの諸階級である。

ここからつぎの結論がでてくる。すなわち、国家の内部におけるすべての闘争、民主主義や貴族主義や君主主義のあいだの闘争、選挙権などなどのための闘争は、種々な階級のあいだのたがいの現実的な闘争がおこなわれる時の幻想的な諸形態にほかならないということ(この点についてドイツの理論家たちはすこしも気がついていない。ドイツ・フランス年誌(9)や聖家族(10)のなかでその手びきを十分かれらにあたえておいたのに)、そしてさらに、およそ支配をめざして努力している階級は、たとえプロレタリアートのばあいのようにその階級の支配がふるい社会形態全体と支配一般との廃棄の条件となるにしても、自己の利害をやはりまた一般的なものとしてかかげるためには(最初の瞬間にはこれはやむをえない)まず政治権力を奪取しなければならぬということである。

諸個人はただかれらの特殊利害――かれらにとってかれらの共同利害と合致しない利害だけをもとめ、そしておよそ一般的なものは共同性の幻想的な形態である――それゆえにこそ、このものはかれらにとって『よそよそしい』(fremd)そしてかれらから『独立な』(unabhängig)利害、すなわちそれ自身ふたたび特殊なそして独自な『一般』利害("Allgemein" Interesse)としておしだされる。あるいはまたかれらは、民主制のばあいのように、このような決裂のままでたがいにまみえなければならない。したがって当然また他方では、共同利害および幻想上の共同利害にむかってたえず現実的に対立するところのこれら特殊利害の実践的な闘争は、国家としての幻想的な『一般』利害による実践的な干渉と制御を必要なものとする。

社会的な力は、すなわち分業のために制約された協働(種々な個人の)によって発生するところの倍化された生産力は、この協働そのものが自由意志的ではなく自然成長的であるため、これら個人にはかれら自身の結合された力としてはあらわれずに、かれらのそとにたつよそよそしい強力としてあらわれる。そしてこれについてはかれらは、どこからきてどこへゆくのかを知らない。したがって、もはやかれらはこれを支配することができない。かえってこれはいまや独自な、人間の意欲や動向から独立な、いなこの意欲と行動をまず支配するような、一系列の位相と発展段階を*たどってゆく。

哲学者たちにわかりよくいうならば、この『疎外』(Entfremdung)はもちろんただ二つの実践的な前提のもとでのみ廃棄されることができる。それが一つの『たえられぬ』(uneträglich)力、すなわちそれにむかって革命がおこなわれるような力となるためには、それが人類の大衆をばまったくの『無産者』(Eigentumslos)としてうみだしていると同時に、富と教養との現存世界にたいする矛盾の形でうみだしていることが必要である。ただし富と教養とはいずれも生産力のおおきな上昇――生産力の高度の発展を前提するものである――そして他方では生産力のこのような発展は(これと同時にすでに、人間の地方的な生存のうちにではなく世界史的な生存のうちに現存する経験的な存在があたえられている)、つぎの点からも一つの絶対に必要な実践的前提である。というのは、もしこの発展がなければただ窮乏だけが一般化され、したがって窮乏とともにまたもや必要物のための争いがはじめられ、そしてふるい汚物がそっくりたちなおるにちがいないからである。

さらにまた、生産力のこの普遍的な発展とともにはじめて人間の普遍的な交通がなりたち、したがってこれは一方では『無産』大衆の現象をすべての民族のうちに同時にうみだし(一般的競争)、これら民族のいずれをも他の諸民族の変革に依存させ、そして地方的な個人のかわりに世界史的なすなわち経験的に普遍的な個人をおきかえたからである。このことがなければ、(1)共産主義はただ地方的なものとしてしか存在できないだろう。(2)交通の諸力そのものは普遍的な、したがってたえられぬ力としては発展できなかったし、いつまでも土着的・迷信的な『境遇』(Umstände)のままだったろう。そして(3)交通のあらゆる拡大は地方的な共産主義を廃棄してしまうだろう。共産主義は経験的にはただ『一挙に』(auf "einmal")または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが、このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。

そうでなければ、どうしてたとえば所有がそもそも歴史をもち、いろいろな形態をとったのだろう? そして今日実際にみられるように、どうして土地所有などがそれぞれ現存のちがった前提に応じてフランスでは細分化から少数者の手における集中へ、イギリスでは少数者の手における集中から細分化へとすすみえたのだろう? あるいはまた、商業というものはいろいろな個人や国々の生産物の交換にすぎないのに、どうして需要供給の関係を通じて全世界を支配するようになるのだろう? ――この需要供給の関係こそ、イギリスの一経済学者にいわせれば、あたかも古代の運命の神のように地上をただよい、眼にみえぬ手で幸福と不幸とを人間にふりわけ、国々をおこし国々をほろぼし、諸民族をうまれさせ消えさらせるものなのである――しかるに土台すなわち私有が廃止され、生産が共産主義的に統制され、それとともにまた自分自身の生産に対する人間の関係のよそよそしさが絶滅されるとともに、需要供給の関係の力は無に帰してしまい、そして人間は交換や生産やかれら相互の関係しあう様式をふたたびかれらの手中におさめることになる。――

* 原稿では 三人称単数であるべき「たどってゆく」が三人称複数の形になっている。

** 欠乏のうえに――窮乏としるされている。


  共産主義はわれわれにとっては、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、今の状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件は今現存する前提からうまれてくる。*ところでただの労働者たちの大衆――大量的に資本からきりはなされ、またはどんなつつましい満足からもきりはなされている労働者勢力――は、したがってまた**一つの保護された生活源泉としてのこの労働そのもののもはや一時的ではない喪失は、競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができる。諸個人の世界史的存在とは、直接に世界史とむすびついているところの、諸個人の存在のことである。

* 「ところで」から「ことである」までの原文をマルクスは右の欄へ書いて、それに表題をつけた。

  共産主義。

** このあたりの文字のうえにマルクスは挿入符号をつけずに書いた――まったくあぶない状態


  いままでのすべての歴史的段階に存在する生産諸力によって制約されていながら、またこれらを制約もしているところの交通形態は、市民社会である。これは、まえにのべたところからもすでにわかるように、単純家族と複合家族、いわゆる種族性をその前提および基礎としており、そしてそのくわしい規定は前に述べたところにふくまれている。すでにここでも、この市民社会がすべての歴史の真のかまどであり、舞台であるということ、そして現実的な諸関係をおろそかにし国家のものものしい重大行為だけをとりあげる従来の歴史観がどんなに不条理であるかということが、よくわかる。

市民社会は生産力の一定の発展段階の内部における諸個人の物質的交通全体をつつんでいる。それは一つの段階の商業的および商業的生活全体をつつんでおり、そのかぎりでは国家や国民をこえる。ただし他方ではそれは、ふたたび外部へむかっては民族としてたちあらわれ、内部へむかっては国家として編成されねばならないけれども、市民社会という語がでてきたのは十八世紀であって、所有関係がすでに古代的および中世的な共同体からぬけだしたときだった。市民社会そのものはブルジョアジーとともにはじめて発展する。しかしながら直接に生産と交通とから発展する社会的活動組織は、すべての時代に国家およびその他の観念論的な上部構造の土台をかたちづくっていて、やはりいつでもこの同じ名称でしめされてきた。

――――――――――――――――


 〔2〕 意識の生産について

−p.50, l.1−

  個々の個人は活動が世界史的なものへひろがるにつれて、かれらにとってよそよそしい一つの力のもとにいよいよ隷属させられてきたということ(この重圧を実際またかれらはいわゆる世界精神などの計略として心にえがいた)、そしてこの力がいよいよ大量的になってきて、結局は世界市場となってあらわれるということ。このことはいままでの歴史においてはなるほど経験的な事実にちがいない。しかしながら共産主義革命(これについてはあとでのべる)による現存の社会状態の打倒とこれとおなじ私有廃止とによって、ドイツの理論家たちにはきわめて神秘的にみえるこの力も解消されてしまうということ、そしてそのばあいには各個人の解放は歴史が完全に世界史へ転化する程度につれて実現されてゆくということ、このこともまたおなじく経験的な基礎をもっている。

*個人の現実的な精神的なゆたかさがまったくかれの現実的な連系のゆたかさに依存することは、上にのべたところからあきらかである。個々の個人はこれによってはじめて種々の国民的および地方的な制限から解放され、全世界の生産(そしてまた精神的生産)との実践的な連系をむすび、そして全地上のこの全面的な生産(人間の諸創造)にたいする享受力を身につけることができるようになる。諸個人の全面的な依存、かれらの世界史的協働のこの自然成長的な形態は、この共産主義革命によってこれらの力の統制および意識的な支配へ転化される。いままでこれらの力は、人間相互の作用からうまれながらも、まったくよそよそしい力としてかれらを威圧し、かれらを支配してきたのだった。

ところでこのような見かたもやはりまた思弁的・観念論的に、すなわち空想的に『類の自己産出』(Selbsterzeugung der Gattung, 『主体としての社会』Gesellschaft als Subjekt)として解釈されることができる。そしてその結果、つながりあっている諸個人のひきつづく系列が唯一の個人として心にうかべられて、このものが自己自身の産出という秘蹟をおこなうとされることにもなる。ここでわかるのは、諸個人はなるほど肉体的にも精神的にもたがいにつくりあうが、しかし聖ブルーノの無意味な意味においても、また『唯一者』(der Einzige)すなわち、『つくられた』(gemacht)人の意味においてもみずからをつくるのではないということである。

* この高さの右の欄にマルクスは挿入符号をつけずに書いた――

  意識の生産について。

−p.51, l.11−

  したがってこの歴史観はつぎの点にもとづいている。すなわち現実的な生産過程を、しかも直接的な生活の物質的生産から出発して展開すること。そしてこの生産様式とつながっていて、これによってうみだされるところの交通形態を、したがって種々の段階における市民社会を全歴史の基礎としてつかむこと。さらにこの市民社会を国家としてのその活動において叙述するとともに、意識の種々な理論的所産および形態、すなわち宗教、哲学、道徳などなどをすべて市民社会から説明し、そしてそれらのものの発生過程を市民社会の種々の段階からあとづけること。このようにすれば当然また事態はその全体性において(したがってまたこれら種々の面の交互作用も)叙述されうることになる。

この歴史観は、どの時期においても観念論的歴史観のように一つのカテゴリーをもとめる必要はなく、どこまでも現実的な歴史地盤にふみとどまり、実践を観念から説明するのではなく、観念構成物を物質的実践から説明する。したがってそれはつぎの結論に到達する。すなわち、意識のあらゆる形態および所産は精神的批判によって、『自己意識』(Selbstbewusstsein)への解消によって、『妖怪』(Spuk)や『幽霊』(Gespenster)や『妄想』(Sparen)などへの転化によってではなく、これら観念論的妄語がうまれてきた実在的な社会的諸関係の実践的打倒によってのみ解消されうるということ、――批判ではなく、革命がまた宗教や哲学その他の理論の歴史の推進力であるということである。

この歴史観がしめすところによれば、歴史は自己を『精神の精神』(Geist vom Geist)としての『自己意識』に解消することにおわるのではない。歴史にはどの段階にも一つの物質的な成果が、生産諸力の総和が、自然へのそして個人相互のあいだの歴史的につくりだされた関係が存在しており、そしてこの総和はどの世代にたいしてもこれに先行する世代からつたえられる。すなわち一国の生産力、資本および環境があって、これらは一方ではあたらしい世代によって変改されはするけれども、他方ではまたこの世代にそれ自身の生活条件を指定し、一定の発展と一つの特殊な性格をこの世代にあたえる――したがって人間が環境をつくるのとおなじように、環境が人間をつくることになるのである。どの個人そしてどの世代もあるあたえられたものとしてみいだすところの生産力、資本および社会的交通形態のこの総和こそ、哲学者たちが『実体』(Substanz)や『人間の本質』(Wessen des Menschen)としてこころにえがいてきたもの、かれらが神化したり抗争したりしてきたものの実在的な根拠である。また、これら哲学者たちが『自己意識』や『唯一者』としてそれに反逆しても、すこしも人間の発展へのその作用と影響をさまたげられないような実在的な根拠である。

種々の世代のこれら既存の生活条件はまた、周期的に歴史においてくりかえされる革命的動乱があらゆる現存するものの土台をくつがえすにたりるほど強力であるかどうかをも決定する。そしてもし全体的な変革のこれら物質的な諸要素、すなわち一方では現存の生産力、他方では革命的大衆の形成――たんに今までの社会の個々の条件にたいしてだけではなく、いままでの『生活生産』(Lebensproduktion)そのもの、この社会の土台だった『全活動』(Gesamttätigkeit)にたいして革命をおこなうところの大衆の形成――が現存していないならば、この変革の理念がすでに百たび宣言されていてもいなくても、実践的な発展にとってはまったくかかわりがない――これは共産主義の歴史が証明するとおりである。

−p.53, l.13−

  いままでの歴史観はみな歴史のこの現実的な土台をまったくかえりみずにいたか、あるいはまたそれを歴史的な経過とはなんのつながりもない付属物としてしかみなさなかった。だから、いつでも歴史は自分のそとに存する尺度にしたがって書かれざるをえない。そして現実的な生活生産は原歴史的なものとしてあらわれ、これにたいして歴史的なものは俗生活からきりはなされた超世間的なものとしてあらわれる。自然への人間の関係はそのために歴史からしめだされ、このことによって自然と歴史との対立がうみだされる。したがってこのような歴史観は、歴史のなかに国家の政治的な重要行為と宗教的および一般に理論的な諸闘争だけしかみることができず、そしてことにどの歴史的時代においてもこの時代の幻想をわかちもたざるをえなかった。たとえば、『宗教』や『政治』はたんにある時代の現実的な動機の形態にすぎないのに、もしその時代が純粋に『政治的』あるいは『宗教的』な動機によって限定されているとみずから想像するならば、当時の歴史家はこの意見をうけいれてしまう。自分の現実的な実践についてのこれら特定の人間の『想像』(Einbildung)、『表象』(Vorstellung)は転化されて、これら人間の実践を支配し規定するところの唯一の規定的かつ能動的な力となる。

インド人やエジプト人のもとでおこなわれている分業の粗野な形態が、これらの民族のもとでかれらの国家やかれらの宗教のうちにカースト制度をよびおこしたとしよう。そうすれば歴史家は、カースト制度こそこの粗野な社会的形態をうみだした力だと信じてしまう。フランス人やイギリス人は、現実にまだしも隣接する政治的な幻想だけはとにかくも固守しているのに、ドイツ人は『純粋精神』(reiner Geist)の領域をさまよって、宗教的な幻想を歴史の推進力にする。ヘーゲルの歴史哲学はこのすべてのドイツ的な歴史記述の最後の帰結、『もっとも純粋な表現』(reinster Ausdruck)にまですすめられた帰結であり、そのような歴史記述で問題とされているのは現実的な利害、いな政治的な利害ですらなくて、純粋思想なのである。さらにこの歴史記述はまた聖ブルーノにとっても一系列の『思想』としてあらわれざるをえず、これらの思想の一つは他をたべつくしてついに『自己意識』となって没落するものとされている。

なお一層徹底的なのは、すべて現実的な歴史についてはなにも知らない聖マクス・シュティルナーのばあいである。かれにとって*この歴史的な経過はたんなる『騎士』の、盗賊の、幽霊の歴史としてあらわれざるをえなかった。そしてこの歴史の幻影からすくわれる道は、もちろんかれには『不信心』(Hellosigkeit)しかない。この見解はまことに宗教的である。それは宗教的人間をばすべての歴史の出発点である原人であると想定し、自分の想像のなかで生活手段と生活そのものとの現実的生産のかわりに宗教的な空想生産をおくのである。

この歴史観全体は、これの解体およびそこからおこる疑惑や心配をもふくめてドイツ人のたんに国民的な関心事であり、ドイツにとっての地方的な興味しかもたない。たとえばあの重要な、ちかごろいくたびも論じられた問題、そもそも『どうして神の国から人の国へくるか』という問題などはそれである。まるで、この『神の国』(Gottesreich)が想像とは別のところにいつか存在したことでもあるかのように。そして博学の先生たちが、いまその道をさがしている『人の国』(Menschenreich)に、知らずにいつでも生活してきたのではないかのように。――そしてまたこの理論的な雲霧形成の奇妙な現象を説明する科学的ななぐさみ(おもうにそれはこれ以上のものではない)が、まったく反対にそのものの発生を現実的な地上的諸関係から立証するところにあるのではないかのように。

およそこれらのドイツ人のあいだでいつも問題になるのは、眼の前の無意味なものをなにか他の妄想に解消させること、つまりこの無意味なもの全体にもさぐりださるべき一つの特別な意味がとにかくもあると前提することである。しかし問題は、じつはこれらの理論的な空語をば現存する現実的な諸関係から説明することにのみあるのだ。これらの空語の現実的な実践的な解消、人間の意識からのこれらの表象の排除は、すでにのべたように、変更された環境によって達成されるのであって、理論的な演繹によって達成されるのではない。人間の大衆、すなわちプロレタリアートにとってはこれら理論的な表象は存在しない。したがってまたかれらにとっては解消される必要もない。そしてこの大衆がかつてはいくらかの理論的な表象、たとえば宗教をもっていたとしても、これらはいまはとっくに環境によって解消されている。

――なおこれらの問題および解決が純粋に国民的であることは、『神人』(der Gottmensch)や『人間』(der Mensch)などのような妄想が歴史の個々の時代を主宰してきたかのように、これら理論家たちがなおまじめに信じていることにもうかがわれる。――さらにすすんで聖ブルーノは、ただ『批判と批判家たちが歴史をつくってきた』(Die Kritik und die Kritiker haben die Geschichte gemacht)とさえ主張しているのだ。――おなじことはまた、かれらがみずから歴史的構成にとりかかるばあい、すべて昔のことをおおいそぎで**とびこえて、『蒙古族』からすぐさま真に『内容にみちた』歴史へ、すなわちハレ年誌やドイツ年誌(11)の歴史およびヘーゲル学派が全般的な争論へ解体する歴史へ***うつってゆくことにも、うかがわれる。すべて他の国民、すべて現実的な事件はわすれさられて、世界風物劇場(12)(theatrum mundi)に展示されるのはライプチヒの書籍市(13)と『批判』や『人間』や『唯一者』のおたがいの口論とにすぎない。しかしこのばあいにも、それらの主題はたんに諸表象の歴史を、これらのものの基礎になっている事実および実践的発展からひきはなしてあたえるにすぎない。しかもこのような歴史をあたえるのも、この時代をば真の歴史的時代、すなわち一八四〇―四四年のドイツの哲学者闘争の時代の不完全な準備段階、まだ限局されたその先行期として叙述するという意図のためにすぎない。

目的は、ひとりの非歴史的な人物およびかれの空想のほまれをいよいよかがやかせるために、前代の歴史を書くことにある。したがってこの目的にとっては、すべての現実的に歴史的な事件にはふれず、歴史にたいする政治の現実的に歴史的な干渉にすらふれずに、研究にではなく構成と文学的な噂話とにもとづく物がたりをあたえることこそ、いかにも似つかわしい――ちょうど聖ブルーノがいまはわすれさられたその十八世紀史のなかでやったように。だからこれらの尊大かつ高慢な思想商人たちは、およそ国民的偏見などをはるか無限に超越していると信じているが、実際は、ドイツの統一をゆめみている一杯きげんの俗物どもよりもなおはるかに国民的なのだ。かれらは他の諸民族の行為を歴史的だとは全然みとめない。かれらはドイツのなかに、ドイツによって、そしてドイツのために生きている。かれらはラインの歌(14)を聖歌にかえてしまう。そしてフランス国家のかわりにフランス哲学をぬすみ、フランス諸州のかわりにフランス思想をゲルマン化することによって、エルザスとロートリンゲンを占領するのだ。理論の世界支配という形でドイツの世界支配を宣言する聖ブルーノやマクスにくらべると、フェネダイ氏のほうがコスモポリタンである。

* 「この歴史的な創造」から「あらわれざるをえなかった」までの高さの右の欄にマルクスは書いた――

いわゆる客観的歴史記述はまさに、歴史的諸関係を活動からきりはなしてつかむところに存した。反動的な性格。

** 原稿では――とびこえるために

*** 原稿では――三人称単数であるべき「うつってゆく」が三人称複数になっている。

−p.58, l.5−

  これらの論評から、どんなにフォイエルバハがまちがえているかということもわかってくる。それはすなわち、かれが(ヴィガント季刊誌(15)、一八四五年、第二巻)みずから『共通人』(Gemeinmensch)という資格によって共産主義者だと宣言し、みずからを『人間』("der" Mensch)という述語へ転化させるばあいであり、したがって現存社会では特定の革命的政党の所属者をあらわすところの共産主義者という語を、またもやたんなるカテゴリーへ転化させうると信じているばあいである。人間相互の関係についてのフォイエルバハの演繹全体は、人間がたがいに必要としあい、またいつも必要としあってきたということの証明だけにつきている。かれの欲するのはこの事実についての意識をうちたてることである。したがってかれの欲するのは、その他の理論家たちのように、現存する事実についてのただしい意識をつくりだすことにすぎない。

これに反して現実の共産主義者にとって重要なのは、この現存するものをくつがえすことなのだ。ただしわれわれは、フォイエルバハがほかならぬこの事実の意識をうみだそうとつとめることによって、およそ理論家が理論家や哲学者であることをやめずにすすむことのできる限度まですすんでいることを、完全にみとめる。しかるに特徴的なのは、聖ブルーノや聖マクスが共産主義者についてのフォイエルバハの観念をすぐさま現実の共産主義者におきかえていることである。このようにされる理由の一部は、すでにかれらが共産主義をも『精神の精神』、哲学的なカテゴリー、対等の論敵として攻撃しうるためであり――聖ブルーノのがわからいえばさらに実際上の利害からでもある。

フォイエルバハは現存するものの承認と同時に誤認をいまなおわれわれの論敵たちと一緒にやっているが、その実例としてわれわれは『将来の哲学』の一つの箇所をおもいおこそう。かれがそこで展開しているところによれば、事物あるいは人間の存在は同時にそれの本質であり、動物的あるいは人間的個体の一定の生存関係、生活様式および活動はその個体の『本質』(Wesen)が満足を感じるところのものであるという。ここではあからさまにあらゆる例外は不幸な偶然、変更できない変則として解釈されることになる。それゆえ、もし幾百万のプロレタリアがかれらの生活関係に決して満足を感じないならば、またもしかれらの『存在』(Sein)がかれらの〔・・・*〕現実において、そして実践的唯物論者すなわち共産主義者にとって大切なのは、現存する世界を革命し、既成の事物を攻撃し変更することである。フォイエルバハにもときにはそのような見解がみいだされるけれども、決してそれはきれぎれな予感以上にはすすまない。そしてそれがかれの一般的な見地へおよぼす影響はあまりにもすくないので、ここには発展力のある萌芽としてよりほかに考慮にのぼることはできない。

感性的世界についてのフォイエルバハの『見かた』(Auffassung)は一方ではそれのたんなる直観に、他方ではたんなる感覚にとどまっており、かれは『現実的な歴史的な人間』(wirklicher historischer Mensch)というかわりに『人間』(der Mensch)といっている。『人間』とは実在的には『ドイツ人』である。第一の場合すなわち感性的世界の直観においては、どうしてもかれはかれの意識やかれの感情に矛盾する事物、かれによって感性的世界のあらゆる部分のあいだ――そしてとくに人間と自然とのあいだに前提された調和をみだす事物に、突き当たらざるをえない〔原註〕。これらの事物をとりのぞくために、そこでかれは二重の直観に、つまり『わかりきったもの』(das auf platter Hand Liegende)だけをみてとる世俗的な直観と事物の『真の本質』(wahres Wesen)をみてとる高次の哲学的な直観とのあいだに、逃げ場をもとめなければならない。しかしかれをとりまく感性的世界は、直接に永遠の昔からあたえられたところのつねに自己同一な事物ではなく、産業と社会状態との産物であるということ。しかもこのことは、この感性的世界が一つの歴史的な産物であり、ひきつづく諸世代の活動の成果であって、これら世代のうちのいずれもがこれに先行するものをうけつぎ、その産業とその交通とをさらに発達させ、その社会的秩序を欲望の変化に応じて変更したという意味だということ。かれにはこれらのことがわからないのである。

もっとも単純な『感性的確知』(sinnliche Gewissheit)の対象でさえ、かれにはただ社会的発展、すなわち産業および商業的交通によってのみあたえられている。周知のようにサクランボの樹は、ほとんどすべての果樹とおなじように、数世紀前にはじめて商業によってわれわれの地帯へ移植された。したがってそれは、一定の時代における一定の社会のこのような行動によって、はじめてフォイエルバハの『感性的確知』にあたえられたのである。とにかく、事物を現実にあるがままに、そしておこるがままにとらえるところのこの見かたでは、あとでなお一層はっきりわかるように、どんな深遠な哲学的問題もきわめて簡単に一つの経験的事実に、解消してしまう。たとえば自然にたいする人間の関係についての重要な問題もそうである(あるいはさらに、ブルーノにいわせれば(p.110)『自然と歴史とにおける諸対立』(Gegensätz in Natur und Geschichte)、まるで二つがたがいにきりはなされた『事物』(Dinge)であって、人間が必ずしも歴史的自然と自然的歴史とを眼のまえにもってはいないかのようだ)。そこからは『実体』や『自己意識』についての『はかりがたく高遠な諸著』(unegründlich hohe Werke)がうまれているが、その重要な問題もつぎのことをみぬけばひとりでにくずれさってしまう。というのは、あの評判のたかい『人間と自然との統一』(Einheit des Menschen mit Natur)は産業のうちに以前から成立しており、しかも各時代にそれぞれの産業の発展の大小に応じて別なふうに成立してきたということ、おなじくまた人間と自然との『闘争』(Kampf)も、人間の生産力がこれに対応する土台のうえで発展するようになるまではそのとおりだということである。

産業と商業、すなわち生活必需品の生産と交換は、自分のがわから分配すなわち種々の社会階級の編成を制約するとともに、反対にまたその経営の様式においては後者によって制約される。――だからこそフォイエルバハは、たとえば百年前には紡ぎ車と手編機しかみられなかったマンチェスターに、いまはただ工場と機械だけをみることになるし、また、アウグストゥス時代ならばローマの資本家たちのぶどう園と別荘のほかなにもみいだせなかったはずのローマ平原に、いまはただ牧場と沼地だけを発見することにもなるわけである。フォイエルバハはとくに自然科学の直観についてかたり、物理学者や化学者の眼にだけあからさまになる秘密についてのべている。しかし産業と商業がなくて、どこに自然科学があるだろう? この『純粋』自然科学でさえ、じつに商業と産業とによって、人間の感性的活動によって、はじめてその目的ならびにその材料をうけとるのである。

まことにこの活動、このたえざる感性的な労働と創造、この生産こそ、いま存在するような感性的世界全体の基礎なのだから、もしもそれがただの一年間でも中絶されるとすれば、フォイエルバハはたんに自然界のなかに途方もない変化をみいだすばかりでなく、全人間界とかれ自身の直観能力を、いや自分自身の存在をさえたちまちのうちにみうしなってしまうだろう。なるほどそのときにも外的自然の先行性はやはり存続はする。そしてなるほどこれらすべてのことは原生的な、無受精発生(16)(generatio aequivoca)によってうみだされた人間にはまったくあてはまらない。しかしながらこのような区別は、人間を自然から区別されたものとみなすかぎりにおいてのみ、意味をもつにすぎない。とにかくも、人間の歴史に先行するこの自然は、たしかにフォイエルバハの生きている自然ではない。それはまた、ちかごろ出現したオーストラリアのいくつかの珊瑚島のうえなどを別とすれば、今日はもはやどこにも存在しないような自然、したがってまたフォイエルバハにとっても存在しないような自然である(17)

――なるほどフォイエルバハは、『純粋な』唯物論者たちにくらべると、人間もまた『感性的対象』(sinnlicher Gegenstand)であるということをみぬいている点で非常にすぐれてはいる。しかしながら、人間というものをただ『感性的対象』としてのみとらえて『感性的活動』(sinnlicher Tätigkeit)としてとらえない点は別にしても、かれはこのばあいにも理論のなかにたてこもっていて、人間をばかれらのあたえられた社会的なつながりにおいてつかまず、かれらをいまあるようなものにしてきたところのかれらの現存の生活条件のもとにつかまないために、かれは決して現実に存在する活動的な人間には達せず、いつまでも『人間』という抽象物にたちどまり、『現実的な、個別的な、具体的な人間』(wirklicher, individueller, leibhaftiger Mensch)を感覚においてみとめるところまでしかすすんでいない。すなわちかれは、愛情と友情のほかにはなにも『人間にたいする人間の』『人間的な関係』("menschliche Verhältnisse" "des Menschen zum Menschen")を知らず、しかもこれを観念化している。いまの生活関係の批判をなにもあたえていない。だからどうしてもかれは、感性的世界をば、これをかたちづくっている諸個人の生きた感性的活動の全体としてつかむようにはならない。だからまたたとえば、健康な人間のかわりに腺病質の、過労の、肺病の飢えた人々のむれをみるようなときは、どうしてもかれには『高次の直観』(höhere Anschauung)や観念的にかんがえられた『類における均衡』(Ausgleichung in der Gattung)に逃げ場をもとめざるをえない。したがってかれは、共産主義的な唯物論者が産業ならびに社会的編成の変革の必然性と同時にその条件をみるところにおいて、かえって観念論へあともどりせざるをえないのである。

〔原註〕

フォイエルバハが、わかりきったものすなわち感性的仮象を、感性的実態の一層綿密な研究によってたしかめられた感性的現実に従属させることがまちがいなのではない。かれが結局のところ感性をば『眼』でもって、すなわち哲学者の『眼がね』をとおしてながめずには始末できないことがまちがいなのである。

* ここに欠落しているつながりの意味はおよそつぎのようなものだったろう――

もしかれらの存在がかれらの〔『本質』に矛盾するならば、なるほどそれは変則ではあるが、しかし不幸な偶然ではない。まったく特定な社会的関係にもとづく一つの歴史的な事実である。フォイエルバハはこの事実をたしかめて満足している。かれはただ現存する感性的世界を解釈するにすぎず、それにたいしてただ理論家の態度をとるにすぎない。しかるに〕現実においては

−p.64, l.10−

  フォイエルバハが唯物論者であるかぎり、歴史はかれのもとにはみられず、そしてかれが歴史を考慮にいれるかぎり、かれはなんら唯物論者ではない。かれのもとでは唯物論と歴史とはまったくばらばらになっている。

ただしこのことはまえにのべたところからもあきらかである。歴史とは個々の世代の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用する。したがって一方では、うけつがれた活動をまったく変更された環境のもとでつづけてゆき、他方では、ふるい環境をまったく変更された活動でもってあらためてゆく。

ところでこのことが思弁的にねじまげられて、後代の歴史が前代の歴史の目的とされるようになる。たとえばアメリカ発見の基礎には、フランス革命の勃発をたすけるという目的がおかれるわけである。そうすれば歴史はその特別な諸目的をもつことになり、『他の諸人格にならぶ一人格』(Person neben andern Personen, 他の諸人格とは『自己意識、批判、唯一者』などのこと)となる。しかるに前代の歴史の『使命』(Bestimmung)、『目的』(Zweck)、『芽ばえ』(Keim)、『理念』(Idee)という語でよばれるものは、後代の歴史の一つの抽象、前代の歴史が後代の歴史へおよぼす能動的な影響の一つの抽象にほかならない。

――さて相互にはたらきかけあう個々の範囲がこの発展の過程につれてひろがってゆけばゆくほど、そして発達した生産様式と、交通と、それによって種々の国民のあいだに自然成長的につくりだされた分業とによって、個々の民族の原始的な自足性がうちこわされてゆけばゆくほど、歴史はいよいよ世界史になってゆく。そのために、たとえばイギリスで一つの機械が発明されて、これがインドや中国で無数の労働者の生計をうばい、これらの国の存在形態全体を変革することになれば、この発明はひとつの世界史的な事実となる。あるいはまた砂糖とコーヒーがその世界史的な意義を十九世紀になって証明したというのは、ナポレオンの大陸政策によってまねかれたこれら生産物の欠乏がドイツ人をばナポレオンにたいする反乱へみちびき、このようにして一八一三年のかがやかしい解放戦争の実在的な土台となったからであった。ここから結論されるように、世界史への歴史のこのような転化は『自己意識』、世界精神またはそのほか形而上学的な幽霊のたんなる抽象的な行為などではなく、まったく物質的な、経験的に立証されうる行為である。これこそ、あるいたり、とまったり、たべたり、のんだり、着たりしているあらゆる個人が証明をあたえているところの行為なのである。――

−p.66, l.3−

  支配階級の思想はどの時代にも支配的な思想である。すなわち、社会の支配的な物質的な力であるところの階級は、同時にその社会の支配的な精神的な力である。物質的生活の手段を左右する階級は、それと同時に精神的生産の手段を左右する。だから同時にまた、精神的生産の手段を欠いている人々の思想は、おおむねこの階級に服従していることになる。支配的な思想とは支配的な物質的諸関係の観念的な表現、思想としてとらえられた支配的な物質的諸関係にほかならない。したがって、まさしくその一つの階級を支配階級にするところの諸関係の観念的な表現、すなわちこの階級の支配の思想にほかならない。支配階級をかたちづくる諸個人は、とくにまた意識をももち、それゆえに思考する。したがってかれらが階級として支配し、そして歴史の一時代の全範囲を規定するかぎり、かれらがこのことをちからのおよぶかぎりおこなうということ、それゆえとくにまた思考する者、思想の生産者としても支配し、かれらの時代の思想の生産と分配を統制するということ、したがってかれらの思想が時代の支配的な思想であるということは、いうまでもない。

たとえば王権と貴族とブルジョアジーとが支配権をあらそっているために、支配権が分割されているような時代および国では、権力分立の学説が支配的な思想とみとめられ、これがいまや『永遠の法則』(ewiges Gesetz)だと宣言される。――われわれがすでにまえに(〔三十九ページ五行――四四ページ一六行〕いままでの歴史の主要な力の一つとしてみいだしたところの分業は、いまやまた支配階級のなかにおいても精神的労働と物質的労働との分業としてあらわれる。その結果、この階級の内部においてその一部分がこの階級の思想家としてたちあらわれるのにたいして(これはこの階級の能動的かつ構想的なイデオロークたちであって、この階級の自分自身についての幻想をつくりあげることをばかれのおもな生業とする)、他の人々はこれらの思想や幻想にむしろ受働的かつ受容的な態度をとる。というのは、これらの人々は現実にこの階級の能動的な成員であって、自分自身についての幻想や思想をみずからつくるような余裕をあまりもたないからである。この階級の内部においてそれのこのような分裂は、二つの部分のある程度の対立と敵対にまで発展することがある。しかしおよそこの階級そのものが危険にさらされているような実践上の衝突がおこれば、そのような対立や敵対はひとりでになくなってしまう。そしてこのときには実際また、あたかも支配的な思想が支配階級の思想ではなくて、この階級の力とはちがった力をもつかのようなみせかけも、きえうせてしまうのである。一定の時代における革命的な思想の存在はすでに革命的な階級の存在を前提するが、後者の存在の諸前提についての必要な点はすでにうえに(四四ページ一六行――四八ページ一二行)のべられている。

  ところでいま、歴史的な経過をつかむばあいに支配階級の思想を支配階級からきりはなし、それを独立化し、ひとつの時代にあれこれの思想が支配したという点にとどまって、これらの思想の生産の諸条件および生産者たちのことを気にとめないとしよう。したがって、思想の基礎となっている諸国民や世情をはぶくとしてみよう。そうすれば、たとえば貴族が支配していた時代には名誉、忠誠などの概念が支配し、ブルジョアジーの支配のときには自由、平等などの概念が支配したということができることになる。支配階級はおおむねこのように想像するのである。とくに十八世紀以来のすべての歴史家に共通しているこの歴史観は、かならずや、いよいよ抽象的な思想すなわちいよいよ一般性の形態をとる思想が支配するようになるという現象につきあたるだろう。

いいかえれば、自分よりまえに支配していた階級にかわってあらわれるあたらしい階級は、すでに自分の目的をつらぬくためにも、みな自分の利害を社会のあらゆる成員の共同利害としてかかげずにはいられない。すなわち観念的にいいあらわせば、自分の思想に一般性の形態をあたえ、それを唯一の合理的かつ一般通用的な思想としてかかげずにはいられない。革命的な階級は、すでに一つの階級に対立するということからも、階級としてではなく全社会の代表者として最初から登場する。それは唯一の支配階級にたいして社会の全大衆としてあらわれる*。このことができるのは、はじめのうちはその利害が実際にはまだむしろ他のすべての非支配階級の共同利害とつながっており、いままでの諸関係の圧迫のもとにまだ特殊階級の特殊利益としては発展できなかったからである。

だからこの階級の勝利は、支配にのぼらないその他の諸階級の多数の個人にも利益となる。けれどもこれはただ、この勝利がいまやこれらの個人をば支配階級へのぼりうるようにするかぎりでのことにすぎない。フランスのブルジョアジーが貴族の支配をうちたおしたとき、かれらはそれによって多数のプロレタリアをばブルジョアジー以上にのぼりうるようにした。しかしこれもただ、それらプロレタリアがブルジョアとなったかぎりでのことにすぎなかった。したがってあたらしい階級はみな、それまで支配してきた階級の土台よりも一層ひろい土台にたってのみ、その支配をやりとげる。そのかわりにあとになってから、今度の支配階級にたいする非支配階級の対立もまたそれだけ尖鋭かつ深刻に発展するようになる。これら二つのことがらが条件となって、このあたらしい支配階級にたいしておこなわれるべき闘争はそれ自身また、支配をめざして努力したいままでのすべての階級がなしえたよりも一層決定的かつ一層根本的な、いままでの社会状態の否定にむかってつきすすむことになるのである。

* この高さの右の欄へマルクスは書いた――

(一般性は(1)身分にたいする階級に、(2)競争、世界交通などに、(3)支配階級の数の非常な多さに、(4)共同利害の幻想に対応する。はじめはこの幻想は真実だった。(5)イデオロークたちの幻惑に、そして分業に)。

−p.69, l.11−

  まるで一定の階級の支配がある種の思想の支配にすぎないかのようなこのみせかけ全体は、一般に階級の支配が社会的秩序の形態であることをやめるやいなや、したがってもはや特殊利害を一般利害としてかかげたり『一般的なもの』を支配的なものとしてかかげたりする必要がなくなるやいなや、もちろんひとりでになくなってしまう。

  ひとたび支配的な思想が支配的な諸個人から、そしてとくに生産様式のあたえられた段階からうまれる諸関係からきりはなされ、そしてそれによって、歴史のうちにはいつも思想が支配するという結論ができあがったとしよう。そうなってしまえば、これら種々の思想から『思想というもの』(der Gedanke)や理念などを歴史における支配的なものとして抽象すること、そしてそれとともにすべてこれらの思想や概念をば歴史のうちに発展しつつある概念というものの『自己規定』(Selbstbestimmungen)としてとらえることは、きわめてやさしい。*そうすればまた、人間のあらゆる関係が人間の概念、表象された人間、人間の本質、人間というものからみちびきだされうるのも、当然である。これをしたのが思弁哲学だった。

ヘーゲルはみずから歴史哲学のおわりで告白している。自分は『概念の進展だけを考察し』(den Fortgang des Begriffs alleinbetrachten)、そして歴史のうちに『真の神義論』(wahrhafte Theodicee)を叙述した、と(p.446〔グロックナー版、第一一巻、五六九ページ〕)。そうなればまたもや『概念』の生産者たちのところまで、理論家やイデオロークや哲学者たちのところまでさかのぼることができるようになる。そしてそのとき、哲学者すなわち思考者そのものが昔から歴史のうえで支配してきたという結論に達する――この結論こそ、われわれがみるとおり、すでにヘーゲルによっても宣言されたものである。だから歴史のうちに精神の主権(シュティルナーでは位階制)を立証しようとするすべての芸当は、つぎの三つの骨おりにつきている。

  第一。経験的な理由から支配し、経験的な条件のもとに支配し、そして物質的な個人として支配する者たちの思想を、これら支配する者たちからきりはなし、このようにして歴史における思想または幻想の支配をみとめなければならない。

  第二。この思想支配のなかへ、ひとつの秩序をもたらし、あいつぐ支配的な諸思想のあいだに一つの神秘的なつながりを立証しなければならない。そしてこのことは、それらを『概念の自己規定』としてとらえることによってなしとげられる(これができるわけは、これらの思想がその経験的な基礎を介して現実的にたがいにつながりあっているからであり、またこれらがたんなる思想としてとらえられて、自己差別すなわち思考によってなされた差別となるからである)。

  第三。この『自分自身を規定する概念』の神秘的なみせかけをとりのぞくために、その概念を一つの人格――『自己意識』に転化させる。あるいはまた、おおいに唯物論的にみせるために、それをば歴史における『概念』を代表する一系列の人格に、『思考者たち』、『哲学者たち』、イデオロークたちに転化させる。そしてこれらの者は**またもや歴史の製造家たち、『***番人たちの評議会』(Der Rat der Wächter)、支配する者たちとしてとらえられる。このようにしておよそすべての唯物論的な要素を歴史からとりのぞいてしまって、いまやこころおきなく思弁の駒をはしらせることができる。

* この一句をマルクスはその前の句の高さの右の欄に書いたが、どこへ挿入さるべきかをしめしていない。

** 原稿では――これらの者を人はまたもや

*** この高さの右の欄へマルクスは書いた――

人間というもの=『思考する人間精神』。


  日常生活ではどんな商人でも、ある人が自称するところとその人が現実にあるところとを区別することを非常によくこころえているのに、われわれの歴史記述はまだこのありふれた認識にも達していない。それは、それぞれの時代が自分自身についてかたり想像するところのものを、ことばどおりに信じている。

  ドイツにおいて、支配したこの歴史方法そしてまたこれがとくにドイツで支配した理由は、一般にイデオロークたちの幻想、たとえば法律家や政治家(実践的な政治家をもふくめて)の幻想とのつながりから展開され、そしてまたこの連中の独断的な夢想やねじまげから展開されなければならない。これらの夢想やねじまげはかれらの実際的な生活上の地位やかれらの職業および分業から簡単に説明がつく。

――――――――――――――――


〔B イデオロギーの現実的土台〕


 〔1〕 交通と生産力

−p.73−

  物質的労働と精神的労働との最大の分業は都市と農村との分離である。都市と農村との対立は未開から文明への、種族制から国家への、地方分立から国民への移行とともにはじまり、そして文明の全歴史をつらぬいて今日(穀物法反対同盟(18))におよんでいる。都市の成立と同時に行政、警察、租税などの、つまり自治体制度の、したがってまた政治一般の必然性があたえられる。ここにはじめて、直接に分業と生産用具とにもとづくところの、二大階級への人口の分裂があらわれた。都市がすでに人口、生産用具、資本、享受、欲望の集積という事実をしめすのにたいして、農村はまさに反対の事実、すなわち孤立と分散をあらわしている。都市と農村との対立はただ私有制の内部でのみ存在することができる。それは、個人が分業のもとに、すなわちかれにおしつけられた一定の活動のもとに包摂されていることのもっとも甚だしい表現である。そしてこの包摂こそ、一方のものをかたよった都市動物に、他方のものをかたよった農村動物にし、そして両者の利害の対立を日々あらたにうみだすのである。労働はここでもまた主要点、すなわち個人に君臨する力(Macht über den Individuen)であり、この力が存在するかぎりは私有制も存在せざるをえない。都市と農村との対立の廃棄は共同社会の第一条件の一つである。そしてだれの眼にもすぐわかるように、この条件はそれ自身また一群の物質的な前提に依存していて、たんなる意志だけではみたされることができない(これらの条件はさらに究明されなければならぬ)。都市と農村との分離はまた資本と土地所有との分離としてもとらえられることができる。すなわち、たんに労働と交換とだけを土台とする所有であるところの資本が、土地所有から独立に存在し発展しはじめる端初としてもとらえられることができる。

  中世には、以前の歴史から既成のままでつたえられたのではなく、自由になった農奴たちからあらたにできあがった都市がある。これらの都市では、各人がたずさえてきた小資本、ぜひとも必要な手道具だけにつきるともいえるほどの小資本のほかには、各人の特殊な労働がかれの唯一の所有だった。たえまなく都市へながれこむ逃散農奴たちの競争、都市にたいする農村のたえまない競争、したがってまた組織された都市兵力の必要、一定の労働にたいする共同所有の紐帯、手工業者が同時に商人をかねた時代におけるその商品売買のための共同建築物の必要、これにともなってこれら建築物からの局外者のしめだし、個々の手工業相互のあいだの利害の対立、骨をおって身につけた労働の保護の必要、そして全土の封建的組織。これらが、それぞれの手工業の労働者たちを同業組合に団結させた原因だった。ここではわれわれは、その後の歴史的な発展によってまねかれた同業組合制度のいろいろな変更に、このうえたちいる必要はない。都市への農奴の逃亡は中世全体にわたってたえまなくおこなわれた。これらの農奴は、農村でかれらの領主にいじめられて、ばらばらに都市へやってきたが、ここには組織された自治体がすでにあって、これにたいしてはかれらは無力だった。そしてここではかれらは、かれらの労働にたいする需要と、都市におけるかれらの組織された競争者たちの利害とがかれらに指定するような地位に、あまんじなければならなかった。ばらばらにやってきたこれらの労働者たちがついに一つの勢力となりえなかったわけは、こうである。すなわち、かれらの労働がもし修行の必要ある同業組合式のものだったならば、同業組合の親方はかれらを自分たちに服従させ、自分たちの利益にそうように組織した。そうではなくて、かれらの労働がもし修行の必要のないものであり、したがって同業組合式のものではなくて日雇労働だったならば、ついにかれらは一つの組織をなさずに、未組織の賎民にとどまったのであった。都市における日雇労働の必要が賎民をつくりだしたのである。――これらの都市は真の『連盟』(Verein)であって、これは個々の成員の所有の保護と、かれらの生産手段および防衛手段との世話を倍加するという直接の必要によってうみだされたものだった。これらの都市の賎民はたがいに見もしらぬ、ばらばらにやってきた個人からできており、そしてこれらの個人は自分たちを執念ぶかく監視するところの組織され武装された力に未組織のまま対立していたため、かれらはなんの力ももたなかった。職人と徒弟はどの手工業においても親方の利益にもっともよくかなうように組織されていた。かれらが親方にたいしてもっていた家父長制的な関係は親方に二重の力をあたえた。というのは、一方では職人の全生活にたいする親方の直接の影響という点である。つぎには、その関係がおなじ親方のもとではたらいている職人たちにとって一つの現実的な紐帯となって、これがかれらを他の親方の職人たちにたいして結束させ、かれらをこれらの職人たちから分離させたからである。そして最後に、職人はみずから親方になるという利害関係をもっており、このことによってもすでに現存の秩序にむすびつけられていた。だから賎民は、その無力さのためなんの効果もなしにおわったとはいいながら、とにかくも都市の全秩序にたいする暴動をおこすにいたったのに、職人たちはたんに、同業組合制度そのものの存在をおびやかさないような小さな反抗運動を、個々の同業組合の内部でおこしたにすぎない。中世のおおきな蜂起はすべて農村からおこったが、しかしこれらもまた、おなじく農民の分散状態とその結果としての未熟さとのために、まったく不成功におわったのであった。

  都市における分業は、個々の同業組合のあいだではまだ〔*まったく自然成長的に〕おこなわれ、同業組合そのものにおける個々の労働者のあいだではまったくおこなわれていなかった。それぞれの労働者はひろい範囲の労働に熟達していなければならず、およそ自分の道具でつくれるものならば、なんでもつくることができなければならなかった。せまい交通と個々の都市のあいだのわずかな連絡、人口のとぼしさと需要のせまさは、それ以上の分業の出現をゆるさなかった。だから親方になりたいとおもう者は、だれでも自分の専門の労働とこれの熟練とにたいする関心がみうけられ、この関心がつよまって一種のかたよった愛芸心になることもあった。しかしそのためにまた中世の手工業者はみな自分の労働にまったく身をうちこんで、これにたいして気持ちのいい隷属関係をたもっており、そして自分の労働などにはかまわない近代労働者よりもはるかに労働のもとに包摂されていた。

* 用紙の縁がやぶれており、写真ではおりまげられていてみえない。

−p.77, l.3−

  これらの都市における資本は自然成長的な資本であって、これは住居と手道具と自然成長的な世襲の取引関係とからなっており、交通の未発達と流通の不十分さのために、金にかえられぬものとして父から子へつたえられねばならなかった。この資本は、近代資本のように、どんな物に投じられていてもかまわないような、貨幣で評価できる資本ではなかった。むしろそれは、直接に占有者の一定の労働とつながっていて、決してこれとはきりはなせないような、そしてそのかぎりにおいて身分的な資本だった。

  分業のそのつぎの拡大は生産と交通との分離であり、商人という特殊な階級の形成だった。この分離は歴史的にうけつがれた都市(ことにユダヤ人の住む都市)では一緒にひきつがれ、あらたにできた都市ではたちまちのうちにはじまったのである。これによって近隣以外におよぶ商業連絡の可能性があたえられた。しかしこの可能性の実現は、現存する交通手段と、政治的関係に左右される農村の治安状態と(周知のように中世全体にわたって商人は武装した隊商をなして遍歴した)、そして交通のおよびうる地域のそのときどきの文化段階に左右される需要の未熟または発達の程度とに、かかっていた。――交通が特殊な一階級に構成され、商業が商人によって都市の近辺以外へも拡大されるとともに、ただちに生産と交通との交互作用がおこってくる。諸都市はたがいに連絡をとり、あたらしい道具が一つの都市から他の都市へもたらされる。そして生産と交通との分業はやがて個々の都市のあいだにおける生産のあらたな分業をよびおこし、これらの都市はやがてそれぞれ一つの有力な産業部門を開設するようになる。地方的分立にとどまっていた当初の状態はだんだん解消されはじめる。

  中世ではどの都市における市民たちも、自己の一身をまもるためには、ぜひとも団結して土地貴族にあたらざるをえなかった。商業の拡大、交通路の開通のために個々の都市は、おなじ敵対者との闘争においておなじ利益をまもりぬいていた他の諸都市と知りあうようになった。個々の都市の多数の地方的な市民団(Bürgerschaft)から、はじめて市民階級(Bürgerklasse)がきわめて徐々にできあがってきた。個々の市民の生活条件は現存の諸関係にたいする対立とこれに制約される労働様式とによって、同時に、かれらすべてに共通であり各個人からは独立であるような条件となった。市民たちは、封建的な結合体から身をもぎはなしたかぎりでは、まずこれらの条件をつくりだしたのであり、かれらのまえにみいだされた封建制にたいする対立によって制約されていたかぎりにおいては、これらの条件によってつくりだされていたのである。個々の都市のあいだに連絡が生じるとともに、これら共通の条件は階級条件へ発展した。おなじ条件、おなじ対立、おなじ利害はまた大体においてどこにおいてもおなじような習俗を発生させずにはおかなかった。ブルジョアジーそのものは、かれらの条件とともにはじめて徐々に*発展してゆき、分業に応じてさらに種々の部類に分裂し、そしてついに、すべて既存の所有が産業資本あるいは商業資本に転化される程度に応じて、ついにあらゆる既存の有産階級を自己のなかに吸収してゆく(その反面、かれらは既存の無産諸階級の大部分と在来の有産階級の一部分とを一つのあたらしい階級、プロレタリアートへ発展させる)。個々の個人は、他の一階級にたいして共同の闘争をおこなわなければならないかぎりにおいてのみ、一つの階級をかたちづくる。しかしその他の点ではかれらは競争のうちでふたたびかれら自身たがいに敵として対立する。他方において階級はふたたび諸国民にたいして独立的なものとなって、その結果、かれらは自分たちのこれらの生活条件をば予定されたものとしてみいだし、自分たちの生活上の地位およびこれとともに自分たちの人格的発展をば階級から指定されたものとしてうけとり、階級のもとへの個々の個人の包摂とおなじ現象であり、そしてただ私有制と労働そのものの廃止によってのみとりのぞかれることができる。階級のもとへの個人のこの包摂が同時にまた各種の表象などのもとへの包摂へどういうふうに発展してゆくかは、われわれがすでにいくたびも暗示してきたところである。――

* ここから以下の数行の本文の右がわにマルクスは線をひいて、そのそばの右の欄に書いた――

かれらはまずはじめ国家に直属する労働諸部門を、つぎにすべての+−〔すなわち、おおかれすくなかれ〕イデオロギー的な諸身分を吸収する。

−p.80, l.1−

  一地方で獲得された生産力、ことに発明がその後の発展にとってうしなわれてしまうかどうかは、もっぱら交通のひろがりにかかっている。まだ直接の近隣以外へおよぶ交通が存在しないあいだは、それぞれの発明はそれぞれの地方で別々になされなければならず、そして蛮族の侵入のようなたんなる偶然事さえあれば、いや普通の戦争があるだけでも、生産力と需要との発展した国がはじめからもう一度やりなおさねばならないようになってしまう。歴史のはじめにはどんな発明も日々あらたに、そしてそれぞれの地方で独立になされなければならなかった。商業がわりあいによくひろがっているばあいでさえ、発達した生産力の全滅のおそれがどんなにあるかということは、フェニキア人*が証明している。かれらの発明の大部分は、商業からのこの国民の駆逐とアレクサンドロスの征服とその結果としての滅亡とによって、ながいあいだうしなわれてしまったのであった。**おなじく中世ではたとえばガラス画法がそうである。交通が世界交通になって、大産業を土台とし、すべての国民が競争戦にひきこまれるようになってからはじめて、獲得された生産力の永続は保証されるようになった。

* マルクスはフェニキア人のあとに右の欄に書きこんだ――

そして中世におけるガラス製法

** この文章をエンゲルスは右の欄へ書きいれた。おなじ欄にあるほとんどおなじ意味のマルクスの挿入を消さずに。

−p.81, l.1−

  種々の都市のあいだの分業がもたらした直接の結果は、同業組合制のなかから成長してきた生産部門であるマニュファクチュア〔工場制手工業〕の発生だった。マニュファクチュアの最初の開花――イタリアそしてのちにはフランドルでの――は、外国の諸国民との交通をその歴史的な前提とした。他の諸国――たとえばイギリスやフランス――では、マニュファクチュアははじめは国内市場だけにかぎられていた。マニュファクチュアは、うえにあげた諸前提のほかになお、すでにすすんでいる人口の集中――ことに農村での――および資本の集積を前提とするのであって、この資本は一部は同業組合法にもかかわらず同業組合のうちに、一部は商人のもとで個々人の手の内であつまりはじめたのであった。

  まだきわめて粗末な形のものではあっても機械をはじめから前提としていた労働こそ、もっとも発展力のあるものだということはすぐにわかった。織物業はいままでは農村で、自分たちの必要な衣服をこしらえるために、農村によって片手間にいとなまれていた。しかしこの織物業こそ、交通の拡大によって刺激をうけ一層の発達をうながされた最初の労働だったのである。織物業はマニュファクチュアとしては最初のものであり、その後もやはりもっとも主要なものだった。人口の増大につれて衣料への需要が増大したこと、速度をくわえた流通によって自然成長的な資本の蓄積と動産化がはじまったこと、奢侈の欲望がこれによってよびおこされ、一般に交通の漸次的な拡大によってそだてあげられたこと。これらのことは量的にも質的にも織物業に刺激をあたえて、このためそれはいままでの生産形態からぬけだした。自家用のために織物をする農民はやはり存続したし、まだ存続しているが、かれらとならんで都市には職工たちのあたらしい階級があらわれた。そしてかれらの織物は国内市場全体に、そしてまたおおくは国外市場にもむけられたのであった。――織物業は、おおくのばあいあまり熟練を必要としない労働であり、やがてかぎりなく多数の部分にわかれていった労働であって、その全性質のうえから同業組合の桎梏に反抗した。したがってまた織物業はおおくは同業組合的な組織なしに村落や市場町(Marktflekken)でいとなまれ、そしてこれらの地はだんだんに都市になり、しかもやがてそれぞれの国のもっともさかえた都市になったのである。――同業組合にしばられないマニュファクチュアの出現とともに、ただちにまた所有関係も変化した。自然成長的・身分的な資本をこえてゆく第一の進歩は商人の出現によっておこなわれた。かれらの資本ははじめから動産的であり、当時の諸階級のもとでそのようにいえるかぎりでは、近代的な意味での資本だったのである。第二の進歩はマニュファクチュアとともにやってきた。これもまた大量の自然成長的な資本を動産化し、そして一般に自然成長的な資本の量にたいする動産的な資本の量を増大させたのである。――マニュファクチュアは同時にまた、自分たちをしめだしたり自分たちに支払いのわるかったりする同業組合に対する農民たちの逃げ場ともなった。まえには同業組合都市が、〔*自分たちを圧迫する土地貴族〕にたいする逃げ場として農民たちに〔*役だった〕ように。

* 原稿のこの箇所はやぶれている。写真では用紙の縁がおりまげられていてみえない。


−p.83, l.1−

  マニュファクチュアのはじまりと同時に浮浪者群の時期がやったきた。これをひきおこしたのは、封建制家臣団の廃止、封臣に対抗して国王につかえていたところの合流した軍隊の解散、農業の改良、および牧場への広大な耕地の転化である。すでにここからも、この浮浪者群がどんなに緊密に封建制の解体とつながっているかはあきらかである。すでに一三世紀にもこの種の時期が個々にあらわれているが、一般的かつ持続的にこの浮浪者群が姿をあらわすのは、ようやく一五世紀のおわりから一六世紀のはじめにかけてである。これら浮浪者はおびただしい数にのぼって、なかでもイギリスのヘンリー八世は七二、〇〇〇人もの者を絞殺させたほどだ。そしてかれらが労働するようになったのは、非常な困難をへてからであり、極度の窮乏にせめられたため、しかもながいあいだの反抗のあげくであった。マニュファクチュアの急速な開花、ことにイギリスにおけるそれが、かれらをだんだんに吸収していったのである。――マニュファクチュアの出現とともに種々の国民が一つの競争関係すなわち商業戦にはいることになって、これは戦争や保護関税や輸入禁止の形でたたかいぬかれた。しかるに以前には諸国民は、かれらが連絡をたもっていたかぎり、たがいに悪意のない交換をおこなっていたのである。商業はこのときから政治的な意義をおびてくる。

  マニュファクチュアの出現と同時に、雇主にたいする労働者の関係に変化がおこった。同業組合には職人と親方との家父長的な関係が存続していた。しかしマニュファクチュアではそれにかわって労働者と資本家との貨幣関係があらわれた。この関係は、農村や小都市ではやはり家父長制の色彩をのこしていたけれども、一層おおきな本来のマニュファクチュア都市ではすでにはやくから家父長制の色彩をほとんどすべてうしなっていた。

  マニュファクチュアそして一般に生産の運動は、アメリカと東インド航路との発見とともにはじまった交通の拡大によって、すばらしい飛躍をとげた。そこから輸入されたあたらしい生産物、ことに大量の金と銀(これらは流通に投じられ、階級相互の地位を全体的に変化させ、封建的土地所有および労働者にひどい衝撃をあたえた)、探検隊、植民、そしてなによりもまず世界市場への諸市場の拡大(いまやこれが可能となって日ましに達成されていった)。これらのものは歴史的発展の一つのあたらしい局面をよびおこしたが、これについてはここでは一般にこれ以上たちいるわけにはゆかない。あらたに発見された土地への植民によって諸国民相互のあいだの商業戦は、あらたな営養をあたえられ、それに応じてそのひろがりとはげしさをくわえた。

  商業とマニュファクチュアとの拡大が動産的な資本の蓄積をはやめたのにたいして、なんら生産拡張への刺激をうけなかった同業組合では、自然成長的な資本は固定したままであったか、あるいは減少さえした。*商業とマニュファクチュアは大ブルジョアジーをつくりだしたが、同業組合には小市民層(Kleinbürgerschaft)が結集した。この小市民層はいまはもはや以前のように都市において支配力をもたず、おおきな商人やマニュファクチュア業者の支配に屈服しなければならなかった。したがって同業組合はマニュファクチュアと接触するやいなやくずれさった。

* ここから二、三行までの高さの右の欄にマルクスは書きいれた――

小市民

中間身分

大ブルジョアジー

−p.85, l.4−

  諸国民の交通における相互の関係は、われわれがのべた時期のあいだに二つのちがった姿をとった。はじめは、金銀の流通する量がすくないという条件のために、これら金属の輸出禁止がなされた。そして増大する都市人口に職をあたえる必要にせまられて大抵は外国から輸入されたところの産業は、特権なしにはやってゆけなかった。そしてこれらの特権はもちろん国内の競争にたいしてだけではなく、おもに外国の競争にたいしてあたえられることができた。同業組合の地方的な特権がこれら当初の禁止令となって全国民のうえへひろげられたわけである。関税は封建領主が自分の領地を通過する商人に、掠奪免除の代償として課したところの貢納から発生した。そしてこの貢納はのちに都市によっても同じく課されることになり、そして近代国家の出現にあたっては国庫にとって貨幣入手のためのもっとも手ぢかな手段になった。――ヨーロッパの諸市場におけるアメリカの金銀の出現、産業の漸次的な発展、商業の急速な飛躍、そしてこれによってよびおこされた同業組合的でないブルジョアジーおよび貨幣の興隆は、これらの方策に別の意味をあたえた。国家は、貨幣なしですますことが日々にむずかしくなってきたので、いまや財政上の見地から金銀輸出の禁止をつづけることになった。あらたに市場へ投じられたこの大量の貨幣をば暴利をえるための主要な対象としたブルジョアは、そのことに完全に満足だった。いままでの諸特権は政府にとって一つの財源となって、貨幣で売られた。関税立法には輸出税があらわれてきたが、これはただ産業のさまたげ〔*となる〕だけであって、純粋に財政的な目的をもつものだった。

* 写真では用紙の縁がおりまげられて、このため原文はみえない。


  第二の時期は一七世紀のなかばからはじまって、ほとんど一八世紀のおわりまでつづいた。商業と開運はマニュファクチュアよりも急速にひろがっており、マニュファクチュアは副次的な役わりを演じた。植民地は有力な消費者となりはじめ、個々の国民はひらけつつある世界市場をながいあいだの闘争を通じてわけどりした。この時期は航海条例(19)および植民地独占とともにはじまる。国民相互のあいだの競争は税率、禁令、条約によってできるだけ排除された。そして結局において競争戦は戦争(とくに海戦)によっておこなわれ、決せられた。海上でのもっとも強力な国民、イギリス人が商業とマニュファクチュアで優勢をたもった。すでにここに一国への集中がみられる。――マニュファクチュアの保護はいつでも国内市場では保護関税によってなされていた。自国で産出される原料の加工は助成され(イギリスにおける羊毛とリンネル、フランスにおける絹)、国内で産出される原料の輸出は禁止され(イギリスにおける羊毛)、そして輸入原料の輸出はおこたられるか、またはおさえられた(イギリスにおける綿花)。海上貿易と植民地勢力とにおいて優勢な国民が当然またマニュファクチュアの最大の量的および質的な拡張をも確保した。マニュファクチュアは一般に保護なしにはやってゆけなかった。なぜならそれは、きわめてわずかな変化が他の国々におこってもその市場をうしなって、ほろびてしまうことがあるからである。それはいくらか好都合な条件があれば一つの国にたやすくとりいれられたが、そのためにかえってまたたやすく破壊もされたのであった。それは同時に、とくに一八世紀に農村で経営されたような様式を通じて、おびただしい数の個人の生活関係に密着している。そのためにどの国も、自由競争をゆるすことによって、あえてこのマニュファクチュアの存在を賭けるわけにはゆかない。だからマニュファクチュアは、それが輸出をするようになっているかぎり、まったく商業の拡大または制限に左右されていて、〔*商業には〕比較〔*的に〕きわめてわずかな反作用をおよぼすだけである。一八世紀におけるそれの副次的な〔*意味〕はそのためであり、〔*商〕人の勢力もそのためである。なかでも、国家保護と独占をせまったのは商人そしてとくに船主だった。マニュファクチュアももちろんまた保護を要求し、獲得しはしたけれども、政治的な重要さにかけてはいつでも商人におよばなかった。商業都市、ことに海港都市はいくらか文明化されて大市民的になったのに、工場都市にはあいかわらず最大の小市民風が存続した。エーキン(Aikin)などを参照。一八世紀は商業の世紀だった。ピントー(Pinto)はこのことをはっきりいっている――『商業は世紀の寵児になった』そしてまた――『しばらくまえから商業、航海および海軍のほかはもう問題にならない〔原註〕』。

〔原註〕

資本の運動は、いちじるしく速度をくわえはしたけれども、やはりまだいつも比較的にゆるやかだった。世界市場が個々の部分にちぎられて各部分が別々の国民によって搾取されたこと、諸国民相互の競争が排除されていたこと、生産そのものがたどたどしかったこと、そして貨幣制度がやっと最初の段階から発展したばかりだったことは、流通をはなはだしくさまたげた。その結果として小売商人的な、きたならしくけちくさい気風がうまれ、これがまだすべての商人と商業経営の全様式とにこびりついていた。マニュファクチュア業者や、なおさら手工業者にくらべれば、なるほどかれらは大市民でありブルジョアであったが、つぎの時期の商人や産業家にくらべると、やはり小市民である。アダム・スミス参照。

* 原稿における脱落。

−p.88, l.11−

  この時期の特色はまた金銀の輸出禁止が解除されたこと、金融業、銀行、国債、紙幣、株式投資や公債投資、あらゆる商品の相場取引が発生したこと、一般に貨幣制度の完備がはじまったことである。資本は自己にまだつきまとっていた自然成長性の大部分をここでもまたうしなった。

  一七世紀には一国すなわちイギリスへの商業およびマニュファクチュアの集中がたえまなく進展しつつあったが、このような集中はこの国のためにしだいにひとつの相対的な世界市場をつくりだし、したがってまた、今までの産業上の生産力によってはもはやみたせないような需要をこの国のマニュファクチュアの生産物のためにつくりだした。生産力をおいぬいてしまったこの需要こそ、大産業――産業上の目的のための自然力の応用、機械設備およびもっとも拡大された分業――をうみだすことによって、中世以来の私有制の第三期をよびおこしたところの推進力だった。このあたらしい局面のそのほかの諸条件――国民の内部における競争の自由、理論力学の発達(ニュートンによって完成された力学は一般に一八世紀にはフランスおよびイギリスでもっとも普及した科学だった)などは、イギリスにはすでに存在していたのである。(国民そのものにおける自由競争もどこでも革命を通じてかちとられなければならなかった――イギリスでは一六四〇年および一六八八年に、フランスでは一七八九年に)。やがて競争のために、およそ自己の歴史的な役割をたもとうとした国は、どうしても自国のマニュファクチュアを関税方策の改新によって保護せざるをえなくなり、(ふるい関税は大産業にたいしてはもはや役にたたなくなった)、ついでまもなく保護関税のもとに大産業をとりいれざるをえなくなった。しかし大産業はこれらの保護策にもかかわらず競争を一般化し(大産業は実践的な商業自由であり、保護関税は大産業では一つの緩和剤にすぎず、商業自由のなかでの一つの対抗策にすぎない)、交通手段および近代的な世界市場をつくりあげ、商業を自己に従属させ、すべての資本を産業資本に転化させ、そしてそれとともに諸資本の急速な流通(貨幣制度の完備)および集中をうみだした。*それは一般的な競争によってすべての個人にかれらのエネルギーの極度の緊張をよぎなくさせた。それはできるだけイデオロギー、宗教、道徳などをうちこわし、そしてこれができないばあいには、これらをみえすいた嘘にしてしまった。それは、あらゆる文明国民とそのなかのあらゆる個人を自己の欲望の満足という点で全世界に依存させ、個々の国民のこれまでの自然成長的な排他性をうちこわし、そのかぎりにおいてはじめて世界史を生みだした。それは自然科学を資本のもとへ包摂し、そして分業から自然成長性の最後のみせかけをとりさった。それは、労働の内部で可能であるかぎり一般に自然成長性をうちこわし、すべての自然成長的な関係を貨幣関係に解消させた。それは、自然成長的な都市のかわりに、一夜のうちにうまれでた近代的なおおきな産業都市をつくりだした。それは、それがいりこんでいったところでは、手工業および一般にすべて以前の産業段階をうちくだいた。それは農村にたいする商業都市〔**の〕勝利を完成した。〔**それの第一の前提は〕自動的な体系である。〔**それの発展は〕大量の生〔**産〕力をうみ〔**だした〕が、これにとっては私〔**有制〕は一つの桎梏となった。ちょうど同業組合がマニュファクチュアにとって、またちいさな農村経済が発達途上の手工業にとってそうなったのとおなじである。これら生産力は私有制のもとではただ一面的な発展をゆるされ、大半は破壊力となり、そしてこれら多量の生産力は私有制のうちではまったく活用をみることができない。大産業は一般にいたるところで社会の諸階級のあいだに同一の関係をうみだし、そしてそれによって個々の国民性の特殊性をなくなした。そして最後に、それぞれの国民のブルジョアジーがまだ特別な国民的利害をもちつづけているのに、大産業は、どんな国民のもとでも同一の利害をもつところの、そして国民性がすでになくならされているところの一つの階級をつくりだした。これこそ、現実的に旧世界全体からまぬかれていると同時にこれに対立している階級なのである。大産業は、たんに資本家にたいする関係だけではな、労働そのものを、労働者にとってたえがたいものとする。

* 「それは」から「嘘にしてしまった」までの二つの文章は、これらにさきだつ文章のおわりの高さの、右の欄へエンゲルスが挿入符号なしで書きこんだもの。

** 原稿がそこなわれている。


  いうまでもなく、大産業は一国のどの地方でも同一の発達程度に達するわけではない。しかしながらこのことはプロレタリアートの階級運動をおしとめはしない。なぜなら、大産業によってうみだされたプロレタリアはこの運動の先頭にたって全大衆をひきずってゆくからであり、また大産業からしめだされた労働者はこの大産業によって大産業の労働者自身よりも一層わるい生活状態へつきおとされるからである。ちょうどおなじように、大産業の発達している国々は、多少とも非産業的な国々が世界交通によって、一般的な競争戦のなかへひきずりこまれているかぎり、これらの国々にたいして影響をおよぼす〔原註〕

〔原註〕

競争は、諸個人を集合させるにもかかわらず、たがいに孤立させる。たんにブルジョアばかりでなく、それ以上にプロレタリアを。だから、これらの個人が団結しうるまでにはながい時間がかかる。このばあい、このような団結のためには――これがたんに地方的なものにとどまってはならない以上――必要な諸手段すなわち大きな産業都市や安価で迅速な交通が大産業によってまずつくられていなければならない、ということは別としても。だからまた、これらの孤立した個人、そしてこの孤立化を日々に再生産する諸階級のうちに生きている個人に対立する組織された力は、ながい闘争ののちにはじめてうちまかされることができる。これと反対のことをのぞむのは、ちょうど、この特定の歴史的時代に競争など存在してもらいたくないとのぞんだり、あるいはまた、孤立者としての個人たちでは統制のきかないような諸関係などはわすれさってしまうがいいとのぞんだりするのとおなじことだろう。

  これら種々の形態はそれぞれまた労働の組織の、したがってまた所有の形態である。どの時代にも、欲望によって必要となっていたかぎりにおいて、現存の生産諸力の統合がおこなわれた。

――――――――――――――――



 〔2〕 所有にたいする国家および法の関係

−p.92, l.12−

  所有の最初の形態は古代世界においても中世においても種族所有であり、これはローマ人のばあいにはおもに戦争を、ゲルマン人のばあいには牧畜を条件とするものであった。古代の諸民族のばあいには、一つの都市にいくつかの種族が一緒に住んでいたために、種族所有は国家所有としてあらわれ、そしてそれにたいする個々人の権利はたんなる占有(possessio)としてあらわれる。しかしながらこの占有は、種族所有が一般にそうであるように、ただ土地所有だけにかぎられている。本来の私有は、古代人の場合も近代諸民族のばあいとおなじように、動産所有とともにはじまる。――(奴隷制と共同体)(ローマ市民法にもとづく所有権 dominium ex jure Quiritum(20))。かくて中世からでてきた諸民族のばあいには種族所有は、種々の段階――封建的土地所有、組合的動産所有、マニュファクチュア資本――をとおして、大産業と普遍的競争とを条件とする近代資本にまで発展する。これは、共同体のみせかけをすべてぬぎすてたところの、そして所有の発展にたいする国家のあらゆる作用を退けてしまったところの純粋な私有である。この近代的私有に近代的国家が対応する。この国家は租税を通じて次第に私有者たちに買いとられ、国債制度を通じて完全にかれらの手におちており、そしてその存在は、取引所での国債証券のあがりさがりの形で、私有者すなわちブルジョアが国家にあたえる商業上の信用にまったく依存するものになっている。ブルジョアジーはすでに、一つの階級であってもはやひとつの身分ではないという理由からも、どうしても自己をもはや地方的にではなく、国民的に組織し、自己の平均利害に一つの一般的な形態をあたえざるをえない。私有が共同体から解放されることによって、国家は市民社会とならんでそのそとにある一つの特殊な存在となった。しかしながらそれはたんに、ブルジョアがかれらの所有およびかれらの利益の相互保証のために、外部ならびに内部へむかって必然的に自分たちにあたえるところの組織の形態にほかならない。国家の独立性が今日まだみうけられるのは、わずかにつぎのような国々のばあいである。すなわち、身分が完全には階級にまで発展していず、先進諸国ではとりのぞかれてしまった身分がまだある役割を演じており、そして一つの混合物が存在しているような国々、したがって人口のどの部分もそのほかの諸部分を支配するところまではゆけないような国々である。ドイツのばあいがとくにそうである。近代国家のもっとも完成した例は北アメリカである。ちかごろのフランスやイギリスや北アメリカの著述家たちはみな、国家はただ私有のためにのみ存在するというような意見をのべているので、このことはまた普通の意識のなかへもいりこんでいる。

  国家は、支配階級の諸個人がかれらの共通利害を主張する形態、そして一時代の市民社会全体が集約されている形態である。だからその結果として、すべて共通な制度は国家によって媒介され、一つの政治的な形態をとることになる。そこから、まるで法律が意志に、しかも実在的な土台からきりはなされた意志すなわち自由な意志にもとづくかのような幻想がうまれてくる。そうなればまた法(Recht)もおなじく法律(Gesentz)に帰着させられてしまう。

  私法は私有と同時に自然成長的な共同体の解消から発展する。ローマ人のばあいには私有および私法の発展はそれ以上の産業上および商業上の結果をもたらさずにおわった。*というのは、その生産様式全体がかわらなかったからである。封建的共同体が産業と商業によって解消された近代諸民族のばあいには、私有および私法の成立とともに、さらに発展をなしうる一つのあたらしい局面がはじまった。中世において手びろい海上貿易をいとなんだ最初の都市、アマルフィ(21)こそ、また海上法をもつくりあげたのである。まずイタリアで、のちには他の国々で、産業と商業が私有をさらに発展させるやいなや、発達したローマ私法がすぐにまたとりあげられて、権威にまでたかめられた。あとでブルジョアジーがおおいに勢力をえた結果、諸侯がかれらの手をかりて封建貴族をうちたおすためにブルジョアジーの利害に心をくばるようになったとき、すべての国で――フランスでは一六世紀に――法の本来の発展がはじまった。そしてこれは、イギリスをのぞくすべての国で、ローマ法典を土台としておこなわれたのである。イギリスでも、私法がさらに発達するためには(ことに動産所有のばあいに)、ローマ法の諸原則がとりいれられねばならなかった(法が宗教とおなじく自分自身の歴史をもたぬことを、わすれてはならない)。

* この高さの右の欄にマルクスは書いた――

  (高利貸!)


  私法では現存する所有関係は一般的な意志の結果として表明される。使用と濫用の権利(Jusutendi et abutendi)そのものが表明するものは、一方では私有が共同体からまったく独立になったという事実であり、そして他方ではまるで私有そのものがたんなる私的意志すなわち物件にたいする任意処分権にもとづくかのような幻想である。もし*私有者が自分の所有、したがってまた自分の濫用権が他人の手へうつるのをみたくないならば、実際には濫用は私有者にとってきわめて明確な経済的限界をもっている。なぜなら一般に物件は、たんに私有者の意志にかかわらせてみるだけでは決して物件ではなく、交通においてはじめて、しかも法からは独立に、一つの物件になり、現実的な所有になるからである(哲学者たちが理念となづける一つの関係)。――**法をたんなる意志へ帰着させるこの法律的幻想は、所有関係がさらに発展すれば必然的に、ある人が物件を現実的にもたなくても物件にたいする法律上の権原をもちうるというようなところまでみちびいてゆく。たとえば、競争によって一つの土地の地代がなくされるとしよう。そうすればその土地の所有者は、使用と濫用の権利をもふくめて、たしかに土地にたいするかれの法律上の権原をもってはいる。しかし、もしかれがなおほかに自分の土地をたがやすにたるだけの資本を有していないときには、かれはこのような権原だけではどうにもならず、かれは土地所有者としてはなにも有してはいないことになる。法律家たちのおなじ幻想から、つぎのことも説明される。すなわち、個人がたがいに関係をむすぶのは、たとえば契約のようなものは、法律家たちにとってもどんな法典にとっても一般に偶然的だということ。また、これらの関係は法典にとっては、人が任意にむすぶこともむすばないことも〔***できる〕ようなもの、そしてその内容がまったく契約当事者たちの個人的な〔***随〕意に〔***もと〕づくようなものとみなされているということ。――産業および商業の発〔***展〕によってあたらしい〔****交〕通形態、〔****たと〕えば保険などの会社ができあがるたびごとに、法はいつもそれらを財産取得の様式のうちへとりいれることをよぎなくされた。

* ここから以下の高さの右の欄へマルクスは書いた――

哲学者たちにとっては関係理念。かれらが知っているのは『人間というもの』の自己自身への関係だけであり、それだからすべての現実的な関係はかれらにとっては諸理念となる。

** この高さの右へ欄にマルクスは書いた――

意志をこえた意志が現実的な等々。

*** 用紙がそこなわれている。

**** 用紙がそこなわれており、したがって原稿では欠落。


  歴史において問題となるのはいままで奪取(Nehmen)ということだけだった、という観念ほどありふれたものはない。野蛮人がローマ帝国を奪取するという。そしてこの奪取の事実でもって封建制への古代世界の移行が説明される。しかし野蛮人による奪取のばあいに問題となるのは、はたして略取される国民は近代諸民族にみられるように産業的生産力を発展させていたのだろうか、それとも、かれらの生産力はおもにかれらの結合および共同体だけに*もとづいているのだろうか、ということである。奪取はさらに、奪取される対象によって制約されている。証券として存在する一銀行家の財産は、奪取する者が奪取される国の生産条件および交通条件に服従するのでなければ、決して奪取されることができない。近代的な産業国の産業資本全体もおなじである。そして最後に奪取はどこででもたちまちにゆきづまり、そしてもはや奪取すべきものがなくなれば生産がはじまらなければならない。このように生産の必要がたちまちおこってくる結果として、そこに定住する征服者たちがとりいれる共同体の形態は、既存の生産力の発展段階に対応しなければならないし、もしまた最初からはそれができないとすれば、生産力に応じて変更されなければならない。ここからまた、あの民族移動の時代にいたるところでみうけられたといわれる事実、すなわち下僕が主人となって、征服者が征服された者から言語や教養や風習をたちまちにうけいれたという事実も、説明されるわけである。封建性は決してドイツから既成のものとしてもちこまれたのではない。かえってそれは、征服者のがわからいえば、征服そのもののあいだにおける兵制の**軍事組織のうちにその起源をもっていた。そして征服後にこの軍事組織が、征服された国々のうちにすでに存在していた生産力の影響によって、はじめて本来の封建制にまで発展したのである。どれほどまでこの形態が生産力によって制約されていたのかは、古代ローマのなごりをとどめる別な諸形態をつらぬこうという試みが、失敗におわったのをみればわかる(シャルルマーニュ大帝など)。

* 原文では「生産力」の複数形にもかかわらず「もとづいている」が単数形でうけられている。

** 原文では――軍事組織のうちへ〈によってはじめて〉



 〔3 自然成長的および文明化された生産用具と所有形態〕

−p.98−

  *みいだされる。第一のものからは発達した分業と拡大された商業との前提が、また第二のものからは地方性がでてくる。第一のものにおいては諸個人は終結されていなければならず、第二のものにおいてはかれらはあたえられた生産用具とならんで自分も生産用具として存在する。したがってここに自然成長的な生産用具と、文明によってつくりだされた生産用具との区別があらわれてくる。耕地(水など)は自然成長的な生産用具とみなされることができる。第一のばあいの自然成長的な生産用具においては個人は自然のもとへ、第二のばあいには労働の生産物のもとへ包摂される。したがって第一のばあいには所有(土地所有)もまた直接的な自然成長的な支配としてあらわれ、第二のばあいには労働の、特に蓄積された労働すなわち資本の支配としてあらわれる。第一のばあいの前提は、諸個人が家族にせよ種族にせよ土地そのものなどにせよなんらかの紐帯によってむすびあっているということであり、第二のばあいの前提は、かれらがたがいに独立であって交換によってのみつなぎあわされているということである。第一のばあいには交換はおもに人間と自然とのあいだの交換、すなわち前者の労働が後者の生産物と**ひきかえられる交換であり、第二のばあいはおもに人間相互のあいだの交換である。第一のばあいには平均的な人智でたくさんであり、肉体的活動と精神的活動とはまた全然わかれていないが、第二のばあいにはすでに肉体的活動と精神的活動との分割が実践的になしとげられていなければならない。第一のばあいには非所有者にたいする所有者の支配は人的な諸関係すなわち一種の共同体にもとづくことができるが、第二のばあいにはそれは第三者すなわち貨幣となって一つの物的な姿をとっていなければならない。第一のばあいには小産業は存在するけれども、自然成長的な生産用具の利用のもとへ包摂されており、したがってまた種々の個人への労働の配分をともなわない。第二のばあいには産業はただ分業にのみ、そして分業によってのみ存するのである。

* ここにつづく文章のはじまりは、エンゲルスが八三の番号をつけた用紙に三六〜三九というマルクスのページづけ(両方の数をふくめて)がつけられて、書かれていたはずだけれども、欠落している。

** 原文では単数形であるべき「ひきかえられる」が複数形になっている。


  *だからここに二つの事実がしめされる。第一に、生産力は個人たちからまったく独立な、ひきさかれたものとして、個人たちとならぶ独自な世界としてあらわれる。その根拠は、自分たちの力こそ生産力であるところの個人たちが分裂したままたがいに対立して存在するということ、しかも他方ではこれらの力はただこれら個人の交通と連関のうちにおいてのみ現実的な力になるということにある。だから一方には生産力の総体があって、これらの生産力はいわば一つの物的な姿をとっており、個人そのものにとってはもはや個人の力ではなくて私有の力であり、したがって個人が私有者であるかぎりにおいてのみ個人の力であるにすぎない。以前のどんな時期にも生産力が個人としての個人の交通にたいしてこんな無縁な姿をとったことはなかった。というのはかれらの交通そのものがまだせまいものだったからである。他方ではこれらの生産力にたいして個人の多数者が独立している。そしてかれらからはこれらの力はひきさかれ、したがってかれらはあらゆる現実的な生活内容をうばいさられて抽象的な個人になってしまっている。しかもかれらはそのことによってはじめて、個人としてたがいに結合できるようにされるのである。

* この高さの右の欄にエンゲルスは書いた――

シスモンディ

  かれらがまだ生産力および自分自身の生存とつながっている唯一の連関すなわち労働は、かれらのもとでは自己活動のあらゆるみかけをうしなってしまい、ただかれらの生活をみじめにすることによってのみこれを、維持するにすぎない。以前の諸時期に自己活動と物質的活動と物質的生活の産出とがわかれていたのは、これらがそれぞれ別な人々にぞくしたからであり、そしてまた物質的生活の産出が個人そのもののせまさのためにまだ自己活動の従属的な一方式とみなされたからであった。しかるにいまはそれらはばらばらになってしまって、一般に物質的生活が目的としてあらわれ、この物質的生活の産出すなわち労働(これがいまでは自己活動の唯一の可能な、しかしわれわれのみるように、否定的な形態である)は手段としてあらわれるようになっている。

  だからいまは個人は、たんにかれらの人格に到達するためばかりでなく、そもそもかれらの生存を確立するためにも、現存の生産力の総体を領有しなければならないところまできている。まず第一にこの領有は領有さるべき対象によって――すなわち一つの総体にまで発展をとげて普遍的な交通の内部でのみ存在するところの生産力によって制約されている。だからこの領有は、すでにこの面からみても、生産力と交通とに対応する普遍的な性格をもたなければならない。これらの力の領有は、それ自身、物質的生産用具に対応する個人的能力の発展にほかならない。生産用具の総体の領有は、すでにこの理由からも、個人そのもののうちにある能力の総体の発展である。さらにこの領有は領有する個人によって制約されている。あらゆる自己活動から完全にしめだされている現代のプロレタリアだけがかれらの完全な、もはやかぎられない自己活動を実現できるのであって、このような自己活動は生産力の総体を領有するところに、そしてこれとともに能力の総体が発展しはじめるところに存するのである。すべていままでの革命的領有はかぎられたものだった。そして個人の自己活動は制限された生産用具と制限された交通によってかぎられていて、かれらはこの制限された生産用具を領有したのであり、したがって一つのあたらしい制限状態にたどりついたにすぎない。かれらの生産用具は自己の所有となったけれども、かれら自身はあいかわらず分業と自分自身の生産用具とのもとに包摂されていた。すべていままでの領有のばあいには個人大衆はあいかわらず唯一の生産用具のもとに包摂されていたのであった。しかしプロレタリアの領有のばあいには大量の生産用具が各個人のもとに、そして所有が万人のもとに包摂されなければならない。近代の普遍的な交通は、万人のもとに包摂されることによってでなければ、決して個人のもとに包摂されることはできないのである。――さらにまたこの領有は、それがなしとげられねばならない方法によって制約されている。それはただ、団結――プロレタリアートそのものの性格によってやはり普遍的なものであるほかはない団結と、そして革命によってのみ、なしとげられることができる。そしてこの革命では、一方これまでの生産様式ならびに交通様式と社会的編成との力がうちたおされ、また他方プロレタリアートの普遍的性格と領有の遂行に必要なエネルギーとが発展し、さらにプロレタリアートは、いままでのその社会的地位のためにまだかれらにつきまとっている一切のものをぬぎすてるのである。

  

  この段階になってはじめて自己活動は物質的生活と合致するが、このことは全体的個人への個人の発展およびあらゆる自然成長性の脱却に対応する。そしてそのとき労働が自己活動へ転化することと、これまでの制約された交通が個人としての個人の交通へ転化することとが、たがいに対応する。団結した個人たちによる総体的な生産力の領有とともに私有制はなくなる。いままでの歴史ではいつでも一つの特殊な条件が偶然的なものとしてんあれたのにたいして、いまこそ人の分立そのもの、各人の特殊な私的生業そのものが偶然的なものになってしまっている。

  もはや分業のもとに包摂されない個人を、哲学者たちは『人間』という名のもとに理想として心にえがき、そしてわれわれによって展開された全過程を『人間』の発展過程としてとらえてきた。その結果、それぞれの歴史的段階におけるいままでの個人たちのかわりに『人間』があてがわれて、これが歴史の推進力として記述された。*このようにして全過程は『人間』の自己疎外過程(Selbstentfremdungsprozess "des Menschen")としてとらえられるようになったが、このことは本質的には、後代の段階の平均的個人がいつでも前代の段階のかわりに、そして後代の意識が前代の個人たちのかわりにあてがわれることからおこってくる。この逆転はもともと現実的な諸条件を無視するものであって、歴史全体を意識の発展過程へ転化してしまうこともこのような逆転によって可能なのであった。

* この文章の右側にマルクスは傍線をひいて、そのわきの右の欄に記入した――

自己疎外

  最後にわれわれはここに展開された歴史観からなおつぎのような帰結をうる。すなわち、(1)生産力の発展において一つの段階があらわれてくる。この段階でうみだされるところの生産力および交通手段は、現存する諸関係のもとではただ災害をひきおこすだけであって、もはや生産力ではなく破壊力なのである(機械と貨幣)。――そしてそれと関連して、一つの階級がうみだされる。この階級は、社会の利益をうけることなしに社会のあらゆる重荷をおわなければならず、社会からおしだされ、あらゆる他の階級にたいするもっとも決定的な対立へおいやられる。この階級は、すべての社会成員のうちの多数者をかたちづくり、そしてそこから一つの根本的な革命の必然性についての意識すなわち共産主義的意識がでてくる。この意識はもちろんまた、この階級の地位を察知することによって、他の諸階級のあいだにもかたちづくられることができる。(2)*一定の生産力が活用されうるのをゆるすところの諸条件は、社会の一定の階級が支配する諸条件である。そしてこの階級の占有からうまれてくるその社会的な力は、そのときどきの国家形態にそれの実践的・観念論的な表現をもつ。それゆえあらゆる革命的闘争は、これまで支配してきた階級へむけられる。(3)すべていままでの革命では活動の方式はいつも手をふれられずにおわり、そして問題になったのはただこの活動の別な分配にすぎず、別な人々への労働のあらたな配当にすぎなかった。これに反して共産主義革命は活動のいままでの方式にたいしてむけられ、労働をとりのぞき、そしてあらゆる階級の支配をば階級そのものとともに廃棄する。というのはこの革命がなしとげられるのは、もはや社会において階級とはみなされず、階級としてはみとめられない階級によってであり、すでにいまの社会の内部においてあらゆる階級や国民性などの解消の表現となっているところの階級によってであるからである。そして(4)この共産主義的意識の大量的な産出のためにも、また事業そのものの貫徹のためにも、人間の大量的な変化が必要であり、そしてこれはただ実践的な運動すなわち革命においてのみおこりうるのである。だから革命が必要であるのは、たんに支配階級が他のどんな方法によってもうちたおされえないからだけではない。さらにうちたおす階級が、ただ革命においてのみ、いっさいのふるい汚物をはらいのけて社会のあたらしい樹立の力をあたえられるようになりうるからでもある。

* ここからはじまって数行にわたる原文の右がわにはマルクスの傍線がひかれていて、そのわきの右の欄にはつぎのように書かれている――

人々がいまの生産状態を維持することに関心をもっているということ。

――――――――――――――――


〔C〕共産主義。――交通形態そのものの生産

−p.108−

  共産主義がいままでのすべての運動とちがうのは、つぎの点である。すなわちそれは、すべてのいままでの生産関係ならびに交通関係の基礎を変革し、すべての自然成長的な前提をはじめて意識的にいままでの人間の創造物としてとりあつかい、それらの前提の自然成長性をはぎとって、結合した個人たちの力にそれらを服従させるのである。したがって共産主義の建設は本質的に経済的であって、この結合の諸条件を物質的につくりだすことである。それは既存の諸条件をば結合の諸条件とする共産主義がつくりだすところの現存物こそ、個人から独立したすべての現存物を、この現存物がやはりなお個人そのもののいままでの交通の産物にほかならないかぎりにおいて、不可能にしてしまうための現実的な土台なのである。だから共産主義者たちは実践的に、いままでの生産および交通によってうみだされた諸条件を、非有機的なものとしてとりあつかう。しかしながらかれらは、かれらに材料を提供することがいままでの諸世代の計画または使命だったとは想像しないし、またこれらの諸条件がこれらをつくりだした個人たちにとって非有機的だったとも信じない。人格的な個人と偶然的な個人との区別は概念上の区別ではなくて、一つの歴史的な事実である。この区別は時代がちがえばちがった意味をもってくる。たとえば身分は一八世紀には個人にとってある偶然的なものであり、家族もまた多少ともそうだった。それは、われわれがそれぞれの時代にかわってしなければならない区別だけではなく、それぞれの時代がそこにみいだす種々の要素のあいだに自分でする区別、しかも概念に応じてではなく物質的な生活上の衝突にせまられてする区別である。前代とは反対に後代にとって偶然的としてあらわれるもの、したがってまた前代から後代にひきつがれた諸要素のうちでも偶然的としてあらわれるものは、生産力の一定の発展に対応していた交通形態である。*交通形態にたいする生産力の関係は諸個人の行動または活動にたいする交通形態の関係である。(この活動の基本形態はもちろん物質的なものであって、これに他のあらゆる精神的、政治的、宗教的などの活動形態が依存する。物質的生活の種々の形成は、もちろんその都度、すでに発展している欲望に依存している。そしてこれら欲望の産出ならびに満足はそれ自身一つの歴史的な過程であって、これは羊や犬にはみうけられない〈人間にさからっての《adversus hominem》シュティルナーの片意地な主要論拠(21)〉。なるほど羊や犬もその現在の姿では――ただしその意にかかわりなく《malgré eux》――一つの歴史的な過程の産物にはちがいないけれども)。**矛盾がまだおこってこないあいだ諸個人がたがいに交通しあうばあいの諸条件は、かれらの個性に属する諸条件であり、かれらにとってなんら外的なものではない。そしてそれらは、一定の諸関係のもとに生存するこれら一定の諸個人が、かれらの物質的生活およびこれにつながるものを生産しうるための唯一の諸条件である。したがってそれらはかれらの自己活動の諸条件であり、この自己活動によって生産されるのである。だからかれらが生産するばあいの一定の条件は、矛盾がまだおこってこないあいだは、かれらの現実的な被制約性、かれらの一面的な存在に対応する。そしてこの存在の一面性は矛盾の到来によってはじめてしめされ、したがって後代の人々にとって存在するようになる。そのときこの条件は一つの偶然的な桎梏としてあらわれ、さらに、それが桎梏であるという意識が前代にもあてがわれることになる。――これら種々の条件は、はじめは自己活動の条件としてあらわれ、あとではそれの桎梏としてあらわれたが、歴史的発展全体のうちではひとつながりの系列の交通諸形態をかたちづくる。これら諸形態のつながりは、桎梏となった前代の交通形態のかわりに、一層発展した生産力に――したがってまた諸個人の自己活動の一層進歩した方式に対応する一つのあたらしい交通形態があらわれ、今度はこれがまた桎梏となって、さらに他の交通形態にとってかわられるというところにある。これら諸条件はそれぞれの段階において生産力の同時的な発展に対応するから、これら諸条件の歴史は同時にまた、発展をしながらそれぞれのあたらしい世代によってうけつがれてゆく生産諸力の歴史、個人みずからの諸力の発展の歴史でもある。

* この文章の右がわにマルクスは傍線をひき、そして「自己活動」を訂正して「行動または活動」とした。

** ここから「生産されるのである」までの箇所にたいしてマルクスは右の欄に書いた――

交通形態そのものの生産

  この発展は自然成長的におこなわれる。すなわち、自由に結合した諸個人の綜合計画にはしたがっていない。だからそれは種々の地方、種族、国民、労働部門などから出発し、これらのものはそれぞれ最初は他のものから独立に発展し、あとになってから次第に他のものとむすびつくようになる。さらにこの発展はきわめてゆるやかにしかおこなわれない。種々の段階および利害は決して完全には克服されず、ただ勝利する利害に従属されられるだけであり、そしてなお数百年にわたってこれのかたわらにいきのびていく、ここからつぎの結論がでてくる。すなわち、一つの国民の内部においてさえ諸個人は、かれらの財産関係を別としても、まったくちがった発展をたどる。そしてさらに前代の利害は、その特有な交通形態がすでに後代の利害にふさわしい交通形態によっておしのけられてしまっていても、なおながいあいだ、個人にたいして独立化されたみせかけの共同体(国家、法)のうちに一つの伝統的な力をもちつづけてゆく。この力は結局はただ革命によってのみ打破されうるのである。ここからまたつぎのことも説明される。すなわち、より一般的な概括をゆるすような個々の点からみて、なぜ意識がときどき同時代の経験的諸関係よりもさきへすすんでいるようにみえることがあるのか、したがって後代の闘争において前代の理論家たちが権威としてよりどころとされうるのかということである。――これに反して北アメリカのように、すでに発展した歴史上の時期に最初からはじめる国々では、発展はきわめて急速におこなわれる。このような国々は、そこへ移住する個人たち、しかもふるい国々の交通形態が自分たちの欲望に対応しないために移住することになった個人たちのほかには、なにも自然成長的な前提をもたない。だからそれらの国々はふるい国々のもっとも進歩した個人たち、したがってこれらの個人に対応するもっとも発展した交通形態をもってはじめる。この交通形態がふるい国々ではまだ実現されえないうちに〔原註〕。このことは、たんなる軍事基地や商業基地でないかぎり、すべての植民地についていえる。カルタゴやギリシャ植民地や一一および一二世紀のアイスランドはその実例を提供している。征服のさいに、他の土地で発展した交通形態が征服された国へそのままもちこまれるばあいにも、おなじような関係がうまれる。この交通形態はその本国ではまだ前代からの諸利害や諸関係につきまとわれていたのに、ここではそれは、征服者たちに永続的な力を保証するためにだけでも、完全にそして障害なしに実現されることができるし、またされなければならない(ノルマン人による征服以後のイギリスとナポリ、ここでは征服者たちは封建的組織のもっとも完成した形態をえた)。

〔原註〕個々の国民に属する個人の人格的エネルギー――ドイツ人とアメリカ人――エネルギーはすでに人種の混血によってもうまれる――したがってドイツ人はクレチン病的(23)だ――フランスやイギリスなどでは異民族がすでに発展している土地へ、またアメリカではまったくあたらしい土地へ移民されたが、ドイツでは自然成長的な住民がしずかに安住をつづけていた。

  したがって歴史上のあらゆる衝突は、われわれの見解からいえば、生産力と交通形態とのあいだの矛盾のうちにその根源をもっている。ただしこの矛盾が一つの国で衝突へみちびくためには、それがこの国自身のなかで極度にまでおしすすめられている必要はない。産業の一層発展した国々との競争が国際的交通の拡大によってよびおこされれば、このような競争だけで、産業の発展がおくれた国々のなかにもおなじような矛盾が十分にうみだされる(たとえばドイツにおける潜在的なプロレタリアートはイギリス産業との競争によって表面化された)。